厭世的処世術入門
道行く人の彼に対する視線の強さから、県民性として警戒心が強いのかもしれないと彼は予測した。いつだって自分に対する関心の度合い、その質を考えずにはいられない。
山梨は良い場所だった。大学を一年間休学することを決めて数か月に掛けて様々な場所をめぐってきたが、その中でも一番望ましい場所に彼には思えた。
盆地ならではの暑さは辛かったが、目で見て山に囲まれていることが分かるため心持ち閉鎖的で、また、普段九州で生活している彼を知っている者がいない。そもそもの人が少ないことも良い。すれ違う人は地元の人よりも自分と同じように旅のさなかにふと暇を持て余した観光客がほとんどだ。幸せな夢の中を歩いているようだ。自分の一挙一動に対する人の視線を意識し続けてきた彼にとっては天国のような場所だった。
K駅で高速バスを降りた後、宿のチェックインまでずいぶんと時間があったため、街中からの富士を見たいと思ってT駅まで行き、三十分ほどあてもなく歩いた。電線や商店街のレトロな看板の背景にある富士山の存在は圧倒的で、立派な神社の本殿のようだった。
ふと時間を見ると昼が近い。腹が減っている気もした。地元のなんでもない食堂のような場所に入りたいと思った。観光地ならではの食べ物を売りにしているところでは、食事が一種のイベントのように思えて気が重いし、若いこともあって食べ物にそこまで比重を置く気にはならなかった。
たいてい旅行先ではチェーン店やコンビニで済ませるのだが、今回は次の日から素泊まりで民宿にこもるつもりでいたので、今のうちに誰かが作ったあたたかいものを食べておきたいと思った。
それらしきものを目当てにまたしばらく歩いてみたが、いざ探そうとするとちょうどいい場所が見つからない。唯一もってきていた文庫サイズの観光誌を開くと、付近に二、三だけ拠れそうなところがある。カフェが二つとイタリアンレストランが一つ。甘いモノが食べたいような気がしたが、イタリアンレストランの店に行くことに決めた。後からまだ食べたかったら食べればいい。そう遠くない。マップアプリでみると、約二百メートル。
それでも細い路地と地図を照らし合わせながら多少四苦八苦しながら着いた場所は、小さな看板が出ていて、見つけようと思わなければ通り過ぎてしまうような店だった。ショーウィンドウのような大きな窓があるが、そこはワインが並べられていて、麻布がかけられ、中が見えないようになっていった。周囲の日本家屋と対照的に緑色の木製の壁になっていることも良い。絵本に出てきそうなかわいらしい隠れ家のようだった。
彼はある種の期待をした。今回の旅の出発点としてふさわしいと思ったからだ。同時にためらいも覚えた。ドアには小窓がついていたが、中が暗く、そこからでは店内がよく見えなかったからだ。自分にとって居心地の悪い様々な状況が頭に浮かぶ。
彼は少しだけ中を覗いて様子を見ようとドアを押した。できれば自分の他に誰も客がいないでほしい。あるいは学校の食堂のように多少の賑わいがあることがあってほしい。そう願いながら開けた扉の先には、三つの誤算があった。
一つは、食堂が彼の予想していたものよりもはるかに狭いスペースしかなかったこと。彼のほかに一組の夫婦がいたこと。そして、ドアを開く音が静かな店内に、大きく、ひどく不格好に響いたことである。したがって彼は一番望ましくない状況に置かれざるをえないことになった。しかも、もう店に入る以外に選択肢が残されていない。少なくとも彼には知らんふりをして店を出ていくことはできなかった。
中年の男性店主があまりにこやかなタイプではないことも彼を不安にさせた。店主は奥のキッチンから口頭で、彼を入口の傍の四人用テーブルに案内した。
彼は恐る恐る店内に入った。自分が駅で荷物を預かりあぐねて、いかにも旅行者というような大きな荷物をもっていること、深夜バスで移動してきたため額や髪の毛が脂っぽく感じることを強く意識した。ワインの並べられた窓のそばの席にいる三十代ほどの夫婦は、洗練されていて、素朴な店内に似合うような雰囲気をもっていた。そして、いかにも彼が普段ひがむ対象だった。
彼がなんとか荷物を一つの椅子に置いて自分も座ると、店主がランチメニューを渡しに来た。店主の雰囲気に自分と似たようなものを見つけて彼は少し安心した。同時に自分に対する悪い感情がそこにないか疑った。
パスタのコースに、いくつかオプションを組みいれて、グラスの赤ワインを一つ注文した。昼間に酒を飲むのは初めてだ。酒の注文を受けた男主人の眼の中にやはり、眉をひそめているような表情を彼は読み取って、それが悪いものなのか単に癖なのかが分からず、気持ちが波風をたてた。
こだわりの店に自分のような客が来たことにイラついているのではないか。これから自分はなんらかの、料理が出てくるのが遅いとか、食べにくい状態ででてくるとかの嫌がらせをうけるのではないかと彼は、自分でも馬鹿らしいと思いながら想像した。
