第1幕 5.囚われた偽りの巫女
【 聖なる巫女は全てを捨てた 】
「行くなんて、どうして言ったんだよ!」
ダリアンが宮殿の中庭でお茶を飲んでいたときだ、弟のアデルが大声をあげ、凄い剣幕でやって来た。
やわらかい草の上に円い絨毯を広げ、セタールを爪弾いていた彼女の指が止まった。
「のんきに楽器なんか触ってる場合?」
「いきなり、なんなの」
ダリアンは自分と同じ菫色の瞳をした弟を見上げた。高い鼻梁や綺麗な口元が数年前に病で亡くなった母と似ている。
また、背が伸びたかしら?
「イルファンの狙いはこの領土だ。姉さんが行ったところでいつかは争いをしかけてくるにきまっている!」
「ああ、その話……」
「その話だよ、勝手に決めるなんて!」
「イルファンはバルフが怖いのよ、ジン(魔神)の住む森を持ってるから」
「バルフにはジンがいる、ジンを操るリュトン(聖杯)がある!それを扱える巫女もいる!」
「ええ、そうね」
「だから、イルファンが偉そうに、姉さんをよこせなんて、言えるわけがないんだ!」
「私だって、いつかは何処かに行かなきゃならないんだから」
「行く必要なんてないだろ!姉さんはリュトンの巫女じゃないか!ちゃんとここにいてバルフを守らなきゃならないんだ、そうじゃないの?!」
「アデル、そこに座って少し落ち着いたら……」
「わかった、とことん話そうじゃない。お茶、入れてよ」
ドカっ、とアデルはダリアンの前に胡座をかいた。
宮殿の東パティオ(中庭)は四方を回廊で囲まれた王族専用の小さな庭だった。回廊に絡んだイバラの白花が見頃を迎え、あたりは清々し香りに満たされている。
時折、中央の水盤を越えてくる風が涼風を運んでくるので心地よい。
「リュトンは争いのための道具じゃない、ジンもそう、彼らは自由だわ」
「バルフとジンはひとつだ、ずっと昔から」
「そう、ジンは人が生まれる前からずっといた。私達は彼らに生かされてるだけよ」
「何言ってんの?だから僕の言った通りだろ?」
「違うわ、あなたにはまだわからない」
「また、僕を子供扱いする」
ダリアンはお茶を注いだグラスをアデルの前に置いた。
「あっつ!」
アデルの手からグラスが滑り落ちた。
【 棘のパティオ 】
「あっつ!」
アデルの手からグラスが滑り、絨毯に転がった。
「大丈夫!? すぐに冷やさなきゃ!!」
「全然、大丈夫!たいしたことないよ」
「だめよっ!傷でも残ったら……」
ダリアンは血相を変えて、アデルの腕を掴んだ。
「いいんだって」
「よくないの!」
ダリアンはアデルの腕を引っ張り水盤へと引っ張っていった。
「良くないの!あなたに傷をつけちゃいけない!!」
ダリアンは正気を失ったように、同じ言葉を繰り返していた。
「放して!!」
アデルが姉の手を振りほどいた。
「姉さん、僕は大丈夫だよ!ほら、なんともないって……」
アデルは自分の手を姉の目の前にかざしてみせた。
「本当に?」
「うん、大丈夫」
ダリアンは水盤の縁に手をかけたまま、ヨロヨロと地面へ膝を付いた。
「姉さん……あの日、森で何があったの?」
「……」
「だって、あの日から姉さんはリュトンを使わないじゃないか」
「リュトンは特別な時以外に使っちゃいけないの」
ダリアンは弱々しく答え下を向いた。
「おかしいよ、姉さんはしゅっちゅうジンを呼び出してたじゃないか」
「だから、そういうことはもうやめたの」
「……わかった、僕はまだ子供だから信用ならないんだね」
ダリアンは弟を見上げ、首をふった。
「そうじゃないわ……」
「もう、いいよ。どうしても行くってことだ」
「決まったことよ」
「……もし、イルファンが約束を反故にしたら、姉さんがいようと父上はやるべきことをするよ」
「それは当然だわ」
「それで、いいんだね?」
「ええ、覚悟なら出来てるから」
「……わかったよ」
アデルは最後に大きく頷きパティオから去って行った。
その日以来彼はとうとう1度もダリアンの前に現れなかった。