二.あふれる思い出
「僕がわかるかい? ロベルトだよ」
女性の、フレッドに似た大きな漆黒の瞳がロベルトを映す。彼女の唇が少し開き、小さな声を出した。
「あ……」
戸口にいたロベルトは、慎重に近づいて行った。女性はベッドからゆっくりと腰を上げて、立ち上がった。彼女は、知っているはずのロベルトを見ても、笑いかけることはなく、澄んだ瞳が、ロベルトをとらえたまま何度も瞬きしているだけだった。
なつかしさの風がロベルトの心をなでる。五年が過ぎても、彼女のことを忘れることはできなかった。常に心の奥に住みつき、時に夢に現れて、自分の泣き声で目が覚めた。彼女が死んでから、数えきれないほどたくさんの、眠れない夜を過ごした。あの言いようもない悲しみと、今会えた喜びが混じり合い、作り笑いでごまかして、高ぶる感情を必死で沈めた。
「キャシー、久しぶりだね。会えてうれしいよ」
これが彼女の細胞を継いだ複製体。あまりにもよく出来ている。大きな漆黒の瞳も、形のいい鼻も、小さめの口も、黒々とした髪の色まで同じ。
キャシーの複製体に別人の魂が宿ってしまい、何体もの『キャシー』が廃棄されたと聞いた。人の細胞から、魂の器を作り、死んでしまったはずの人間の魂を呼び戻す、そんなことが本当にできるのだろうか。実はキャシーは死んでおらず、これは複製体ではなく、本人ではないのかと思えてくる。
「キャシー……僕だよ」
キャシーは、ロベルトの顔を見ながら、何か言おうとしているようだったが、唇を動かすだけで、笑顔は見せない。
ロベルトは失望を隠し、問いかけた。
「僕たちが最初に会った場所を憶えているかい?」
彼女はベッドの前に立ったまま、何か言ったが、声が小さすぎて聞こえなかった。
「何? もう一度言ってくれないか」
キャシーは唇を動かそうとするが、またきちんと言葉にならない。ロベルトは、出かかったため息をごくりと飲み込んだ。
三年程前に、ハーキェンへの宇宙船の中で偶然会ったキャシーの兄、フレッド・イベリーの様子を思い出す。あれは記憶喪失でもなんでもなく、中身は別人だったのだと、今日、初めて知らされた。見た目はそっくりでも、魂が異なれば、あんなに違うものなのだ。何も期待するべきではない。このキャシーの複製体にいろいろ質問して、データがとれればそれでいい。
「憶えていないならいいんだ。それなら、僕の名前を、君がいつも呼んでくれた呼び方で言ってほしい」
見つめ合っている二人の距離は近い。
手を伸ばせばそこに彼女が。腕を開いたら彼女を抱きしめてしまう。涙を出そうとする感情のうねりを、ぐっ、と飲み込む。
「君はキャシー・イベリーじゃないのか?」
隣の部屋では、窓に張り付いてレイたちが覗く。
「おや、様子がおかしいぞ。名前が出てこない。また失敗か。他人の魂が入ってしまったらしいね。今度こそ完ぺきだと思ったのに。ねえ、ブラウゾン、やっぱりさあ、脳のしわまで正確に再現しないと記憶がよみがえらないかもしれないよ。魂が所持する記憶と、肉体が所持する記憶と両方がそろわないとダメみたいだ。これでは死者の魂を呼び出す意味がない」
「レイ様、失敗と決めるのは早すぎますぞ。もう少し様子を見ましょう。混乱しているようですな。興奮して言語障害に陥っている状態です。心拍数がかなりあがっております」
レイたちのいる部屋にはいくつかのモニターが置いてあり、今のキャシーの状態がそこにどんどん記録されている。ブラウゾンは、手元にあるモニターに目をやったが、すぐに二人の方へ視線を戻した。他の研究員たちも息をつめて成り行きを見守る。
キャシーは、ロベルトの顔をじっと見ている。
「わた……し……」
ようやく、聞きとれる言葉が、キャシーの唇を抜けた。ロベルトは無意識に眉根を寄せていた。
――君じゃないのか?
