冒険の終焉における勇者の独白 (『「奴」は死んだ。』改題)
初投稿です。
ふだんは明快な架空歴史物語『草原演義』を書いてます。
この作品はもしかしたら今、巷間に溢れるファンタジーへのひとつの警鐘になるかもしれない。
ならないかもしれない。
なぜなら、この物語(?)が書かれたのは、今から二十年ほど前(平成十二年)のことだからです。
哲学趣味(哲学ではない)で読みにくいかもしれませんが、ご一読くだされば幸甚です。
これはある勇者の独白。
仲間七人の命と引き換えに最後の戦いに勝利した直後の独白。
前後に欠落があるようだが、詳細は不明である。
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……感も強くなった。だから彼らは目的を果たしたあとも旅を続けたのだろう。しかしいまだにわからないのは、どうして僕が、彼らに比べたらいかなる重要な旅の目的もない僕が、リーダーとしてみんなをこんな場所まで連れてきたのだろうか。
そんな資格がどうしてあっただろう。なぜ誰もこのおかしな状態に文句を言わなかったのだろう。ついには僕一人を生かすために命すら失ってしまったのだ。そして独り残った僕は彼らの英雄的行動にプレッシャーを感じている。
僕は彼らの犠牲に価するほどの男だろうか。力に関してはドーソンにかなわず、武器を扱うことにかけてはレスポールにかなわず、白魔法はナタリーに頼りっぱなし、黒魔法はアレッサンドロの専門で僕は何ひとつ知らない。ダイダロスのような異能もなければ、アスターシャのような人を魅了する術もなく、何より人を率いることにおいては王子だったカリギュラこそが適任だった。
特に使命感に勝っていたなどということもなく、リーダーとして冷静な判断ができるわけでもない。むしろ浅慮でパーティを窮地に陥れたり、すぐ挫けそうになって励まされたり、要するに僕は、公平に見てみんなの足を引っ張るだけの存在でしかなかった。それなのにみんながリーダーとして扱うのをよいことに、やたらとリーダー面して彼らを困らせ続けた。
誰もいなくなった今になってそのことがはっきりとわかる。本当は不安でたまらなかったくせに虚勢を張り、劣等感を糊塗するために大義名分を振りかざし、傷ついた人をどう扱ってよいかもわからず無責任に安易な慰めを口にした。
結局僕は、自己嫌悪に苦しんでいる。人類の危機を救う誇らしい勝利を手にした直後から、その戦闘の興奮が冷めはじめたころから、僕は猛烈な自己嫌悪に襲われている。
北の大地で出会った老占星術師は言った。
「旅の果てにお主は己の存在を見つけるだろう」
見つかったのは嫌らしく、みじめで、無能な自分だった。すばらしい仲間をすべて失い、うろたえるだけの自分だった。僕が生き残って良かったのだろうか。むしろ真っ先に死んで仲間を助けるべきではなかったか。「奴」の呪縛から世界を解き放ち、輝ける存在としての人間を獲得するという大任を果たすのに相応しいのは、本当に僕なのだろうか。
横暴な、そして狡猾な支配者として密かに君臨し、人類を弄び続けていた「奴」に対する憤りは無論ある。人並みに正義感らしきものに突き動かされていたところもある。無性に焦燥が募って、絶対に「奴」を許してはならないなどと偉そうに吐き捨てたこともあった。
だが実際に「奴」を打倒した今、込み上げてくるのは歓喜でも達成感でもなかった。無数の疑問符と覆いようもない虚無だけだった。その根底にあるのはやはり自己への不信であり、事の大きさに対するどこか居心地の悪い思いだった。
仲間がリーダーとして、また周囲が選ばれたものとして持ち上げれば持ち上げるほど僕の中で反発は膨らんでいった。たしかに長い旅のおかげで力も強くなり、世界の広さも知り、さまざまな死地をくぐりもした。ルテツィアの村にいたころよりは格段に成長したとは思うけれども、それはすべて偶然の産物でしかなく、つまり僕が望んで自ら得たものでは決してなかった。
僕はいまだにあのみすぼらしい村にいたころと変わらず自らを蔑み、始終何かにいらだっていた。常人には得難い体験、それはたしかに貴重だったかもしれないが、ただそれだけだった。
