三.(最終話)想い
ロベルトの頬の上にあるキャシーの手の触れ方。右手は耳のあたりまで指を伸ばして、頬をなでるように、左手は、手のひらの丘で包むように。
「同じだ……」
ロベルトは、うめくようにつぶやいた。目の前にいる女が、愛していたキャシーではないと、どうして信じられるだろう。いや、これはキャシー。自制心が揺れ、彼女の髪に右手が伸びていた。
「君の髪だ。これは本物じゃないのか?」
しっとりとした黒髪は、硬すぎず、つるりとした手触りで、適度に腰がある。何度も握りしめては泣いた、彼女の遺髪と同じ感触だった。ただ、今は短く、指先からすりぬける長さしかない。
キャシーは髪に触れられても、ロベルトの頬から手を離さない。じっと彼の目を見たまま、唇をかすかに動かしている。
「何? はっきり言わないと、君かどうか、わからないじゃないか」
聞き取れないもどかしさに、気がつけばロベルトの方も、彼女の頬を両手ではさんでいた。こうして共に頬に触れながら見つめ合うことが、過去に何度あったことだろう。とめどない涙とともに、むせかえる思い出たち。
彼女に最後に会ったのは、ロベルトが転属先へ発った時。宇宙港まで見送りに来てくれたあの時も、キャシーは泣いてロベルトの顔を両手ではさんだ。
『ロル……絶対に私を忘れないでね』
『僕が君を忘れるって? 酷いなあ、信用してくれよ。遠くへ行ったって、僕は浮気なんかしない。毎日通信連絡を入れるから、そんなに泣くこともないだろう? 急な転属で結婚が伸びたのは残念だけど、早ければ一年で戻れるかもしれない。待っていてくれるね? ラオラントに戻れたら、すぐに結婚しよう』
キャシーはうなずいた拍子に、ためていた涙をこぼした。
『私……私ね……』
『どうした? 仕事に慣れたら、まとまった休暇をもらって、君に会いに戻ってくる。そんなに悲しそうな顔をしないでくれ』
『私、がんばるから。どんなにつらくても負けないから』
『そんなに仕事をがんばる必要なんかないよ。大変すぎるならやめたっていいじゃないか』
『仕事のことじゃなくて、その……』
キャシーは、眉を寄せた涙の目でロベルトを見あげる。黒いまつげが涙を含み、いつもより長く見えた。
『私たち、きっとまた会えるわよね?』
キャシーは、ロベルトの頬から手を離すと、胸に顔をうずめた。
『当たり前だ。さびしいかい? 僕だって、さびしくないと言ったらうそになるけど、これは命令だから従うしかない。宇宙警備隊は、鉱山警備隊よりも危険が少ないらしいから、よかったと思っておく。じゃあ、そろそろ行くよ。時間だ』
『……ロル……もう少しだけいて……お願いよ、出航の合図が鳴るまでここにいて』
『僕もそうしたいけど、ぎりぎりだと荷物を預ける暇がないから、早めに行かないと』
互いの首に手を回し、髪に指をからませ、魂まで注ぎこむような情熱的な口づけを交わした。唇を離して、見つめ合う。
『キャシー、元気で』
『待って、ロル……ロルッ! わぁぁぁ……』
いったん持ち上げられたロベルトの荷物が、ゴトリと音をたてて宇宙港の床へ落ちた。急にキャシーに飛びつかれて、よろめき、数歩下がったロベルトは思わず苦笑いしていた。
『キャシー!』
『……行かないで……』
絞り出すような声だった。
『困った甘えん坊さんだ』
なだめるように彼女の背中をポンポンと軽くたたいた。
『僕がさっさと行かないと、君の涙が止まらないじゃないか。笑ってくれ、キャシー。いつものように。笑顔で送ってくれないのか? 外宇宙へ行かされることなんか、たいしたことじゃない。きっと、すぐに戻れる』
『ああ……ロル……ごめんなさい……私ね……本当にごめんなさい』
キャシーは大声で泣いて、胸に顔をこすりつけてきた。支給されたばかりの、真新しい宇宙警備隊の制服にいくつものしみができた。
『何を謝っているんだ。夜勤の日以外は、毎日連絡するよ。画面越しになるけど、会えるじゃないか』
『まだ行かないで……あと少ししかないの……っ……』
『今夜も連絡するよ。外宇宙から見たラオラントの映像を、君に送るから、楽しみにしていて』
キャシーをやさしくひきはがすと、背中を向けて歩き出した。
『ロルー!』