ロベルトの心に打ち寄せる感情の波。何も考えずに、彼女のすべてに触れ、何もかもを確かめたかった。彼女のキスの仕方も、自分を抱きしめてくれる手の位置も、すべてが同じかどうか、今すぐ知りたかった。鼓動が高まり、指先が彼女を求め、腕が伸びそうになる。理性の警鐘が頭の中で響き渡る。これは任務。激情に溺れるわけにはいかない。
ロベルトは涙でぼやけてきた彼女の顔を見ながら、同じ質問を繰り返した。
「キャシー、僕の名を……二人だけで呼ぶ時の名で呼んでくれないか」
キャシーは、喉の奥で声を出したが、今度もはっきりとした言葉ではなかった。ロベルトは辛抱強く話しかけた。
「君は、キャシー・イベリーだよね? そうだろう? 頼む、君の魂が君であることを証明してくれ。僕は……っ……」
とうとうこぼれてしまった涙。隣の部屋から見られていることがわかっていても、止められない。
「僕は君が忘れられなくて誰とも結婚していない。僕にとっては君だけがすべてだった。君がいつも、僕をどう呼んでいたか思い出してくれないか?」
キャシーは、唇だけを動かした。
「何? 聞こえないよ」
キャシーは、すっと両手を伸ばすと、ロベルトの顔を流れる涙に、まず指先で触れ、そして、手のひらで、涙の流れる頬をすっぽりと包んだ。キャシーの手から、ロベルトの頬にじか伝わる体温。ロベルトは嗚咽で震える声になった。
「キャシー……っ……」
これは命ある肉体。キャシーの魂を宿していないかもしれなくても、キャシーはこうして生きている。指をからめ合ったこともあった、やわらかい手。頬に触れてくれているこの手の感触に、甘く苦しい思い出が渦を巻く。
遠くなったあの日。
『ロベルト、妹のキャシーだ。入隊したばかりで何もわからないから、いろいろ教えてやってくれ。配属は、地上パトロール隊。我々、鉱山警備隊とは頻繁に顔を合わすことになるだろう』
軍で年に一度開催される、家族謝恩会の時に、当時上官だった、フレッド・イベリー中将が連れてきた若い女性。
『はじめまして。早く仕事に慣れる努力をします。よろしくお願いします』
キャシーはそう言って、ロベルトに手を差し出し、握手を求めた。彼女の、フレッドに似た大きな黒い瞳は、ロベルトの心に強く残った。
その後は、隊同士で会えば、挨拶する程度だったが、次の年の家族謝恩会で会った時に、フレッド抜きで、二人でゆっくり話す暇があり、初めて二人きりで会う約束を交わした。それから恋に落ちるまでに時間はかからなかった。
デートを重ねたある日、キャシーの家で、彼女が入れてくれた、甘い香りのするお茶を前に、ロベルトは、キャシーの唇から目をそらし、勇気を出して切り出した。
『ねえ、キャシー、今日はまじめな話があるんだ。落ち着いて聞いてほしい。君が僕に好意を示してくれるのは、すごくうれしいんだ。僕も君が好きだ。だけど、僕は』
何気なく返されたキャシーの無垢な笑顔に、言うのをためらう。前から言わなければならないと思っていたことだ。
『知っているだろうけど、僕にはハーキェン人の血が入っていて、ラオラントの軍人としての出世は望めない。将来を考えると、こうして君と楽しい時間を過ごしていて、本当にいいのだろうかと不安になるんだ』
キャシーの黒い瞳が揺れた。
『軍人としての将来がないってこと? そんなことはないでしょうけど、そう思うなら、どうしてわざわざラオラントの軍人になったの? 確か、ハーキェンにお母様がいらっしゃるんだったわよね?』
『ああ、そうだよ。なかなか会えない母のことは気になるけど、僕がラオラント軍に入ったのは母の勧めでもある。僕は、父に似て、見た目はラオラント人だから、ハーキェンへ戻ったら異星人扱いさ。向こうで暮らしてもいいことは何もない。生涯、ラオラント軍の無階級兵をやっていても、ハーキェンで働くより待遇はうんといいんだ』
『そうなの? 混血だと大変ね。でも、生まれに関係なく、ラオラントの軍人として、ちゃんと仕事はしているじゃない。真面目にがんばれば、昇進はできると思うわ』
ロベルトは、少し黙りこみ、キャシーが入れてくれた飲み物に口をつけながら、考えごとをしていたが、飲み物を置くと、立ち上がった。
『ロル? もう帰るの? ゆっくりしていって』
『まだ帰らないけど、少しの間だけ、後ろを向いていて』
ロベルトは、上半身の服を素早く脱ぎ捨てた。
『キャシー、僕の背中を見てごらん』
キャシーが振り返ると、ロベルトは上半身裸にした背中を見せていた。驚いて声が出なかったキャシーにロベルトは、背中を向けたままで、首をまわし、肩越しに悲しそうに目を細めて笑った。
『気持ち悪いだろう? 見た目はラオラント人でも、僕は、やっぱり半分はハーキェン人だ』
見たことがなかったロベルトの肌に、思わず顔を赤らめたキャシーだったが、そのたくましい背中に浮かぶ、複数の不規則な白斑に、目が釘付けになった。
白く丸い模様は、もともと色が白いラオラント人の肌よりもさらに白く、水で溶いた白い粉をこぼしたように、ロベルトの背中のあちこちにある。ハーキェン人には首筋まで白斑がある者がいることは、キャシーも知っていたが、実際に近くでしっかりと見たのは初めてだった。
