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「ティナ、ティナだろ」


 男は必死になってティナに問いかけた。どうして自分の名前を知っているのだろう。


「ちが、違います……」

「違わない。ティナだ」


 すぐ目の前で精鋭部隊特有の黒い軍服の肩飾りが揺れているのが、ティナはただ恐ろしかった。黒い軍服の集団、それは精鋭部隊とは名ばかりの暴力集団と巷では噂が立っている。彼らは規律に厳しく、少しの罪も見逃さないことで有名だった。


 その男が、今目の前にいるのだ。

 怖くないわけがない。

 なのに言葉を失い、凍り付いたティナに向かって、男はさっきとは打って変わった優しい声音で呼びかけてくる。


「怖がらなくていい。俺だよ、ティナ」

「……だれ?」


 そう言うのがやっとだった。

 返答を誤れば、さっきみたいに腕をひねられるかもしれない。そう思うと、恐怖で声が震えた。

 そんなティナの様子に、男はもどかしそうに唇を噛む。


「リースだ」

「……リース?」


 ティナは男の顔をまじまじと見つめた。

 日に焼けた跡はあっても、色白には変わりなく、整った双眸はよく見れば優し気だ。軍人らしい鍛え上げられた身体は随分とたくましくなっていてあの頃と比ぶべくもないが、あれから何年もの月日が経っていることを考えれば、納得のいく変貌だった。


「リース……兄様?」

「ああ、そうだよ」


 ほっとしたように男は——リースは破顔した。そのまま彼の広い胸に抱きしめられる。後頭部に回された手が何度も何度もティナの髪を撫でた。


「良かった、会えて……ずっと、ずっと探してたんだ、ティナ」


 何日も洗っていない髪の臭いが気になったし、埃まみれの服がリースの綺麗な軍服を汚してしまうのじゃないかと心配になった。ティナはもがいて、リースの厚い胸を押し返そうと腕を突っ張らせた。だが、鍛え抜かれた胸板はビクともしない。


「お兄様、離して……服が汚れちゃう」

「いいよ服なんて」


 リースは離れようと後ずさったティナの細腰に腕をまわし、一層拘束を強めた。


「遅くなってごめん」


 耳元で囁かれ、ティナは首を振る。


「リース兄様が覚えてくれていただけでも嬉しい。ありがとう」

「忘れるわけないだろ。ずっと探してたんだ……おじさんはどこ?ティナはどこに暮らしてるの」

「父は……亡くなったわ……私は家はなくて、今は大部屋宿で寝てるの」

「大部屋?」


 リースが素っ頓狂な声をあげた。


「あそこは男もいるだろ」

「ええ。でも平気よ。慣れてるもの」

「慣れてる……って」


 リースが戸惑うように身体を離した。


「ティナ、君……」

「大佐‼」

 

 その時だった。

 リースと同じ軍服を着た男が駆けてきて、立ち止まり、敬礼をする。リースの顔つきも瞬時に変わった。


「窃盗団一味、計四十名の捕縛が完了致しました‼」

「わかった。すぐ行く」


 リースは言って、ティナを見下ろした。


「おいで、ティナ」


 リースに腕を取られ、ティナはかたまった。

 おいでって、軍に?

 ティナは顔をかたまらせた。

 リースのことは信用したい。でも、軍に行くのは怖かった。


 父の罪だけではない。

 ティナ自身、盗みを働いたばかりだ。

 それに盗みをしたのは、なにも今日ばかりじゃない。


「ティナ?」

「ごめんなさい……」


 ティナは謝り、リースを振り切る。無理だ。

 いくら優しいリースでも、ティナの今までの罪を知れば、幻滅するだろう。

 それだけは、見たくなかった。

 唯一の温かい思い出が壊れることが、嫌だった。


「ティナ!」


 しかしすぐにティナは捕まった。

 暴れるティナを後ろから抱えるようにして捕らえたリースは、そのままティナを軍の馬車にいれて運んだ。舌を噛まぬようにと口に清潔なハンカチをかまされ、両腕は後ろ手に縛られた。


「ごめんね、ティナ。すぐに解くから」


 悲しそうにティナの髪を撫でるリースから、ティナはそっと視線をそらした。




 

 