だからこの冒険譚を得々と語るのは悪趣味である。僕は何ら自ら択び取ることなく、言わば大きな機械の部品のように、あるいはチェスの駒のように歩かされただけのような気がしてならない。
「奴」を倒し、世界を、人類を救ったと言っても、そもそも「奴」の存在に気づき、危機感を持っていたのは一部の先覚者たちだけだった。たまたま僕は各地で彼らに遭うことを強制され、半ば脅されるようにここを目指したのである。
もしあのままルテツィアにいたら、多くの人と同じように突然世界の最後に立ち会って驚き、呆然としたに違いない。その仮定の中の僕と、今の僕と、どちらが是でどちらが非か、そんなことは決められない。
思えば先覚者たちは卑怯だった。ずっと以前から「奴」の存在とその企図を知りながら、彼らはただ警鐘を鳴らすばかりだった。多くの若者を脅し、あるいは煽て上げて死地へと駆り立て、挙句力及ばず倒れたときには、
「ああ、世界はどうなるんだ」
「おお、真の勇者は何処に」
と溜息混じりに嘆いていればよかった。その瞬間、先覚者たちは自らを包む悲壮感に陶酔し、それによって己を慰めていたに違いない。言わば彼らは本気で世界の行く末を憂えていたわけではなく、己が先覚者であることを絶えず確認し、眉を顰めてみせることによって自己満足していたに過ぎない。
彼らの言葉を鵜呑みにして、いや多少の疑問を覚えつつも僕らは「奴」と戦い、そしてついに討ち果たしてしまった。先覚者たちはもともと誰にも期待していないのだから、これを知ったら喜ぶよりもまず驚き、そして自分の存在理由を失ったことに絶望するだろう。だが、すぐに彼らは言うだろう。
「おお、真の勇者よ。お主なら必ずやり遂げると信じておった」
そしてそれがさも己の功績であるかのように僕らの活躍を喧伝しはじめるだろう。これから先も屈折した自己満足の糧を失うまいとするにはそれしかない。所詮彼らも空虚な大義名分より、この混沌とした世界の中で自己の存在意義を規定することを重んじるのだ。
そして自らを矮小化すればするほどそれは簡単な作業になる。だから彼らは何もしない。迂遠な、それでいて悲観的な言辞で周囲をたぶらかしたように、今度は過剰な修辞で英雄賛歌を口ずさめばいい。
おそらく僕の不幸はすでに自らを矮小化することができなくなったことだろう。そうするには僕が成し遂げたことはあまりに大き過ぎる。またあまりに広い世界を知ってしまい、この身に得た力もすでに普通ではない。
無数の死ぬべき死を越え、無数の生きるべき生から目を逸らした。経験はすべて余人には共有できない幻想であり、うち続く奇蹟は敬虔な心すら麻痺させた。特殊化した存在は世界内においては異端視される。そして僕自身、特殊化された自己を受容できないでいる。生きながら伝説化する存在に自得するほど僕は無神経ではいられない。
かつての僕は肉体や能力やステイタスが、すなわちすべての外形が、境界を失って膨張し続ける曖昧な自我を制御することができず苦しんでいた。いつしかその関係は逆転し、今や肥大化した外形を満たすべき自我が卑小であることに苦しんでいる。つまり僕を悩ませているのは常に自己のアンバランスな状態である。
仲間だったはずの七つの肉塊を漫然と眺めつつ僕は思う。彼らはどうだったのだろうか。無邪気に疑いを挟むことなく伝説の物語中の人物を演じていたのだろうか。それとも今の僕のように自己嫌悪と懐疑に苦悩しながら最後まで与えられた役割に徹したのだろうか。彼らの中で肥大化する外形と本来の自我はどのようなバランスを保っていたのだろうか。今や彼らは何も語らない。
いや、もはやそれらの肉塊は、「彼ら」と呼べるものですらない。異臭を放ち、醜く変わり果て、厳然としてそこに「在る」だけだ。存在感を言うならば、厳密に「存在」としての存在感ということならば、それらは生命ある僕よりもむしろ圧倒的であった。
思うに、死という現実の前ではどんな大義名分も崇高な意志もことごとく意味を失い、在るのはただ「死」のみとなる。英雄的な死も凡人の何ら変哲のない死も、とにかくどんな形のものでもすべてその瞬間に均質化される。「死」は「死」以外のものには成り得ない。
