ー1話 One step from Hell
【翠、ごめんなぁ翠。せめてお前だけは・・・】
『朝木翠』の寡黙な父はそう残して、西暦2033年の『あの日』に死んだ。十歳の女の子が自分の記憶として刻み付けたのは、豹変して彼女に襲い掛かった軍の救急隊員三名を、大工の父がオープンエンドレンチ、すなわちただの工業用スパナで殴り殺した光景である。銃弾を受けた父の鳩尾から脈打ってこぼれた黒い泥が、覚えている限りでは最後の温もりだった。
─────────
空と水が光っている。2036年の春が訪れた頃、少女は十三歳になった。若い黒髪と翠の瞳を持って、翠という名前の女子が一人、かつて『ビル群』と呼ばれていた遺跡群に居た。
〔お買い上げありがとうございます〕
自立型AIの簡素な挨拶と、自動ドアの入退店音。足元の浸水したコンビニからは、今日も『紅しゃけ』のおにぎりとミネラルウォーターを買った少女が出てくる。彼女が澄んだ水溜まりを長靴で踏み鳴らすと、緑化した都市を映す水面が揺れる。人の消えた都市、四車線分の草原。ただし、コンビニの明かりは灯っていた。
「・・・お金、無くなってきた。」
ICカードの残高を示すレシートを眺めて、翠はレジ袋を片手に呟く。彼女は律儀に購入したおにぎりをすぐには食べないで、駅の方に向かって歩いた。四車線分の、草原である。そこで、都市が震える。
「ん、また地震。」
遠くの方で、古い橋が落ちているのが見えた。最近妙に増えて来た地震を、彼女はもう怖がらなくなっていた。
〔チャージ金額を入力してください〕
都心の駅は大きく倒壊しているものの、券売機周りの設備は未だに生きている。翠は一万円札を財布から抜き出して、券売機に飲ませる。入金したICカードをポケットにしまってから、今度は破損した券売機の内側に手を突っ込んだ。するとなるほど、一万円札が出てくる。先ほど翠が支払った一万円札は、券売機に飲ませたそばから彼女の手元に戻った。
「・・・よし」
『よし』じゃない。と、その指摘も正確である。が、全自動化された地下ライフラインだけが生き残ったこの都市に、彼女を違法者として咎める者はいなかった。彼女を咎める者も、教える者も、三年間で一人も出て来なかった。2033年の『異変』から、世界は言い表しようもないほど変わり果てていた。いつ崩れるか知れたものではない駅構内を出ると、すぐ外で湖の水面が輝いている。翠は地盤の傾いた畔に立って、覗き込んだ。
「・・・『ツナマヨ』にしても良かった」
湖の底の方に、水没した地下鉄のホームがよく見える。その上を大きな鮪の群れが泳ぎ去るのを眺めて、翠は声をこぼした。レジ袋に入っているのは、今日も彼女の好きな『紅しゃけ』のおにぎりである。彼女はあれが良いこれが良いと独り言をこぼしはするものの、結局ここ一年ほど同じものを買い続けているのだった。湖のほとりにポツンと設置してあるベンチに座って、昨日や一週間と一か月前、なんなら一年前と同じ手順で紅しゃけおにぎりの包装を開封するのである。
「・・・。」
父親譲りの寡黙さから、翠が食事中に何かを話すことはない。平素の独り言は彼女なりに何かしら重要なものを繋ぎ止めるべく、敢えて自主的にやってみている習慣であって、その必要を忘れる食事中の彼女こそ、本来の翠自身なのである。何か思ったことを口にするために、その何かを思う必要もない。そんなことをせずとも、食事中の彼女が『息』を忘れるようなことはない。何一つ焦ることもなく、彼女は今日もただぼんやりと、人の消えた都市の景色を眺めた。
Don`t worry.
かつて多くの人を運んでいた車両も、群青に沈んだまま安らかに眠っている。今やその上を大きな魚と小さな魚が泳いでいて、陽の光を微かに通した車内座席に紫の海藻が生育していたりもする。地下鉄の線路は光る湖底洞窟の骨格となって、そこかしこの駅と繋がっている。人の造り上げた、もしくは掘り下げた文明が、歪な形で自然へと還ったというのだ。何故海魚のマグロが淡水で群れを成すのかは、あまり気にならなかった。
おにぎりを食べ終えた翠は、ボトルのキャップを閉じる。バイオプラスチックの容器には、ミネラルウォーターが半分残っていた。
「・・・?」
立ち上がったところで、翠は湖の底に『蠢く影』を見る。
「ん」
何処からやって来たのだろうか。分からないが、翠の足は自然と動き出した。というのも、そこに『鯱』が居たからである。
Be attractive.
