墓碑銘
当時、彼は健康で、才能に溢れ、生意気な青年だった。
そして、同世代の誰もが生涯をかける職の選択を行う中、彼もまた、そのことについて頭を悩ますこととなった。
安定とリスク、名誉と金銭。様々な要素を天秤にかけ、多くのものが将来を見据えて利己的な選択をした。
だが、彼は家族や親戚、それに教師達の期待と予想を裏切ってある職につく事を選択した。それは彼が若干十八歳の夏のことだった。
彼が現在所属しているのは危険物処理班だった。結成されたのは2年前。ちょうど政局が不安定な時期でテロが多発していた頃だった。彼は学校を出た時から危険物の処理に携わっていたが、自ら志願してそこに加わった。死と隣り合わせの毎日だった。
彼の妻は彼の身を案じ何度も彼に職場を変わるようにと懇願したが、彼の返事はいつも同じだった。
「いつか仕事がなくなったらな」
彼は人を安心させるような微笑みを浮かべて答えた。妻も彼が一度口にした事は決して変えない人間だということは知っていたのでそれ以上は言わなかった。もちろん彼は妻が自分の身を案じていることを十分理解していた。だから、一つ危険物を処理する度に彼は妻の写真を収めたロケットを握りしめた。
政局はますます混乱し、民衆は飢えと貧しさからたびたび暴動をおこした。そして。それを一部の人間が扇動したことで時代は混迷を極め、彼の仕事は忙しさを増していった。
その日は彼にとって久しぶりの休日だった。連夜の作業に疲労が蓄積した彼を見かねて上司が特別にだしたものだった。そのころ彼はベテランの一人に数えられていた。
彼は妻との間に二人の子供を儲けた。彼は手先が器用なのを利用して、よく子供達に玩具をつくってやった。この日も公園の椅子に腰掛けて、子供達が遊ぶのを見ながら小刀を動かしていた。
「よう、たまの休みだっていうのに精がでるこった」
声をかけたのは傷病休暇中の同僚だった。彼とは同い年だが、この前ようやく結婚が決まった。遅い結婚になったのは明日をも知れぬ職業を理由に結婚に踏みれなかったためだが、先日仕事中に片目を負傷し、医者にこれ以上この仕事を続けるのは無理だと言われ、それならということで結婚も決まったのだ。異動はやむを得ないことだと分かっていたから、わだかまりはない。
「そう言うな。どうだ、今夜一杯」
「それはいい。なんなら今からでも」
二人は目を見交わして笑った。もちろん休日とは言えいつ何時処理に走らなければ分からない彼らにとって、そんなことはできるはずも無いことであり、二人ともそれはよく分かっていた。
たくさんの人の心を少しずつ軋ませながら、この時代は回っていたのだ。
その時、彼の娘が駆け込んで来た。
「お父さん、向かいのおばちゃんが路地に爆弾って!」
二人の顔がひきしまる。娘は今にも泣きそうな声で早く早くと繰り返す。
彼はゆっくりと落ち着かせるように娘に問うた。
「落ち着いて、答えるんだ。路地というのはどこの路地だ?」
「雑貨屋の右の角」
ここからそう遠く離れていない。彼は頷くと娘に家に戻るよう言って現場にむかった。
同僚もついてきた。当然だろう。同僚の実家は雑貨屋の向かいだ。
「だめだ、工具が足りない。本部からの応援はまだか」
「他の所で仕事中だ」
彼はもう一度同僚と顔を見合わせた。
「よし、まだ時間はあるはずだ。おまえ工具貰ってこい」
だが長年一緒に仕事をしてきた同僚は首を横にふった。
「こいつが爆発したらおれの家も吹っ飛ぶ。知っているだろう。お袋が寝たきりなんだ。俺はここに残る」
その目に強い意思が感じられ彼はおもわず頷いた。
「じゃぁ、後で」
「おう相棒」
彼は頷くと、その場をはなれた。
爆音が彼の耳にはいったにはその直後のことだった。遅れて悲鳴と怒号があがる。振り返って見えたのは立ち上がる煙りと逃げまどう人。くだけ散った商品。なにかが焼ける臭いがする。
彼は何もする事ができなかった。ただじっと空の一点を見つめていた。
葬儀はいつものように行われた。なんの価値もない勲章が遺族に渡され、式は進んで行った。
周りの人が消えて行くのは日常で、知人の訃報くらいでは心が鈍感になっているのか悲しみを感じない。参列者は機械的にお悔やみの言葉を述べた。
しかし、その分親しい人の死は受け入れがたいものだった。
母親らしき人が写真を抱きしめて哀しんでいる。花嫁になれなかった女性が少し離れたところで泣き崩れている。
彼は未来の妻や子供達をみているようで、目を背けずにはいられなかった。
よく晴れた空を飛行機が切り裂いて行った。
それを見届けると彼はいつもの生活に戻って行った。隣で仕事をする人間が変わる。ただそれだけの事だった。
季節は変わったが、毎日の作業は変わらなかった。彼は仕事に出る前にはいつも机の上の写真立てを手にとり、指でなぞった。そして危険物の処理が完了すると必ずロケットを握りしめた。
いつ空の箱と薄っぺらい勲章になって家に帰る日がきても不思議では無かった。
「夏はまだいいよ。冬になると手がかじかんで思うように動かない」
「確かに。でも夏だって汗が目に入ってくる。」
仲間の一人が査察に訪れていた黒服達を横目でみながらいった。定期的に激励とやらにくるお偉いさんと実際に現場で働く彼等とは一線を画していた。
あの連中に自分等の矜恃と覚悟が理解できるわけがない。
彼らはよく勇者や英雄に例えられ、今後も国のために力を尽くして欲しいと鼓舞された。
だが、彼は勇者ではなかったし英雄でもなかった。言葉だけのうすっぺらな物を守っているという意識もなかった。
彼は爆音が嫌いだった。それだけだった。あの音を、大人でさえ恐怖を感じるあの爆音を子供に聞かせたくはなかった。若い頃を思い出す。彼はそれだけの一心でこの仕事についたのだ。
ある日のこと、彼はいつものように危険物の処理にでかけた。行く前にはいつものように写真の中の家族を指でなぞる。写真の中の家族は年をおうごとに増え父母も健在だった。ここには写っていないが今月末にはもうひとり子供が産まれるはずだった。彼は自分の家族を守ることに必死だった。
その日彼が処理すべき対象は、2つの理由から非常に厄介な代物だった。
まず、市内の各所で同型のものが発見されており、混乱を防ぐため避難勧告が出されていなかった。そして、設置されていたのは彼の自宅から数十メートルのところだった。
規模を考えると彼が失敗することは許されなかったが、どう考えても時間が足りなかった。
危険物を前に、彼の手はごく自然に脇におかれた工具箱にのびた。
彼は生命の選別を強いられた。しかし、運命の天秤の、自分の反対側に乗せられた生命は彼にとって余りに重かった。最後の瞬間、彼はただ強く祈った。
初夏の朝に爆音が響き渡り、煙りがひとすじ、空へとたちのぼっていった。
彼の手により爆発は小規模なものですんだ。だが近所の子供を怖がらせるには十分なものであり、彼自身が逃げる時間もなかった。彼は僅か三十二年の生涯を閉じ逝った。
危険物処理班には結成当時の写真が一枚だけ残っている。そこに映る三十六名のうち十八名が殉職し、十名が職場の移動を申し出た。去って行くものは多かったが新たに加わるものは少なかった。
月日はながれ、彼らの生きた痕跡はわずかに郊外の仰々しい碑に残るに過ぎない。