第1幕 1.囚われた偽りの巫女
【異国のバザールは危険がいっぱい❗】
宵の風に薔薇の香りが混じっている。
(なんだか、懐かしいな)
ダリアンは誘われるようにバザールの一角にある香屋へと足を向けた。
「いらっしゃい! 今日は北方から薔薇の練香が届いたばっかりさ、お嬢さんちょっと試してみるかい?」
「ほんとに?ちょっと、試すだけでもいい?」
「いいともさ、俺はケチ臭いことは云わねぇんだ」
店の主人が青い硝子で出来た丸い器をダリアンに差し出した。
「すごく綺麗な細工……」
硝子の器には細かい真珠の粒が花模様に散らされ、銀製の丸い蓋がついている。
「いい仕事だろ?これは俺の手作りよぉ」
「ほんと、腕がいいのね」
「そうだろ、ほら少し試してみなよ」
「じゃあ、少しだけ……」
主人が差し出した器の中には黄みをおびた乳白色の櫁蝋がたっぷりと入っていた。
ダリアンはそれを小指の先にほんの少しだけとり、手首の内側に移して鼻を近づけた。
「とてもいい香り、癒される……」
目蓋を閉じればまるで薔薇の園にいるようだ。
手首に鼻を近づけたまま長い息を漏らした。
「そうだろ?混ぜ物なんかひとつも入れちゃいねぇよ」
「わかるわ。でも、ちょっと大人っぽいかしら、私には……」
可憐な菫色の瞳が僅かにかげった。
「そんなこたぁ、ちっともねぇよ。良くお似合いよぉ!もう許嫁の1人や2人はいんだろ?」
「……」
ダリアンは何も答えず、ただ曖昧に微笑んだ。確かに16歳といえば、もう子供の1人や2人くらいいてもおかしくはない年頃だ。
「ええと、まぁ、お嬢さんならべっぴんさんだし、すぐにいい縁が来るはずだよ」
ダリアンは初めて「べっぴんさん」と言われたことが嬉しかった。
例えそれが腰の曲がった老人が商売上で使うお世辞だったとしても。
「ちょっとこれ、見せてもらえるかな?」
「ええ、旦那。それはジャスミン、それにちょいとばかり麝香を混ぜたものでして」
主人は新しい客に向かって愛想良く答えた。
ダリアンはランプの火色に煌めく硝子の小瓶たちをしばらく眺めていたが、そっと店先から離れた。
私には必要ないもの―――。
大通りの両側にはたくさんの物が溢れていた。
新鮮で瑞々しい香草。バジルやローズマリーのスッキリとした香り。
艶々と深紅に輝くルビーのような粒が溢れだしているのは、とれたてのザクロの果実だ。
スイカやメロンの大きくて立派なこと。山のように積まれた林檎。
ピチピチと粋の良い魚や海老。
羊の半身がテントの柱にぶら下がっていれば、その下では篭に入った七面鳥やキジが鳴いていた。
食べ物以外にも、衣類や食器、それに外国の珍しい美術品や工芸品も。
「ここにはなんでもあるのね」
ダリアンは物珍しそうにキョロキョロしながら通りの中央を歩いていた。
「危ないぞ!」
突然、誰かの声が背後から飛んできた。それに被さるような人々の悲鳴が。
「危ないぞ!」
「早く逃げろ!!」
ダリアンが振り返ると、黒く大きな山のような塊が物凄いスピードで向かってくるのが見えた。それは人や物を蹴散らしながら、ドカドカと重い足音と地響きをともないやってくる。
「水牛だ!」
誰かが叫んだ。
大きな角を持った野生の水牛が、バザールに迷いこんで来たのだ。
荷馬車よりも大きな水牛に蹴飛ばされたらひとたまりもないだろう。
「シっスィオっ!」
ダリアンは先程まで一緒にいた従者の名を叫んだ。
けれど、生憎その者は香屋に立ち寄る前に出した「メロンジュースを買ってこい」という命を受けていたため、この場に不在だった。
ダリアンはそのことを叫んだ後に思い出した。
「もう、スィオの役立たず!」
こうなったら自分でなんとかするしかない。
右か左へ避ければいいだけのこと。
わかっているが、恐ろしさからか体がまったく動かない。
(ダメだっ、私、死んじゃう!)
ダリアンはぎゅっと目をつぶった。
ドンッ!ボズッ、ゴロンッ、ドサッ!
ダリアンは何かの力によって、横方面へすっ飛ばされ、地面に転がった。
頭のすぐそばを、荒い鼻息と重い蹄の音が過ぎ去っていった。
目を開けると、そこには誰かの厚い胸板があった。
ダリアンは誰かの力強い腕の中にしっかりと抱え込まれていた。
洗い晒しの木綿のシャツが頬に当たっている。
そのさらりとした生地のすぐ下では、ドクンドクンと波打つ鼓動が感じられた。
潮の香りとそれに微かに酒の匂いがした。
「ぎゃあああ!!」
ダリアンの悲鳴に男は手を緩めた。
その隙に相手の胸を両手で強く突飛ばし、尻をついたまま後退した。
「私に触らないでっ!」
「酷いな、せっかく助けてやったのに」
そういって男は立ち上がった。
ダリアンは背が高くがっしりとした体格のその男を仰ぎ見た。
ボサボサの髪に、頬や顎にはうっすらと無精ヒゲがあり、野暮ったい感じの男だった。
質素な生成りのシャツに墨色のズボン。ズボンは脛の辺りまでまくられていた。
「俺の手を借りるつもりはないだろうな、そんな顔してる」
「ええ、その通りよ」
ダリアンは自力で立ち上がり男を見上げた。
男は右の目を細めダリアンを見下ろした。
もう片方の左目は大きな傷跡で塞がれていた。
「おい、俺は犯罪者か?人をそんなふうにみるもんじゃないぞ」
「だって、そうじゃないの。あなたの……その……傷を見れば」
「この傷が何の傷が知っているのか?」
「目をえぐられるのは……」
ダリアンはこの地方に伝わる残酷な刑罰を知っていた。