一寸の虫にも
夜も更けて少し風が出てきた。
雨戸のすき間から流れ込んだ夜気に、行灯の火が揺れている。
その光に誘われたのであろう屋敷うちへ迷い込んだ一匹の蛾が、先ほどから宿直の間の天井をうるさく飛びまわっていた。
「……深手を負っていた物頭の佐々木殿がついに息を引き取られた。先だっての騒動で命を落としたのは、これで八名となりもうした」
闇をなめる仄明りを、壮年と見える三人のさむらいが囲んでいる。
そのうちのひとり、関惣左衛門が酒くさいため息をついた。
「佐々木殿はこのあいだご息女が嫁がれたばかりと聞く。孫の顔を見るのをあんなに楽しみにしておられたのに、まこと、むごいことよのう」
盃を持ちあげ口まではこびかけたが、中身が空になっていることに気づく。
すかさず対面にすわる浅田藤五が、無言で銚子をむけてきた。
「おっ、すまぬな」
藤五のついだ酒をひといきで干して、惣左衛門がつづける。
「けっきょくあの騒動では、斬り死にをしたものが八名、手傷を負ったもの十五名、その大半は傷が深く明日をも知れぬ命だ。なぜわしらが、このような目に遭わねばならぬのであろうのう」
「仕方あるまい」
最後のひとり桶川一馬が吐き捨てるように言った。こちらは先ほどから手酌でやっている。
「これも禄を食むものの宿命というやつだ。悪人の家来もまた悪人とみなされる、しょせんおなじ穴のむじなということよ」
「しかしなあ、たまたまお仕えした殿があのようなおかたであったというだけで、われらとてべつに悪事に加担したくて当家へ奉公したわけではないぞ」
「宮仕えの悲しさよ。いやなら禄を返上しろということさ」
「簡単に言ってくれるな」
下戸の藤五が、めずらしく酒を舐めながら言った。
「おぬしのように独りものならいざ知らず、わしには妻も子もあるのじゃ。老いた両親の面倒も見てやらねばならぬ。とてもじゃないが浪人などするわけにはゆかぬ」
惣左衛門がうなずく。
「うむ、わしも浪人しておったから分かるぞ。米びつが空になったときの、あのなんとも言えぬ無力感、腹をすかせて泣く子どもを叱りつけ、内職の傘を張りつづける毎日。もうあんな暮らしには戻りたくない。腐っても二千石の大身、殿にお仕えするよりわれらに生きるすべはないのじゃ」
慣れない酒に顔を赤くしながら、藤五が弱気な声で言った。
「悪人退治もけっこうだが、そこらへんのところを斟酌してくれても良さそうなものだがなあ……なんと言ったか、ほれ、あのひたいに三日月のある派手な出で立ちのさむらい」
「さおとめ――もんどのすけとか言いましたな」
「そうそう、早乙女主水之介」
藤五がひざを打った。
「あのとき、われら三名はたまたま非番だったゆえに命を拾ったが、斬られたもののなかには当家に仕えたばかりで、なぜ自分が死なねばならぬのか理解できぬまま命を落としたものもおったであろうに」
「われらが同輩を大根のように斬り捨ておって、正義の味方が聞いてあきれるわ、とんだかぶき者よ」
酒に飽きたのか、一馬がたばこ盆を引き寄せながら言った。
「今回は八人で済んだが、一昨年に起きた騒動のおりにはもっと多くのものが命を落としたらしいぞ」
藤五が身を乗り出す。
「初耳ですな、それはまことでござるか?」
「うむ、外聞が悪いので箝口令がしかれたらしく、われら新参のものには知らされておらぬが、そのときは中間茶坊主もふくめ、居合わせた家中のもの二十七名が、撫で斬りにされたそうじゃ」
「なんと」
「たしか、桃から生まれた桃太郎とかふざけたことを抜かす浪人者であったと聞くぞ。たくさんのものが斬り殺されたうえに、用人をつとめていた堀田なにがしという忠義のご重臣までもが、騒動の責を負って詰め腹を切らされたということじゃ」
「むごいのう……二十七人撫で斬りとは」
「殿に、くせものじゃー出会えーっと言われれば、家来として立ち向かわぬわけにはいかぬではないか」
惣左衛門が腕を組んで瞑目した。
「いずれにせよあの殿のご気性からして、いつまたおなじような騒ぎに巻き込まれぬとも限らぬ。いざというとき醜態をさらさぬよう、覚悟だけは決めておいたほうが良さそうじゃな」
「いかさま、左様じゃな」
三人はしんみりとうなずき合った。
と、そのとき廊下の向こうから入り乱れる複数人の足音が近づいてきた。
聞き覚えのあるだみ声が、割れ鐘のごとく屋敷内に響きわたる。
「くせものじゃあ、皆のもの、出あえ出あえーっ!」
それはまぎれもない、惣左衛門たち三人が仕える大身旗本、奥野将監の声だった。悪徳商人と結託して密貿易に加担し、不逞浪人どもをかり集めて幕府転覆をもくろむ悪漢である。
ドタドタとあわただしく廊下を駆けまわる足音が迫ってくる。
その音に混じって、矍鑠たる老人の声が高らかに言った。
「すけさん、かくさん、遠慮は要りませんぞ、この悪党どもを徹底的に懲らしめてやりなさいっ」
惣左衛門が、おどけた調子で肩をすくめた。
「やれやれ、言っているそばからこれじゃ」
藤五が、ひとみを険しくしてうなずく。
「ついにわれらの番となりもうしたな」
一馬が、さっと居ずまいを正した。
「いずれ腕の立つ正義の味方に相違あるまい。おのおのがた、これにてお別れでござる」
三人はうなずき合い、それぞれ盃を手にとって掲げた。
「いずれ地獄で会いましょうぞ」
障子戸の外ではすでに激しい剣戟の音と、家中のさむらいの断末魔が聞えはじめている。
三人は同時に酒をあおると、刀をつかんで立ちあがった。
「いざ参らんっ」