夫婦二人は彼の斜め前で談笑していた。まだ料理は来ていないようだった。素朴な店内にふさわしいような静かで上品な談笑だった。平日の昼間に夫婦二人でイタリアンレストランに来るような人たちにありがちな人柄だ、と彼は心の中で見下した。
彼は、一度スマートフォンを開いた。手持ちカバンの中には地元の図書館で借りた読みかけのアガサクリスティのカーテンがあった。でも即座に文庫本を手に取って開けば、格好をつけていると思われそうだと思った。また世間離れしていて、それを得意に思っているように映るのが嫌だった。ゲームもしない、SNSに大したつながりもない彼は退屈に耐えられなくなって、結局すぐに文庫本を取り出した。
電車の中でちょっと齧るように読んだだけ。きっとポアロはしばらく出てこないだろう。それまで内容に気を取られてしまっていた夫婦の談笑がBGMになって、低くくぐもったちょうど心地のよいノイズになった。少し暗い店内の僅かな光は黄味を帯びており、古びた文庫本の紙質をアンティークとして良いものに映していた。すぐにワインがきた。彼は会釈で応じたが、手をつけなかった。
彼は店主が料理をもってくる気配を感じて、文庫本を片づけた。前菜が運ばれてきたのは、夫婦と同じタイミングだった。料理を出すのを遅らせられる心配がなくなっても、店主の皿の置き方や「季節野菜のピクルスとキッシュです」という声の中から感情を読み取ろうとせずにはいられなかった。
前菜は彩りよく盛り合わせられていた。彼はナイフとフォークの扱い方は一通りできたので、行儀の点では心配がなかった。できるだけ視線を料理に集中させるように食べた。キッシュに入っているポテトが甘い。彼は漬物の類が苦手だったが、もちろん残すということはできない。ワインで流し込むようにした。実は酒の味の良し悪しはわからなかったが、赤ワインはあまり癖のあるものではなかったので助かった。
「前と少し違いますね」
妻の方が言った。それまでの談笑とは違い、呼びかけるような声で、明らかに店主にむけられたものだった。彼には自分の頭の中で歯車が軋む音が聞こえた。店主は少し長めの空白の後に「ええ」と返事をした。その返事の仕方に、彼は店主の性格、振る舞いに自分と通じるものがあることを再確認し、一方で歯車がギシギシと稼働して、自分の認識が少しずつ修正されていくことを感じた。
「今は春の野菜がおいしいものねえ。またなにか、新しいメニューなんて考えているの?」
笑顔で妻は尋ねた。店主は、先ほどよりも更に長い空白を空けた後につなげた。
「今考えていて、ちょうど来週また振舞おうと思っていたところです。先週一度試作品を振舞ったところ、好評だったので」
句点の部分で一度口ごもり、その後の口頭が妻の応答と被った。妻は被ってしまった後に一層大きな相槌をうって、店主の発言を促すようにした。歯車はカチリと音を立てて新しい位置に固定された。こういう女性の言動は、店主や彼のような人物にとって、そこに親しさがあればありがたいものになり、そうでなければみじめさや意地悪さを感じるものになることを彼は知っていた。
「それなら、ねえ、今のうちに予約しておこうかしら。来週とか、ねえ」
妻は店主に加えて、向かいの夫にも声を掛けた。夫の表情をうかがうことはできなかったが、いかにも余裕をもって、笑顔でその提案を受け入れているように思えた。そのうち三人の会話になった。
「来週の火曜日の夜であればご用意できると思います」
「じゃあその時間に。コースの種類は、一つなのかな。いくらのコースになりますか」
夫の問いに、店主がまたもごもごと口の動きを滞らせた気配を感じた。
「いくらでも。決まっていません」
「七千円とか?」
「前振舞ったコースはおいくらだったの?」
妻が助け舟を出すように質問した。どのような問いかけが彼らにとってありがたいかを知っていると彼は改めて思った。
三千円です、という店主に、だったら、と答える妻をさえぎって夫が
「だったら七千円にしよう」
とからかうように言った。
彼は、この夫の発言が、実は彼を意識したものなのではないかと思った。露骨に言うなら見栄を張ったものなのではないか。彼は若いし、その時の自分の身なりがきちんとしていないと分かっていた。
その後続く三人の会話の中で、前菜と一緒にきたバゲットを食べた。手で食べなければならない分、人前で食べるのが難しい。しかもよく焼かれているので、それなりに音を立てる。しかし、夫の低く太い声が仕切りなしに冗談を言うようになったので、彼は今のうちに、と安心して食べることが出来た。彼は少し考えて、その後のスープのために、バゲットを半分残しておくことにした。
予約の段取りが終わると、店主は作業に集中するように口数を減らし、夫婦二人のものになった会話が少しずつ元の調子に戻っていったころに、スープが運ばれてきた。潰されたレンズマメと乳化した塊が浮いていた。スプーンを使って飲むと、だまになった白い塊がのどで溶けて心地よく、緊張していたことに改めて気づかされた。