深い青の中で、鯱は大きく鰭を返した。命の躍動を見て取って、彼女は久々に身震いした。刺激のない毎日を過ごしてきた翠にとって、それは圧巻の光景だった。
「あっ──」
だから彼女は引き寄せられて、湖の淵で足を滑らせてしまったのである。
思わず閉じた瞼を開くと、彼女は水の中にいた。
瞳の色は翠、その翠の目に映るのが、陽の光を浴びて舞う水泡。浮かぶような心地で、翠の身体は確かに沈んでいく。白い群青の世界、そこに取り残される感覚があって、遂に翠を呑み込んでしまった。
──翠は息を忘れようとしていた。
三年の間、翠は何かを待ち続けていた。何一つ不自由のない光の湖に、翠はずっと溺れ続けていた。晴れた空はいつでも目の前に在って、それでも手が届かない。手が届かない処に在る空を、翠は見上げてばかりいた。電車は動けなくなったのに、湖の底で発車時刻を待っている。鯱は流木のように去り、電光掲示板はどれだけ待っても光らない。陸の上で溜め息を詰まらせていた時、日差しは鬱陶しいだけだったのに。水面越しの空はあまりにも輝いて、こんなにも息が苦しい。
翠はずっと、待ち続けていた。
───伸ばされたその腕が、彼女を抱いて引き上げるのを。
May God bless you.
「けほっ」
咳き込んだ翠の額を、フルフェイスヘルメットが覗き込んでいる。翠が三年ぶりに見る、自分以外の人の姿だった。
「・・・」
翠は髪を芝生に流して、睫毛の濡れたまま目を見開いた。ヘルメットはメモ帳を差し出して、翠に見えるように繰って見せた。
『大丈夫?』
メモ帳には、太いマーカーの字でそう書いてあった。
「・・・んん」
十三歳の翠は、上手く返事が出来なかった。三年間の記憶が、喉の奥からこみ上げてくる。十歳の六月、濡れた靴下を自分で乾かしたこと。十一歳の八月、浸水したコンビニのイートインコーナーで一日中、窓の外の明るい道路を眺めていたこと。十二歳の十二月、末端の赤くなった指先を、凍った街路でどうしようもないほど冷たく感じたこと。一人分のいただきますとごちそうさま。それが今、メモ帳の数文字を見ただけで、瞬く間に解けて混ざる。ずっと泣くことがなかったのは、きっと一人で泣くのが孤独な事だと知っていたからだ。その凍った涙が、たった一言で溶けていく。目頭が熱くなっていく。潤んでいく翡翠の瞳を、どうすることもできない。
「うぅっ」
フルフェイスは膝を立て、横たわる翠の黒髪をクシャクシャに撫でる。手袋越しに人の手の感触があって、翠は遂に泣き出してしまった。泣き出した翠の眼を、顔の見えないヘルメットが優しく覗き込んでいた。
just a little more.
