第七十四話 真琴ウイーク【木曜日】 〜弐〜
エレベーターは程なくして、十九階に到着した。
最新鋭の高速エレベーターなので、地下三階から、ものの数十秒で着いていた。
到着したときと同じポーンというチャイムが鳴ると、ドアがゆっくりと開いた。
閉まらないように、神崎が開くボタンを押し、真琴と灯が降りるのを待つ。
灯はヒールを鳴らしながら、コツコツとエレベーターから降り、また、その後ろを真琴、そして神崎といった順番で降りた。
真琴たちが乗ってきたエレベーターはプライベートなものなので、一般のエレベーターとは別の場所にある。
エレベーターが専用なんて贅沢な話だが、当初からこのフロアを使用する際に設置されたものであり、灯が望んでつけれたものではない。
少し奥まったところであるため、何もない壁だけの廊下を三人は歩いた。
しばらく廊下を歩きL字に曲がると、綾瀬エンターテイメントの受付が見えてきた。
その受付は、誰もがシンプルだと思うような造りをしていた。
まず色だが、全体的に白を基調として、とても清潔感に満ち溢れていた。
床も壁も天井も、何もかもが白で、どこもピカピカに磨かれていて、まるで新築のビルであるかのようだ。
そして天井近くに取り付けられていた、綾瀬エンターテイメントという名版。
字が浮き出た状態になっていて、その後ろを淡く光が照らしていた。
その名版の下の受付テーブルに受付嬢が二人座っていて、その受付嬢も純白の制服を着用している。
二人とも受付らしく髪を結い小綺麗にしていて、綾瀬の名に恥じない美しさもあった。
そのほかに物はあまりない。
観葉植物が一つと、所属タレントなどの紹介をしているモニターが、壁に取り付けられているくらい。
綺麗でしつこくない、といった社風を受付から出している感じだ。
灯が受付まで歩みを進めると、それに気づいた受付嬢たちが一斉に立ち上がり、無言で礼をした。
規律正しく揃った礼は、一流会社であると自負しているようだった。
灯が通り過ぎるまで、頭を上げようとしない受付嬢たち。
その前で灯は歩みを止め、声をかけた。
「香澄、優子、今日もお疲れ様」
灯は全ての社員を名前で呼んでいた。
もちろん、社員の名前は全て覚えている。
灯の特技は、一度会った人の名前は忘れないことであり、情報さえ得ることができれば、電話番号、住所、学歴や家族構成、生年月日まで電子データを記憶させるように、脳に刻み込ませることができるのだ。
だから名前を忘れた、なんてことは一度もない。
そして急いでいるときや大勢いるとき以外、見かければ必ず社員の名前を呼ぶことにしていた。
当然、灯に名前で呼ばれることは、社員にとって喜ばしいことである。
受付嬢たちは顔をあげて、にこやかに返事をした。
「とんでもございません。灯様こそ、お疲れ様です」
「灯様、今日もお綺麗です」
「ちょっと、優子! 灯様に失礼でしょ」
「何言ってるの香澄。綺麗だっていう褒め言葉のどこが失礼なのよ」
「あなたのそういうところが、失礼だって言っているの」
先ほどまで凛々しかった受付嬢たちが、灯に声をかけられた途端、気持ちが緩んだように、普段はこんな感じという雰囲気を見せていた。
受付、接客のプロである二人が、こんなに緩むことなど滅多にない。
これは灯の人望が成せる技だ。
だがそこへ間髪入れず、神崎が身を乗り出し、眉を寄せ怒り顔作った。
神崎は灯のマネージャーが本業ではあるが、人事部長でもあり社員教育の最高責任者なので、常に社員の動向に目を向けている。
「お前たち。灯様に声を掛けられたからといって、調子に乗るな。しっかり綾瀬エンターテイメントの顔として、気品を持つんだ」
「わかりました、すみません」
「はーい。了解」
そんな返事に、神崎はやれやれといった顔を作った。
これは再教育が必要だな、と考えだす神崎に対し、灯は穏やかな笑みで言った。
「二人とも、しっかり仕事をしていれば、また飲みに連れて行ってあげるわよ」
「本当ですか? 灯様。頑張って仕事に励みます」
「私も頑張ります。だから是非連れて行ってください」
神崎の説教で受付嬢の顔に戻りかけた香澄と優子であったが、灯の一言でまた素へと戻っていった。
すると二人は、真琴を見つけた。
「久しぶりだね、真琴ちゃん」
「真琴ちゃん、今日も可愛いね」
「お久しぶりでございます。香澄さん、優子さん」
真琴は二人にそう言って優雅に一礼したのだが、二人はその礼を見て、負けてる、と怯んだ。
日常業務でいつもやっていて、プロだと誇りを持っていたのに、まさか高校生に負けるだなんて、と。