 その部屋は軍の施設の奥まった場所に位置していた。

 軍部は迷路のように入り組んでいて、いくつもの似たような扉があり、階段があった。あまりに複雑なつくりに、ティナはきょろきょろと落ち着きをなくしていた。

 もう、どこをどう辿ってきたのか、全くわからない。


 リースは執務室らしい部屋に入ると、ティナの縄を解き、噛ませていたハンカチをとってやった。


「長かったろ?地下には牢があるからね。脱獄した囚人が簡単に逃げられないようになってるんだ」


 リースは言って、淑女にするようにティナの腕をとって長椅子に座らせた。

 もう、そんな親切にしてもらえる立場ではないのに。


「食事を持ってこさせるよ。なにがいい?とりあえず温かいスープと焼き立てのパンを……」

「止めて」


 ティナはぶっきらぼうに言った。

 呼び鈴を鳴らそうとしていたリースが、はたと動きを止める。


「ティナ……?」


 困ったように眉を寄せたリースに、ティナはふん、と鼻を鳴らした。下町にいた女の仕草を真似しただけだから、これで正しいかはわからない。けれど、印象は良くないはずだ。

 思惑通り、リースは訝し気な視線を投げてくる。


「悪いけど、私はね、もう変わったの。昔の私とは思わないでちょうだい」

「それは……どういう意味?」


 リースが真顔になって、呼び鈴を置いた。


「わかってるでしょ。リースお兄様の知ってる善い子で可愛かったティナはもういないの。今日みたいな盗みだってもう何度もしてるのよ、私」

「もうそんなことはさせないよ」

「へえ?お金でも恵んでくださるの?」


 にこりと笑って見せれば、リースは顔を歪める。


「……今までも、そんな生活を?」

「だってくれるって言うんだもの」


 リースが苛立ったように息をついた。


「二度とするな」


 リースから突然漏れ出た低い声に、内心ティナは驚きつつ、腕を組む。


「……リースお兄様に指図される覚えはないわ。私これまでも色々してきたもの、腐りかけのパンだって食べたし、知らないお金持ちの人に頭を下げたことだってあるわ」


 リースの表情が強張っていく。

 温室育ちの令息には、とても現実とは思えない、耐えられない話なのだろう。


 それでいい。


 ティナは元の身分へ戻るだけだ。

 ティナは、父のように間違ったりしない。


「罰でも何でも受けるわ。だから、放っておいて。今さら同情されても困るわ」

「……ティナ」


 リースが掠れた声をあげる。


 出来ることなんてなにもないのだと、理解させなければ。


 そうでなければ、大好きなリースまで巻き込んでしまう。

 だから。

 けれど、リースは思い直したように表情を和らげる。


「ティナ、そう怖がらないで。実はね……」


 と、その時だった。

 部屋の扉がコンコン、と叩かれ、リースは面倒そうに音のした方を睨んだ。


「誰だ」

「僕です、ジェンキンス大佐」


 のんびりした男の声に、リースは顔をしかめる。


「人払いをしたはずだが」

「いや、それが。さっき捕まえた男がですね、殺せ殺せと叫んでいるのですが、執行しても構いませんか」


 執行。

 不穏な響きに、ティナは息を止めた。

 しかしリースは別段変わった様子もなく、日常の会話を続けるように返答した。


「ああ。あの豚?駄目だ。まだ吐かせることがある」

「えええ」


 扉の向こうの男が残念そうな声をあげる。リースは舌打ちをして、ぞんざいに答えた。


「すぐに行くから待ってろ」

「本当にすぐ来てくださいよ。大佐のすぐって全然すぐじゃないからなあ」


 ぐちぐちと小言を漏らしながら、男の声が遠ざかっていく。


 リースは、はあと重いため息をつくが、すぐにティナに向かって「ごめんごめん」と頭を下げた。


「えーっと……情けないところ見られちゃったな。さっきの、俺の部下なんだけど、全然言うこと聞いてくれなくて」


 恥ずかしそうに目をそらした後、しかし思い出したようにリースは顔を戻した。

 

「ああ、そうだティナ。罰を受けるのは偉いと思うけど……窃盗は鞭打ちの刑だよ。君に耐えられるとは思えない。特に執行人は、さっきのあいつなんだけど、加虐的思考が強くてね。女性にも子供にも容赦しないんだ。俺も手を焼いてるくらい」


 リースは試すように首を傾げる。

 その笑顔に、ティナは瞬きをした。


 こんな人、知らない。


「リース……お兄様?」


 誰だろう。

 この、目の前の男は。


「ああ、それとさ」


 リースがゆっくりと近づいてくる。


「どうしてティナは、変わったのが自分だけだと思うんだ?」


 リースは可笑しそうに肩を揺すった。


「悪いけど、俺もね昔の俺じゃないんだよ。ティナ——」

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