泣いて別れを惜しむ彼女を切り離して出発したあの日。彼女の悲鳴にも似た呼び声が、背中に突き刺さったが、笑顔で手を振り返した。宇宙船の入口から振り返って見た彼女の姿。両手で顔を覆い、その場にしゃがみこんで泣いていた。あれが、生きている彼女を見た最後だった。
後にこの場面を何度も思い出し、さらに月日が流れても、繰り返し夢に出て来て、時に仕事中でも、涙を止めることができなくなった。
もう少しだけいてほしいとせがまれたのに、どうしてささやかな望みを蹴ってしまったのか。あの時には、不治の病のことは判明していたはずなのに、なぜ、察してやれなかったのか。自分がいつまでもぐずぐずしていると、キャシーが泣き止まないだろうと思ったことは間違っていた。
押し寄せる後悔だらけの思い出に唇をかむ。
すべてを知らされた今、ようやくわかった。彼女は、実験が成功しない限り会うことはないと、二人で生きる未来はないかもしれないと、告げることができずに泣いていたのだ。治るみこみのない病……その体を実験に差し出すことで、生き延びられるかもしれないわずかな可能性にすべてをかけて。
実験が成功しない限り――
ロベルトは残念さを顔に出さないように、無理やり笑おうとしたが、笑うことなどできなかった。笑いの代わりに、涙を突き上げる、なさけないうなり声が出ただけだった。
今、ここにいる女性は、凝視しているだけで微笑んではくれない。どうやらキャシーではないようだ。実験は成功しておらず、彼女はどこにもいない。彼女の細胞を継ぎ、姿も、しぐさも同じでも。死者の魂を呼び戻すなどと、都合のいいことができるはずはなかった。
「キャシー」
昔と同じ形の指が、同じやわらかな手のひらが、今、ロベルトの頬を温めている。頬のはさみ方は、当時の彼女と何も変わらなかった。
「中身は別人なんだね……こんなに同じなのに。顔も姿も、全部キャシーじゃないか。これは君の手だ。君そのものなのに……本物の君は、やっぱり逝ってしまったんだね。あれで僕たちは最後になったなんて――」
ロベルトの、果てしなく湧き出す涙は、形を崩し、キャシーの指の間を抜けて落ちていく。キャシーの瞳は、まっすぐにロベルトへ向けられていたが、名前を呼んではくれない。言葉を出そうとしているような気もするが、泣いているロベルトに同情しているようにも思える。
ロベルトは今まで心に貯めていた言葉をどんどん出した。
「僕がわからないか。そうか……それでもいい。君の一部を継いだ体が僕の涙をぬぐってくれるなら、それだけでも幸せだ。キャシー、僕がどんなに君に会いたかったかわかるかい? 君の後を追って死のうと何度も思った。君をうらみもしたさ。どうしてすべてを話してくれなかったのかって。でもさっき総統から事情を聞いて、僕はやっと全部知ったんだ。君がどんなに苦しんでいたかもわかった。僕にすべてを打ち明けたくて、君が何度も泣いていたことも聞いたよ。つらかっただろう? 僕は君が病気だったのに、気がつきもせず……最後の通信で会話を交わした頃には、君が起き上がることもできないほど弱っていたとも知らず、僕は偽りの映像を、画面の中で微笑む君が真実の姿だと信じていた」
在りし日のキャシーと、目の前のキャシーの姿がだぶり、ロベルトの声がかすれた。
嗚咽を止めようとすると喉が狭まり呼吸がまともにできない。もっと言葉を無理やり出そうとしたが、準備された問いかけは、喉の奥につかえる。必死で自分に言い聞かせる。これは実験で、別室から監視されている。こんな話ではなく、もっと二人だけしか知らない情報について話をしなければならないとわかっているが――
「えっ?」
布の擦れる音とともに、体を包まれた。突然のことに、一瞬、戸惑う。しかし、すぐに状況を理解し、体が反応した。
キャシーの細い両腕がロベルトの背中に周っていた。指先まで強く力をこめてロベルトの体を抱き寄せている。
「ロ……ル……」
かすれた小さな声が胸を通り抜けた。ロベルトは、ハッとして、彼女の両肩をつかんで体を離し、正面から顔を覗き込んだ。
「君なのか?」
ロベルトを見上げるキャシーの黒い大きな瞳から涙が湧き出していた。
「……ごめ……なさい……」
「キャシーか?」
消えかけた希望の灯が、再び元気を取り戻そうとするが、ロベルトは慎重だった。期待して、もし、彼女本人ではなかったら……舞い上がろうとする光を抑え込む。キャシーの瞳の奥まで確かめるように、少し顔を近づけた。