「ん、と・・・」
『俺が何処の誰かって?』
「うん」
『教えない』
「・・・いじわる」
『いじわるじゃないよ』
湖畔のベンチ。手に持ったいちご牛乳は、翠にはちょっと甘すぎるくらいだった。
「・・・じゃあ、なんで喋らないの」
『仕事中は喋らないことにしてる』
缶コーヒーを持ったフルフェイスの男は、さっきから遠くの空を見ている。翠にはこの人が何処から来た誰なのか、また何のために来たのかさっぱり分からなかった。しかし、その厳かな雰囲気はどこか懐かしかった。硬い石か空の空気のような、無機質でとっつきにくい唐変木。幼少期からそういった相手に対してだけ、重たい翠の口がよく開いたものだった。
「なんでそうしてるの」
『教えないよ、面白くないもの』
「ふーん」
時間が止まったような沈黙が続く、鳥のさえずりも遮らないような会話だ。翠にはちょうどよかった。
「・・・」
『じゃあ何の仕事をしてるかって?』
「ん」
翠はホッとした。飲み物の好みは汲み取れなくても、言葉は汲み取っているらしい。
『そうだなぁ』
その人が隣で何か書くのを、翠がそっと覗き見ようとして───
───地面は揺れた。
翠の気付かない間に、フルフェイスはベンチを発っていた。落ち着かない素振りで地面の土を触ってから。男は素早く書いた文字を翠に見せた。
『悪いなお嬢さん
質問はあと一個までで頼む』
辺りを見渡して、何かを急ぎ始めているらしかった。翠はそれを察したが、すぐに男が去ってしまうような感覚に襲われると、俯いて深く考え込んだ。その末に、彼女は口火を切る。
「外の世界は、どうなってるの」
踏み出せずにいた、外の世界のこと。彼女が一番に聞きたいことはそれだった。
『知りたいのか?』
「知りたい」
『本当に?』
「ほんとのほんとう。」
わざわざページを何枚も使ってもったいぶるフルフェイス男を、翠は少し不審に思った。男はヘルメット越しに後頭部を掻いて、何かを悩んでいる様子だった。ただしばらく翠が眺めると、観念した様子でメモ帳を繰った。
『───滅んだ』
「・・・なんて読むの。」
『もう滅んだ』
「・・・!」
『みんな殺された
恩師も
親友も
俺の手の中で死んだ』
翠は父のことを思い出して、胸が苦しくなった。目の前のフルフェイスヘルメットの内側で、乾いた涙が流れている気がした。
『分かろうとしなかっただけで』
『命が滅ぶことは、何も珍しいことじゃない』
翠は驚いてフルフェイス男を見た。ここにきて初めて、顔色が伺えないのが少し怖いと思った。思えば地面の揺れは、微かだが続いたままである。
『生存者を一年探し回って、ようやく君を見つけた』
もしかして騙されているのだろうか。そういう考えも一瞬頭をよぎったが、翠はここ三年誰も見なかったのを鑑みて、思い直した。
『ここもすぐヤツらに見つかる』
彼の言う『ヤツら』が何を指しているか、翠には分からない。ただ彼女はここ数年、半ば直感的に理解していた。何かおぞましいものが、都市の外を闊歩していると。
『逃げるんだ』
「どこに?」
『ここよりは安全なところ』
男はそう伝えると、両手で翠を抱き上げる。翠の身体は軽々と持ち上げられて、彼女は都市の中で一番高いところに連れて来られた。
「ここは・・・」
足元がグラグラ揺れている。都市のシンボルである電波塔の、高層展望台。錆びた階段を駆け上がってきたこの高所が、彼女には先ほどより安全な場所だとは思えなかった。が、男は姿勢を正しくして立っている。ふと見れば、遠く深緑の中に光沢を持つ黒い塊が一つあった。それは地面の金属部にも深く突き刺さっていて、彼女には特殊な形状の武器にも見えた。
「・・・これは、槍?」
『旅客機だよ』
フルフェイス男が触ると、彼の言う『旅客機』のハッチが開いた。斜めに傾いているが、翠の座ったどのベンチより座り心地の良さそうな座席が二席あった。
『地震が激しくなってきてる
座って待ってて
この中は安全だから』
「ん」
彼女は背中からひっくり返るように座った。背もたれからすればほぼ横倒しで、起き上がって外を覗くのにはそれなりに力を要した。疲れるから起き上がらないでいると、この槍のような装置を動かしているらしいヘルメットの顔がこくこくと動いていた。
装置の軌道が終わったら、彼は隣のこの席に乗り込んでくるのだろう。翠はその時点で、そう思って疑わなかった。
───ただ。
「・・・っ!?」
地面から、何かが弾けるような振動が起こった。翠の身体は跳ね上がって、再度、座席に着地した。確かに痛くなかった。彼女は彼が何かしたのかと思い直して、ヘルメットの顔を覗いた。しかしそのフルフェイスと、どうにも目が合わない。彼は後ろを振り向いて、目を離さなかった。それから彼は立って、今までよりずっと急な動きで装置の表を触った。装置の効果音みたいなものが、機内に忙しなく響いていた。そこで、もう一度大きな振動が起こった。彼はまた振り向いて、不自然に緊張しているようにも見えた。
