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第一章:「その夜、戦争はまだニュースだった」
【開戦前夜】
「お父さん、また演習だってさ。今度はベラルーシにも兵力を動かしてるって」
テレビからは、ニュースキャスターの冷静な声。
妻・ナターリヤは、ソファに座ってカップを手にしていた。
画面には、**“ロシア軍、国境付近での演習を強化”**という字幕。
イヴァン・サフチェンコは、窓の外を見つめながら黙っていた。
家の向こう、ドニエプル川の流れは、静かだった。
「演習か……」
声にならない言葉が喉の奥で渦を巻く。
数年前の記憶が甦る。
クリミア。
ドンバス。
あのときも、最初は「訓練」だった。
軍服を着ない“誰かたち”が現れ、気づけば街が囲まれ、国境が動いていた。
「……戦争ってのはな」
と、彼は呟いた。
「いつだって、平和の顔してやってくるんだ」
ナターリヤが静かに顔を上げる。
「……今回は?」
少しの間、イヴァンは何も言わなかった。
湯気の立つ紅茶の向こうに、妻の目がじっと見つめている。
「……あいつらなら、またやりかねん」
風が窓を軽く叩いた。
テレビでは、外務省の報道官が「西側の過剰反応だ」と笑っていた。