「もう一度、はっきりと言ってくれ」
「……ロ……ル……」
ロベルトは、あふれ続ける涙とともに、空気をごくりと飲み込んだ。
「ああっ……君だ」
早まる心臓。これ以上ないほどに、打ち鳴らされ、悲しみがほどかれていく。長く胸に秘めてきた苦しい塊がバラバラと砕けていく。
「そうだよ、君はいつもそう呼んでくれていたんだ」
キャシーは、使い慣れない言語を話しているような調子だったが、もうそんなことはどうでもよかった。
「君はキャシーだ。間違いないね?」
彼女は首をコクンと縦に下ろした。ロベルトは、キャシーの体が折れんばかりに、腕に力を込めて抱きしめた。こらえきれない思い。キャシーが胸の中で肩を震わせている。
「キャシー、悪かった、僕が悪かった……何も気がつかず……」
ロベルトがキャシーの耳元に唇を押し当てて、謝罪の言葉を繰り返すと、キャシーは、小さく首を横に何度も振った。
隣の部屋では拍手が起こった。総統のサーズマは、隣に立っていたレイと顔を見合わせた。
「レイ、やったぞ、成功だ。今までの実験では、どのキャシーも、彼の愛称を言うどころか、自分の名前すら言えた者はなかった。今回は彼女の反応がにぶくて心配したが、どうやら本人の魂がうまく宿ってくれたようだな」
「総統、おめでとうございます。興奮でうまく言葉が出ないようですが、これならば、ほぼ成功したと言えましょう。後は日常生活が普通にできるかどうかを試すだけでございます。それが確認できれば、生きた体に宿っている魂を移植する方法と、死者の魂を呼び戻して移植に使う方法、両方が確立できたことになります。ラオラントはどんどん人口が増えますぞ」
ブラウゾンも顔中しわくちゃになりながら、歯を見せて笑った。レイはブラウゾンに近づくと、ひそひそと耳打ちした。
「ねえ、ブラウゾン、この実験が成功したならさ、死んでも生き返るわけだから、父さんはずっと総統をやるんだろう? それなら、俺は総統にならずに済んで、永遠にこの研究所で好き勝手にやらせてもらえるわけだ」
「それはなりませんぞ。そんなことを総統がお許しになるわけがありません」
「父さんがいるのに、どうして俺が総統にならなきゃいけないんだ」
「こら、レイ! 何を言っている」
サーズマがレイたちの会話に気がつき、わざと怖い顔をして見せた。レイはにやにやとブラウゾンを見て、笑い声を混じらせながら言った。
「何って……今さ、ブラウゾンがね、実験が成功したから、引退したいって。体を取りかえて若くなって、お嫁さんが欲しいってさ」
「レイさま! 何を――」
しわだらけのまぶたを、ショボショボと動かしたブラウゾンに、研究員たちも大笑いした。防音が施された窓の向こうには、こちらからの声は聞こえていない。レイたちは、覗き窓から離れた。ずっと見つめているのは、さすがに悪い気がしたのだ。
「ねえ、ブラウゾン。あの二人、当分はここで暮らすんだろう? 複製体から子供ができるかどうか、それも興味深いね」
「それも楽しみですが、そんなことよりも、今、キャシーに鎮静剤を打ったほうがよさそうですな。まともに話せておりませんゆえ」
ブラウゾンは、総統に投薬の同意を求めたが、サーズマは反対した。
「もう少し待て。二人の気持ちはきちんと通じ合っている。今、踏み込んで邪魔をするのは酷だろう。何はともあれ、これが無駄にならなくてよかったな」
サーズマは、この部屋に用意されていた、金色に光る髪飾りを指差した。それは、祝福の言葉たちが細かくびっしりと刻まれた金布を編み込んだ手作りの輪で、ラオラントでは、花嫁になる者が、結婚式の時に頭に乗せるもの。
「後で持って行ってやろう。我々は、祝賀会の用意をしようか」
窓の向こうの、ロベルトとキャシーは、固く抱き合っていた。
「キャシー……キャシー……」
「ロ……ル……会いた……かった……」
片言で伝えられた想い。二人はすべてを忘れて、確かめ合うように、熱い唇を触れ合わせた。
(了)
ここまでお付き合いいただき、感謝でいっぱいです。
読んでくださった方々に、心よりお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
二〇〇九年 四月 菜宮雪