香澄は気を落とし、優子は礼の練習をしながら首を傾げていた。
再び灯は歩き出した。
「それじゃ、頑張るのよ」と、灯は言い残し、その場を立ち去ると、真琴と神崎もそれ続いた。
灯たちが受付から奥へ進むと、廊下の両側にいくつかの待合室があった。
そこは来客があった際、受付により通される場所であり、入社志望の人が来たときの面接場所だ。
その待合室の横を通り抜け更に進むと、今度は広めのロビーのような空間に行き当たった。
モダンなカーペットが敷かれ、大きめの対面ソファーとテーブルが四ヶ所、窓際にカウンターテーブルといくつもの椅子、それにバーカウンターまである。
壁際には大きめの本棚や書籍ラックが置かれ、びっしりとファッション雑誌や各種メディア本が並んでいて、まるで書店のようだった。
極め付けが一番目立つところに貼られた、灯の特大ポスターだ。
とても美麗で、妖艶で、神々しいそのポスターは、いつまでもそこにいたくなるような存在感を発揮していた。
ここの空間は、談話室または休憩室といったところで、社員がいつも待機している場所だ。
現在はバーテンダーを含み二十人ほどの姿があり、いずれも所属モデル、タレントであった。
そんな社員たちが灯を視認すると、一斉に立ち上がって、灯の方を向き礼をした。
「今日も頑張っているわね。私はしっかり見ているから、存分に輝きなさい」
灯は立ち止まり、そう言って社員たちを激励すると、手を上げてそのまま素通りして行った。
真琴はペコリと頭を下げ、神崎はしっかり働けと厳しい目を向けていた。
灯たちは奥へ奥へと進み、途中いろいろな部屋、例えばメイクルームやドレスルーム、ミーティングルームなどがあったのだが、それらを気に求めず、一番奥にある社長室に入った。
社長室はガラス張りで、ブラインドにより遮断はできるものの、普段は周囲から筒抜け状態となっている造りだった。
その中には社長席、書棚、壁掛けモニター、観葉植物くらいしかない。
まあ、灯がこの場所でゆっくりしている時間はあまりないのだから、特段必要もない。
灯は社長席にドカっと座り、真琴と神崎はそんな灯の前に立つ。
そして灯は言った。
「さ、仕事をしましょうか。今一度、マコの予定を訊くとしましょう。五時からパンフレットのスチール撮影だったわね。何のパンフレットなの?」
「そのパンフレットは、綾瀬エンターテイメントの五周年記念パンフレットです。来年一月に設立五周年を迎えるため作成します。その表紙はもちろん灯様なのですが、裏表紙に真琴様を起用します。やはり次代を担うといった意味も込めなくてはならないと、副社長と二宮さんがお決めになりました」
「そう、夏帆と小雪が」
そう呟いて、灯はほくそ笑んだ。
ここでまた、会社についての説明をする。
綾瀬エンターテイメントの会社経営は、前述したとおり灯以外の複数人に委ねられていた。
灯が呟いていた、夏帆というのは、松平 夏帆という副社長の任に就く者であり、小雪というのは、二宮 小雪という社長秘書である。
本来なら小雪は灯の社長秘書として働く予定であったのだが、そういった会社の体制から副社長の秘書となってしまい、本人としては腑に落ちなかったという経緯もあった。
そのほかに、財務部長の天堂 睦月と、企画部長の天堂 葉月という姉妹がいて、その二人は夏帆たちの部下に当たるのだが、実質この四人と神崎で会社を運営している。
いずれも灯に絶対の服従と軒並みならぬ業績を残しているため、灯は最大の信頼を寄せていた。
そんな夏帆たちが考えることだ、間違いはないだろう、と灯は考え、真琴に言った。
「マコ」
「なんでございましょうか、灯お姉様」
「そのパンフレットは、ただのパンフレットじゃないわね。普通なら葉月が企画部内で企画することなのに、夏帆たちが動くなんて、きっと何かやるつもりなのよ。おそらくこれを機に世界に売り込むとか、そういうことを考えているんじゃないかしら」
「そ、そんな大役、わたくしなんかより、相応しいお方が大勢いるではございませんか。何故わたくしに白羽の矢が立ったのでございましょう」
「それはわからないけれど、私は夏帆たちを信じているわ。あなたを起用するのは勝算があってのことよ」
「ですが、わたくしはまだ新参者でございますし……」
「あらあなた。やれないって言うの?」
灯は真琴に、威圧的な視線を送った。
これは姉妹というより、上司と部下、社長と社員といった感じだった。
真琴はその視線により、身体を硬直させた。