つきつめて言えば七人の仲間の死も「奴」の死も、その本質においては同じである。死の瞬間、存在における因果の連鎖は消滅し、世界内に自己を規定できなくなる。
ゆえに裏を返せば、「生」とは「世界内における連続せる自己規定」である。そしてさらに言うならば、明確な自己規定など不可能であるという矛盾があるため、「生」は「世界内における連続せる自己規定の試み」でしかない。この試みを絶えず行うことで世界と自己の位置関係を把握しようとし続けることがすなわち「生きる」ということだろう。
本来ふたつの因子の位置関係を定めるためには両者を俯瞰して把握しなければならないが、如何せん「世界」を把握することなど不可能である。なぜなら無数の存在の集合である世界内において、自己の存在はあまりにも微小であり、その微小な自己の知り得る範囲もまた限定されるからである。
そこで人は「世界の矮小化」を行う。個にとって、世界は自己存在との関連でしか認識することができない。ならばいっそ認識される範囲のみを「世界」であると定義するのである。そうしなければ自己の位置を確認すること自体が不可能となり、あわれな自己は錨を失った船のごとく無限の存在の海に沈んでしまうだろう。
同時に人は生きるために自己の「矮小化」あるいは「卑小化」をせざるを得ない。そう、あの先覚者たちのように。人は己の存在意義を常に世界との関係において求めながら、もうひとつの因子である自己についても知悉することができないからである。
我々の精神の複雑なメカニズムは我々自身の理解をも超越しており、さらに言えば、気がついたときにはすでに存在していた個の存在理由をあとから、それも自ら付与する試みは、その個がそこに「在る」という確固たる現実の前にあえなく失敗する運命にある。
虚しき自己規定の試みは常に失敗と自己欺瞞を繰り返し、ついには「死」によって、ただ「在る」ことを義務づけられる。理性を獲得する以前に世界に「在った」のと同じように。
ここに人が生きていく上で最も深刻な矛盾がある。人は自己の存在意義を世界内において規定せずにはいられないくせに、そのために必要なふたつの因子のどちらか一方すらも把握する能力を与えられていないのである。悲しいかな、それでは人は「実存」として、すなわち世界内に自己規定された存在として生きられない。
そこで自己防衛のためにあらゆる「矮小化」を図るのである。つまり世界と自己を矮小化して初めて「自己規定の試み」が可能となる。「自己規定の試み」を経て人は初めて「世界」内に存在し、「実存」としての自己を獲得する。
微小な自己にとって世界内に存在は二種類しかない。自己とそれ以外の他者と。他者とは「世界を形成する無数の存在の中で対象として自己に認識されるすべての存在」の総称である。他者はあらゆる現象を伴って自己の前に現れる。
他者の示す諸現象はまた二者に大別できる。すなわち「快」と「不快」である。何をもって「快」とし、何をもって「不快」とするか。それはただ自己を「実存」たらしめることを、すなわち「自己規定の試み」を益するか、害するかでしかない。
と言っても自己規定とは慢性的に「矮小化」を行わざるを得ない虚しい試みであるから、対象として把握できないもの、自力に余るものなどはすべて「不快」として退けられる。あるいは退けようと試みられる。ことさらに意識外に置かれたり、把握する努力を中途で放棄されたりする。
なぜなら世界と自己の位置関係を定めることが、自己の存在意義を確定することが、そのひとつの他者のために困難になるからである。ただもし避けられない、退けられない現象があるならば、人はそこに「恐れ」を感じるのである。
人の恐れはすべて、自己を「実存」たらしめることを困難にする諸現象のうち忌避できないと認識されたものから生じる。その最大にして最終のものこそ「死」に他ならない。人は死を恐れる。なぜならそれは自己規定を試みる術をことごとく奪い、世界との連環を断ち、全存在を「死」の名の下に否定するからだ。