少し残したスープでバゲットを片づけた彼は、半分ほどになったワインを飲みながら、目の前にあるドアを見た。天井に一体に掛けられた麻の布が余った部分をドアの上に掛からせている。店内が暗いのに対して、外は底抜けに明るかった。春に来てよかった、と彼は思った。地元での春は嫌いだった。それを繰り返しながら引き続き外を眺めていた時、ふと人が通りかかった。若いカップルだった。彼のように大きな荷物は無いものの、格好から観光客だと思われた。細い路地にそれまで人が通ることはなかった。案の定客だった。男の方がドアを開けたと同時に店主がドアに向かった。
「すみませんが、すでに定員が埋まってしまって、料理がお出しできないんです」
店主はこのような業務的な言動においては流暢であった。男は礼儀正しく会釈して出ていった。出ていくときに、女と共にちらりと彼を見たように感じた。彼は最後のパンの欠片を頬張った。空になったスープとバゲットの皿が下げられると、彼は外を眺めた。彼がいたことで、夫婦と店主三人の状況に自分がいる。あのカップルは自分がいなければ、と考えた。
そのうちパスタが運ばれてきた。ミートソースパスタをフォークとスプーンで行儀よく食べた。ミートソースの肉がしっかりして旨かった。
しかし、そのうちまた妻の方が話し出した。やはり同じタイミングでパスタを食べていた。
「パスタ美味しいですよねえ。夜でも出せばいいのに。きっと喜ばれますよ」
店主は少し長い間口ごもった。
「わざと夜は出してないんです。昼に来る楽しみがなくなってしまうと思って。昼に来る楽しみがなくなってしまうと、夜に来る楽しみも無くなってしまうでしょう。だから出してないんです。」
言葉に熱が入っている。それに応えるように妻は熱心に頷いていた。夫の顔は見えなかったが、ニヤニヤしているような気がした。
そこから会話が弾んだ。妻の質問に対して店主が熱心に答え、時々夫が余裕を持った態度で何かしらの言葉をはさみ、しかしそれが毎回なんとなくずれているので、店主が少し困ったように言葉につまり、そこで妻がまたアシストをし、というようにぎこちなく、でも平和な会話が続いた。彼はパスタを食べている間欠片も音を立てなかった。味はほとんど分からなかった。口の上側に張り付いた油が不快に思えた。ソースをスプーンで集める時でさえ、慎重にしてその音も欠片も立たなかった。
彼がパスタを食べ終えると店主がデザートを持ってきた。話に夢中で気づくのが遅れたため、彼は空の皿の前で少し待たされた。デザートは、クリームチーズをアイスにしたものにドライフルーツが混ざったものだった。ゆっくり食べようとしても、アイスはスプーンに触れるとすぐに溶けた。三人の話はまだ続いていた。
脈絡があるようでないので、終わりは一向に見えなかった。やはり妻や夫が店主に何か問いかけるたびに小さな沈黙が出来たが、三人の誰もそれを苦に感じていないようだった。三人の会話は不定期なリズムでもきちんと一本に繋がっていた。彼は矢張りデザートが空になった皿の前で少し待った。自分が彼らを待っているのか、彼らが自分を待たせているのか考えた。
一般論で言ったら客を待たせている店主は悪いのかもしれない。そもそも一人の客の前で常連客と私的なものに近い会話をすることは適切じゃない、と思う。適切か、という言葉でこの場を考えようとする自分は一層惨めに思えた。この場で何も気にせず声を挙げられる人はどんな人だろう。自分に自信がある人、客だから、と割り切れる人。大人な人。その人の振る舞いはどんなふうにあの三人の眼に映るだろう。何を基準に、何を考えればよいのか分からなかった。
「あの」
決して良いタイミングではない。自分で痛いほどそれが分かった。三人のうちの誰かは不快に思ったかもしれない。でも、自分なりに気を遣った結果なんだ、と心の中で弁解しながら、彼は無理やり笑って、「お会計を」と言った。
店主は会計の金額を伝えた。感情が読みづらい態度だった。やっぱりそこには彼の不器用さと通じるところがあった。彼はちょうどの金額を支払って、荷物を抱え始めた。立ち上がる時に、ワインが効いたのか、少し足元がふらついた。店主が外れると自然と夫婦も黙って、会話が消えた。妻の視線が意識された。
出ていくときに、店主が「ありがとうございました」と、わざわざ出口に寄ってドアを開けた。その意図について、彼は考えないようにした。店主が最後にもう一度、細い路地を歩いていく彼の背中に向かって「ありがとうございました。またどうぞ」と言ったのだが、彼には聞こえなかった。閉じたドアの向こうで三人がしているであろう会話のことだけが頭を埋めていた。彼に関わることを話して笑っていることを想像して、彼は人々に対する暗い気持ちを一回り膨らませながら歩いた。
アプリを見てできるだけ細い路地を選びながら、ふらふらとT駅までたどり着き、ICカードで無人改札を通り抜け、ホームのベンチに荷物と身を置いた。青いプラスチックのベンチが春の空気で温められていて、気持ちがいい。ホームには誰もいなかった。線路沿いに菜の花と桜が植えてあるのを眼だけで眺めた。まぶしかった。溶けていきたいと思った。このまぶしい光景にそのまま溶けて、消えてしまいたいと思った。