まさしく、蛇に睨まれた蛙だった。
「わたくし……、わたくしなら可能でございます」
「そうよね。私はあなたなら大丈夫だと確信しているもの」
途端に上機嫌な様子を見せる灯。
真琴の横では、やれやれ、灯様には困ったものだ、と神崎が苦笑いしていた。
そこで灯はこの話を打ち切り、次の予定へと移行した。
「六時からマコと、梓と雫の話し方講座だったわね」
「そうです。これは何も、灯様がやらなくてもいいことではないかと思いますが。わざわざ他の予定をキャンセルしてまで、やることではないかと」
「クドイわね。前にも言ったけど、言葉遣いは容姿の次に印象を与えるものなの。うちで働く以上は、直さなくてはならない。だからここで最も発言権のある私がやった方が、効果的なのよ」
「確かに灯様がやるのであれば、効果覿面に発言の重要性を知ることができるでしょう。灯様の言葉は、もはや言霊ですからね」
「バカにしてるの? 神崎」
「とんでもありません。私は心底そう思っていますよ。かく言う私も、その言霊にやられた一人ですからね」
まったく、という顔をした灯。
この調子は、いつもの灯と神崎のやり取りだ。
灯にここまで言えるのは、この綾瀬エンターテイメントでは、神崎と夏帆たちの五人くらいである。
灯と対等に話ができる神崎を、真琴は尊敬の眼差しで眺めていた。
ところで話の中で出てきた梓と雫だが、真琴と同じ今年度入社した新人で、梓が大阪出身のアイドル志望、雫が北海道出身の女優志望なのだ。
真琴は最初、灯にアルバイトと言われその気できていたら、いつのまにか入社させられていた。
だから言葉に難ありという新人が、今年三人入ったというわけだ。
念を押しておくが、大阪弁や北海道弁が難というわけではない。
二人の口調というかなまりが、あまりにも酷かった。
見かねた灯が、真琴と合わせて矯正してやろう、と考えたのだ。
「あとは、私と夕食を摂って、レッスンだったわね。必ず十時までには送り届けるのよ」
「もちろん、そのつもりで手配しますが、少々真琴様に過保護というか、入れ込み過ぎではないですか? ほかの新人や社員たちに悪い影響を与えると思いますが」
「神崎とあろう者が嫉妬しているのかしら?」
「そうではありません。と、言いたいところですが、そうなのかもしれません。真琴様が入社してから、灯様の肩入れが相当なものだと感じています。わが社の灯様はカリスマですから、私のほかにもそう感じている者がいるかと」
「そうなの、それは困ったことね。マコは私の大事な妹の恋人であり私の家族なのだから、肩入れというよりも家族愛の表れなのよ。私が学校へ迎えに行くのも、家族としては当然のことでしょう」
「それがダメだと言っているのですよ。仕事に家族愛を持ち込むのは、公私混同というものです。ましてや仕事の予定をずらしてまで迎えに行くなんて」
「神崎?」
「何でしょう」
「あなた、随分私に意見するわね」
灯の顔つきが変わった。
社長席に座ったときから、穏やかといった顔は見せてはいないものの、緊張感の中にもゆとりのあった会話だったのだが、先ほど真琴にした威圧的な視線とは別な、冷たい目つきになったのだ。
まず先に、真琴が気後れしていた。
灯のこんな顔など見たことない、そんな驚きもあった。
そして神崎は、反省したような表情で灯に言った。
「申し訳ありません。調子に乗ってしまいました。以後、気をつけます」
「そうね、気をつけなさい。あなたはわたしのマネージャーなのだから、しっかりマネージメントしていれば、そういった問題は解決できるでしょう」
「わかりました。尽力します」
真琴はどこを見て良いかわからなくなった。
自分のせいで言い合いになるなんて、申し訳なくて仕方がない。
目を泳がせながら、チラリと神崎の方を見てみると、神崎はまたやってしまったというような雰囲気を出していた。
初めてじゃないんだと思い、真琴は少し安心した。
でも灯の自分に対する接し方で、会社の社員たちに不満を与えているのか、と思うと胸が苦しくなった。
確かに灯の愛情は嬉しいが、とても嬉しいことなのだが、会社の不穏となるようでは社員が困り、誰より灯が困ることになる。
そんな真琴の思いに気づいたのか、灯は普段家族として認めてくれているような、穏やかな顔を作った。
「マコ。あなたは何も気にせず、自信をもって私に愛されなさい。湊ちゃんの恋人であることに誇りを持って、仕事を頑張りなさい。いいわね」
「畏まりました。邁進致します」
そんな灯の言葉に、真琴は雑念を捨てていた。