ゆえに人は己の死は無論、他者の死にすら恐れを抱く。その圧倒的な存在感、すなわちただ「在る」ことに対する恐怖。だから自己防衛のために、他者の「死の意味」をも規定しようとする。無為な死など認めない。
本来、「死」はいかなるものにとっても特別な意味などないはずだ。死の瞬間、いかなる存在も均質化されるのだから。けれどそれでは生きている、すなわち自己規定の試みを続けるほかない自己にとっては堪え難い。
言わば「死の意味」は、所詮「生きる」存在が自己防衛のために捏造したものとなる。死者には、ただ「在る」ものには、「死の意味」などあり得ない。だから今僕が七人の仲間の死を「犠牲」と規定したのも、僕自身の「存在」を守るためである。
では翻って考えて仲間たちにとって「死」とは何だったのだろう。「死」とは己の存在を否定し、自己規定の術を奪い尽くす恐るべき現象である。その「死」へ向かって自己を駆り立てる衝動とは何だろう。彼らは「死」と正面から向き合い、それを克服したのだろうか。そして己の存在意義を「死」の中にこそ認めたのだろうか。
いや、そうではなかった。彼らも「死」を恐れ、恐れるあまり自らを「死」へと追い込んだのであった。「死」のどうしようもない否定性を認めることができなかったからこそ、あえて「意味のある死」を死にたかったのだ。規定できないただ「在る」べき「死」を正視することができなかったから、他者のために、すなわち僕のために死ぬことで自らの「死」に対する恐怖に目をつぶったのだ。「死の否定性を否定するための死」……、それは所詮「死」からの逃避にしか成り得ない。
なぜなら今、彼らの死もやはりただ「在る」ことを強制されている。他のあらゆる死と、異なる点なんかひとつもありはしない。ただ生き残った僕の「存在」を脅かし、「死の意味」の規定を強制したばかりである。彼らの逃避は結局「死」の呪縛から逃れることができなかった。
ただ「死の意味」という幻想を共有することで自己を、あるいは他者を欺き、それを疑わないで通すことができるならば彼らの選択は決して無意味ではなかったことになるだろう。ところが彼らにとっても僕にとっても不幸なことに、僕はそんな明白な自己欺瞞を貫き通すことに堪えられそうにない。
思うに、僕がもっと自己欺瞞に長けていたら、ここまで来てこうも悩むことなどなかっただろう。あくまで単純な正義感と勝利の達成感に身を委ね、世界を滅亡の淵から救った誇らしさに胸を張って最後の仕事をやり遂げるだろう。意気揚々と凱旋し、浴びせられる賛辞の雨に笑顔で応えることもできただろう。
それを思えば、自己欺瞞は「矮小化」とともに「存在」を「実存」たらしめる最も有効なアイテムである。いや、そもそも「矮小化」自体が自己欺瞞の一種に他ならないのだから、「実存」としての生は「絶えざる自己欺瞞の産物」である。「奴」を倒し、己の手に獲得したはずの「輝ける存在」とはそのようなものでしかない。これからは「奴」の干渉を受けることなく自己欺瞞に力を注げるというわけだ。
そこで僕は、はっと気づいた。
これまでは「奴」という「圧倒的な他者」がいたおかげで、善も悪も、幸も不幸もことごとく「奴」に帰せしめてしまえばよかった。世界を構成する無限の存在とそれらの生み出す現象は「奴」というフィルターを通して認識され、そのあまりに広大無辺な「存在」に屈服しさえすれば、自己の「矮小化」は容易に達成された。個は「奴」にすがり、諦観することで卑小ながらも「実存」を手に入れることができた。「自己規定の試み」における模索の苦しみは「奴」の存在に抵触することによって中途で放棄され、その時点での自得を余儀なくされる。言わば自己欺瞞が容易だったのである。
それがいまや人は、すべてを己で処理しなければならない。自己規定のための一連の作業を放棄することはできなくなった。「奴」の死によって人は、ある意味「庇護者」を失ったとは言えないだろうか。人はそれに堪え得るだろうか。圧倒的な存在に頼ることなく自己と、また他者と対峙し、儚い「自己規定の試み」を完遂することができるだろうか。それとも「存在」の海に為す術もなく呑み込まれてしまうのだろうか。だとしたら「奴」を失ったことは、我々微小に過ぎぬ「存在」にとって「勝利」と言えるのだろうか……。