『わかったかい? 僕は、こんな体の異星人なのさ。母の星の為に、いつラオラントを裏切るとも知れず、信用できないと思われているから、生涯役職のない一兵士で終わる。すぐに階級は君の方が上になるだろうね。君のことがどんなに好きでも、僕と君とは釣り合わない』
『ロル……』
キャシーは眉尻を下げて、泣きそうな顔になった。
『こんな男で残念だろう? でもこれはどうしても君に知ってもらいたかった。これが僕の現実だから』
ロベルトは脱ぎ捨てた服を拾おうと腰をまげて手を伸ばした。
『うわっ!』
かがんだ背中をいきなり後ろから押され、ロベルトは服を手に持ったまま前へころんだ。そのままキャシーは乱暴に、ロベルトをあおむけにして組み敷き、上に乗ったまま早口でロベルトに怒りを向けた。
『なによ、だからなんなの。階級とか、釣り合いとかって、そういうことが、そんなに大切なの? 異星人だから、私はいらないって言うの? 今日は、元気がないと思っていたけど、私と別れる為にここまで付いて来たのね』
下になっているロベルトの顔に、キャシーの涙が落ちてきた。
『キャシー!』
彼女の漆黒の双眸にはどんどん涙がわき、玉になってポタポタとロベルトの顔に落下していく。
『君がいらないなんて……違うんだ。君が欲しい。今すぐにでも。君が僕をさそってくれて、うれしくてたまらないんだ。だけど、僕が混血なのは何年経っても変わらない。今はラオラントの為に精一杯働くけど、もし、ラオラントとハーキェンが戦争にでもなったら、僕はどうしていいかわからなくなると思う。ラオラントの軍人としては失格だよ。ラオラント人はハーキェン人のことを良くは思っていないことも知っているし。いつか、ラオラントとハーキェンは戦争になる気がする。だから、君に申し訳なくて……』
キャシーはそのまま、低い声で泣きだしてしまった。
『悪かったよ、泣かせるつもりはなかった。君はすばらしい人だから、もっと君にふさわしい相手を選ぶ方が――』
キャシーは、ロベルトの体の上にまたがるように乗ったまま、彼の頬を、パチンと両手ではさんだ。
『いやよ、私は別れるつもりなんかないわ。こんなどうしようもないことを言われて、どんなに私が悲しいか。ロルは、私の気持なんか、全然わかっていない』
『っ!』
彼女の方から、押し付けられたキス。キャシーは、ロベルトの頬から手を離すと、双肩をなでるように手を滑らせ、素肌の胸に頬を摺り寄せた。
『……いやよ、別れ話なんか聞きたくない』
『だめなんだ。これ以上、君と深く付き合ったら、僕は……っ』
キャシーは顔を上げると、ロベルトのこげ茶色の髪に指を通し、再び唇を重ねた。体のぬくもりがお互いに伝わる。どちらも息が止まるほどに、心も体も熱を帯びていく。
『キャシー……』
『ロル……いや……逃げないで』
キャシーはキスを終えても、ロベルトにしがみついていて、どこうとしない。ロベルトは、手持ち無沙汰だった両手で、キャシーの背中をそっとさすってやった。
すすり泣くキャシーがようやく落ち着いた頃、テーブルに置かれた飲み物はまだ残っていたが、すっかり冷め、湯気が全く出なくなっていた。静かな二人きりの部屋で、ロベルトは言葉を選んで話しかけた。
『キャシー、よく考えてくれ。このまま僕と付き合えば、後悔することになる。僕は、遊びで君と付き合うことなんかできない。こんなに女性を好きになったことは初めてだ。これが一時のたわむれにしかすぎないなら、傷が深くなる前に、いっそのこと君と別れて――』
キャシーは手を伸ばしてロベルトの口に手のひらを当てた。
『いや。いやよ。こんなの。いやな話は二度としないで。言っておくけど、私は誰とでもこんなことをするような女じゃないのよ』
ロベルトの、胸に流れたキャシーの黒髪。普段、軍にいる時は、後ろでまとめているが、今は、結ばず肩に広がっている。つややかで、こしのある、きれいな髪。甘えるように押しつけられているやわらかな頬。目を閉じても開いても、脳内が刺激される。ロベルトは腕に力を込めると、抱き締めたままで、ごろりと転がり、今度はロベルトの方がひじをついて見下ろす形になった。
『……僕でいいのかい? 僕は、なんもとりえのない半異星人だけど、君を思う気持ちなら、誰にも負けはしない。君の幸せを願って、別れることを考えたけど、君がこんな僕でも望んでくれるなら、どこまでも君と一緒に行きたい。君を愛している。愛しすぎて狂いそうになっている』
ロベルトは片手で体を支えながら、キャシーの髪をひとにぎりして、髪に口づけした。キャシーは、涙の乾き切らない目を閉じて、ロベルトを引き寄せるとささやいた。
『ロル……大好き。私はどんなあなたでもかまわないの。別れるなんて、もう言わないで。お願いだから』
『……わかった。ありがとう、キャシー。つまらない話をして悪かった』
唇を重ねると、キャシーの細い指が、ロベルトの背中の白斑の上を滑った。あたたかい手だった。
あの時と同じ手が今、ロベルトの頬の上にある。指の長さまでは憶えていないが、本物のキャシーは、ロベルトの頬をこんなふうに両手で挟むことが好きだった。こうして頬に手を当てて、見あげる『キャシー』の複製体は、本人と何の違いもないように感じる。
「キャシーだろう? 君は」
ロベルトの涙は、キャシーの手をさらに濡らした。
「体は彼女のしぐさを継いでいるのか……」