「・・・なにかあったの?」
翠が問いかけると、男は彼女の顔を眺める。数秒した後で、彼はポケットに手を突っ込んだ。それから落ち着かない所作で取り出した【何か】を、翠の方に腕を伸ばして渡した。
『君にこの【箱】を託す』
男が差し出したのは、【何か黒い箱】だった。
「・・・これは?」
『すぐに分かるようになるよ』
困惑する翠の前で、男はこう続けた。
『何か解らないのに分かる
この【黒い箱】はそういう物だから』
翠はさらに困惑した。彼女が聞きたいのは、【黒い箱】についてではなかった。
「ん、でもちがっ、んと・・・」
揺れはさらに大きくなっている。弱り始めた彼女に、彼はハッとして言葉を書いた。
『俺も一緒に行かないのかって?』
翠は真剣な表情で、首を一回だけ縦に振る。
『安心して』
男はメモ帳に書いた文字を、手の中で揺らしてみせた。しかし、フルフェイスは乗り込んでは来なかった。
『大丈夫
後から追い付くよ』
そう続けて書いて、フルフェイスの男は上の方のボタンを押した。その押したあたりから、分厚く青みがかったガラスがゆっくりと降りてくる。翠は何かを言いかけたが、間もなくそのコックピットは完全に閉じられてしまった。『後から追い付く』というのがどういった意味なのか、翠には全く分からなかった。
「・・・ま、まって・・・!」
翠は腹筋に力を入れて、腕をプルプルさせながら起き上がった。手摺を掴んで外を見ると、展望台の入り口付近に何やら『悪趣味な人形』が置いてある。
「あれ、なに、・・・っ!?」
翠が凸に歪む窓を覗こうとすると、装置が何か音を立てて震え始める。
『それじゃ』
男は長い通路の奥にいる『人形』の方に向き直る。黒い人形は、よく見ればこちらに近づいてきていた。翠は、ガラス越しにそれを眺めていた。
そして、瞬間的に重なった。彼の背中が、三年前、翠を守り抜いて眠りについた父の、最期の最期に見せた背中と。
「だめ・・・!」
翠の胸は大いに焦る。と同時に、彼女の乗った槍のような装置はエンジンのボルテージを上げ始めた。装置の揺れと地震は、もう既に判別できない。
「出して、翠もそっちに行く・・・!!」
今より幼い頃に乗った飛行機のエンジンの音が、真横で絶え間なく鳴り響く。得体の知れない人形と揺れのせいで、翠の小さな心臓はパニックになった。
「翠を守らないで・・・守っちゃだめ・・・!!」
エンジンの音は破竹の勢いで大きくなっていき、機内の揺れは翠の体験したことのないような恐怖を煽る。翠は目に涙を浮かべて、必死に窓ガラスを叩いた。が、身体の震えが凄まじくなっていくだけで、『旅客機』はビクともしない。一方で三体の人形は、狂った動きでこちらに寄ってきているらしい。
「翠をひとりにしないで・・・やだ、やだやだやだやだやだやだ・・・っ!!」
泣きながら訴える声は、コックピットの中にこもっていた。ただし翠の訴えは、幸いにも彼へ届いたようである。男は振り向いて、メモ帳の最後のページを切り取った。その一枚をクシャクシャにした男は、握ったのと反対の手で合図を送る。
『3』、『2』、『1』、・・・『10』。
「っ───!」
男の手から、メモ用紙が消えている。手品に驚いた彼女の頭に、コツンと何かがぶつかった。クシャクシャのメモ用紙だった。マジック以前に、彼が何かを書いた素振りは無かった。無かったのに、今までのものより濃く、殴り書いたような文字が書き残してあった。翠は気付く。フルフェイス男はそのページを、翠と出会うずっと前から持ち歩いていたのだ。
それは、未来に出会う誰かをこうして安心させるためか。あるいは、折れそうになる自分自身の魂を奮い起こすためか。どちらかは分からなかったが、翠にはどちらでもいいように思えた。宙に浮いたような感覚が、今度は震えるコックピットの内側で翠を包んでいた。
「ばいばい、ばいばい、ヘルメットのおじさん、ばいばい・・・!」
男はメモも残さず、一度だけ深く頷いた。それを見届けたところで、彼女は力を抜いた。背もたれに身を預けた。黒かった装置の中は、既に白く光っていた。
『One step from Hell
大丈夫、絶対何とかなる』
もう、心配いらない。翠はまばゆい光の中で、ついにその翡翠色の瞳を閉じた。
こうして、朝木翠は『幻の都市』から旅立った。
───世界を破滅の方向に加速させた、2033年の『特異点』に向けて。
・・・・・・・・・・・・
───これで、俺の役目も終わり。───
───元気でな、お嬢さん───