「奴」は死んだ。
その厳然たる事実に最初に打ちのめされているのが、ほかならぬ僕であることに失笑を禁じ得ない。人力の及ばぬはずの「奴」を殺したことで僕は、いや僕を含めた人類は「奴」を凌駕することはできなかった。むしろいよいよ自らの卑小さを実感し、どうしてよいのかわからず右往左往せざるを得なくなった。
「奴」に代わる新たな強大な他者、あるいは依存すべき他者を設定しなければ自己を保持することすら難しい。この損失を「勝利」などと喧伝することこそ最大の欺瞞であり、もはやそれは罪悪だ。
例えば、砂漠はあの強烈な太陽の干渉のために過酷な環境になっているかもしれないが、太陽が消えたところでそれが好転するわけではない。いやかえって太陽を失った砂漠は闇と寒冷に閉ざされ、さらなる地獄と化すだろう。
そして大量の砂のどれひとつをとっても決して太陽の代わりにはなれない。闇に取り残された微小な砂は恐懼し、迷走し、我を失って太陽を求めるだろう。たとえそれがあまりに強烈で、己の「存在」を刧かすものだったとしても。
脳裏に太陽を失った砂漠の茫漠たる光景が広がる。そこは恐ろしいばかりに静かだった。天はどんよりと暗く、地にはさらさらと流れる砂。その砂は陽の光を求めてもがき苦しんでいるように見える。失われしものを求める虚しい試み。それはまさしく「奴」を失った人間の姿だ。
そして辺りは次第に冷たく凍りついていき……。いや、凍るための水分すらそこにはない。いっそ凍ってしまったほうがどれだけ楽になるか。そう、無謀な営みを放棄し、ただ「在る」ことが許されれば……。
この絶望的な状況を現出したのは、この僕だ。
僕はやおら立ち上がった。抗いようのない脱力感に苛まれながら一歩を踏み出す。欠片ほどの義務感も、それどころか意思すらなくただ惰性があるばかりだった。それでも行かなければならない。「奴」を殺すという人類最大の罪を犯した責任をとるために。人類を、世界のすべての存在を、意のままに操っていた「奴」の力の源を断つために。つまり罪悪を完遂するために。
これから為すだろう僕の「最後の仕事」によって「存在」はことごとく砂漠の中に解放される。これまでよりも難しく、より虚しい自己規定の苦しみの中に。「奴」に依存することが不可能となり、全存在が対等に向き合う地獄の中に……。
そして僕は仕事を終えたら、砂漠が太陽を失うのを見届けたら、砂であることから、すなわち「生」から逃避するだろう。「他者に規定される存在」=「英雄」なんかになりたくない。それは太陽を失ったあわれな砂が「強大な他者」を求めて捏造するものだから。そして砂が太陽に成り得ないように、僕は「奴」の代わりには成り得ない。
僕はその為した罪によって、すでに「自己規定の試み」すら剥奪された。ならばただ「在る」ことを望んでどうして悪いことがあろう。「連続せる自己規定の試み」こそ「生」であるならば、僕は「死」を生きなければならなくなる。自己規定の術を奪われながら「他者」による束縛を強制されるのは、ただの砂である僕には堪えられない。
ならば本当の「死」を死のう。七人の仲間は「死」から逃避するために「偽りの死」を死のうとして失敗した。僕は「生」から逃避するために「本当の死」を死のう。
笑いが込み上げてきた。「死」に本当も偽りもない。死んでしまえばすべての「死」は均質化されるのだ。だがそれでもいい。僕は自己の「存在」を守るために「本当の死」を夢想すればよいのだ。他者に規定されざるを得ない自己をその呪縛から解放するために。砂が砂として死ぬための最後の自己欺瞞だ。
ルテツィアを出てから僕は初めて「実存」を獲得した。「世界内において自己規定された存在」としての個を。
「奴」は、いや「神」は死んだ。
前書きにも書きましたが、二十年ほど前の作品です。
友人と「砂」をキーワードに競作したときに書きました。
これは当時の私なりに「勇者」や「ファンタジー」に対して感じていた疑問が反映されているような気がします。
そのころは、まさか勇者の出てくるファンタジーが流行するなんて思いもしませんでした(笑)。