第六十五話 カオルの浅はかな作戦【第五段階】
ミナが三度目の座布団に座るのを確認すると、僕はドアの鍵をかけた。
もう誰かと話をする時間もないし、僕たちが行為に及んでいるところに出くわしたら大変だからだ。
どんな行為かという問い合わせは、受け付けない。
ただ言えるのは、ミナが不満にならないような快楽を与えてやるということ。
更に知りたければ、これから行なわれる情事を、とくと拝見するがよかろう。
鍵をかけると一層、密室度が増した気がした。
部屋の中の空気と外の空気が、完全に遮断されたような感覚だった。
ここは僕とミナとしかいない世界だ、とバンザイをして飛び上がりたい気分だったが、グッと堪え、密かに作るガッツポーズだけに止めた。
その掌には、微かに汗が滲んでいた。
ここは僕の部屋のはずなのに、違う場所へきたんじゃないかいと錯覚し、目を擦ってみる。
だが確かに僕の部屋だった。
いつもは汚い部屋だからと、違う場所に感じたわけでは決してない。
僕の部屋という固定観念を壊すほど、ミナの存在感が大きいのだ。
ミナを見るなり、次第に緊張が張り詰めいった。
口の中に溜まった唾液を、ゴクリと飲み込む。
その飲み込んだ音を聞かれないように、「んん」と喉を鳴らして、誤魔化した。
僕のこの緊張感を気づかれてはいけない。
このあと、何かされるかもしれないと感づかれてはいけないのだ。
それでなくても、ミナは冷静かつ敏感なのだから。
ミナはそんな密室感を感じていない様子で、悠長にミルクティーを飲んでいた。
あまりにも無防備で、鼻歌まで出てきそうな、ご機嫌な様子を見せている。
妹効果が出ているわけだが、何にしても空気がアクティブなら、気持ち良く行動ができるというものだ。
ふと、よくない考えが頭をかすめた。
もしかして、作戦を労せずとも、押し倒してやってしまえるのではないか。
覆いかぶさって、力任せに肩を抑え込み、強引に唇を奪ってから、そのままなし崩し的に……
いや、ダメだ。
ミナは合気道のプロフェッショナルだった。
僕が襲い掛かった時点で、手の関節を決められ、転がされるのがオチだ。
危ない危ない、もう少しで罪が罰となり返ってくるところだった。
そんな考えを巡らせながら、僕は自座布団の上へと座った。
時計の針は、あと十分で五時になろうとしているところだった。
タイムリミットは残り四十分。
想定される時間配分としては、キスをして雰囲気づくりに五分、ミナの服を脱がせるのに五分、ベッドでイチャイチャ情事をするのが十五分、ミナが服を着るのに五分はかかる。
そう上手くいくかよ、との批判もあるかもしれないが、失敗すると思いながらする行動は必ず失敗するので、ここはアクティブに上手くいくと信じるしかない。
それでは残り十分の中で、本を読ませその気になって貰わなくてはいけないということか。
なかなかタイトなスケジュールだ。
一縷のすきも作れない。
さっそく僕は、問いかけた。
「ねえ、ミナ。今日貸してあげる本なんだけどさ。少しここで読んでいかない? 僕が見どころを教えてあげるからさ」
「見どころですか? それを訊いちゃったら、ネタバレになるんじゃないですか?」
「いやいや、そこはちゃんと考えてあるよ。内容が一層面白くなるはずさ」
「そうですか……」
正直、何も考えていないが、この場での展開が一層面白くなることは間違いない。
この際、多少のネタバレはやむを得まい。
僕はミナの結論を待たずに、本棚へと向かった。
向かったと言っても、本棚は目と鼻の先にあり、膝立ちで取りに行く。
本棚の中には、整然と漫画が並び、一瞬感動に囚われた。
普段、読みたい本を探すのがえらい苦労をするというのに、部屋を綺麗にするというのは、このような副産物もあるのか。
だが、そんなことはあとで考えればいい。
今は添加剤ともいうべき、目的の本を取りださなければ。
その本はというと、『私の彼は女の子』の第六巻だ。
この第六巻の僕が見せたい内容は、彼の部屋に主人公の私が訪ねる、といったもので、まさにこの場と同じシチュエーションなのだ。
シチュエーションが同じでも実際は、このような卑猥な本を借りに来るということではなく、彼が風邪により倒れたためお見舞いに、ということだったが、僕は風邪をひいたことがないため完全一致のシナリオはありえない。
要は、似たような雰囲気を作ってしまえばいいだけのこと。
なかでも、主人公がバランスを崩し、彼を巻き込んで床に倒れた際の、彼がした壁ドンならぬ床ドンは見ものだ。
こんな状況になれば、誰でもイチコロに落ちることだろう。
僕は第六巻だけを抜き出した。
ここで全巻を持って行ってしまったら、「やっぱり帰ってから読みます」と、纏めだして帰り支度をされる可能性も否定できないので、まずは一冊だけ持っていくのが賢明だ。
また膝立ちで戻り、「これだよ、これ。この六巻に見どころがあるんだ」と、言いながらミナに差し出した。
ミナは、「あ、そうですか」と訝しげな顔をしながら、本を受け取っていた。
気が進まなそうに、本の表紙と裏面を確認している。
まだネタバレのことを気にしているらしい。
そこで僕は、間髪入れずに「まあまあ、開いてみてよ」と促す。
「八十ページから読んでみて」と続けた。
ミナは不満な様子は見せるものの、僕の信頼が勝っているからか、手を止めることなくパラパラとページを捲っていた。
そしてミナは、目的のページまで達したのか、ページの捲りを緩めると、見る体制へと入っていった。
要約すると、彼の部屋に主人公がお見舞いに行き、主人公が彼の体を支えようとした瞬間にバランスを崩し、もつれ合う様に二人ともベッドの下へと倒れ込み、期せずして彼が壁ドンの状態になったことからムードが高まって、キスのあとに情事へと流れていくという展開だ。
この僕の説明を聞いただけでは、大したことのない内容だと思うかもしれないが、その実、これはとても官能的な漫画なため、艶かしい登場人物の表情や、イヤラシイ情景描写と重なり、ドキドキと心臓の鼓動が増していっても然るべきものとなっているのだ。
現にミナは、食い入るように漫画を見ていた。
完全に漫画の世界に没頭している。
僕の思惑どおり、ミナは感情移入しているようだ。
その一話を読み終えると、僕をチラ見した。
そしてすぐさま、照れを隠したように下を向く。
完全に術中にはまっているミナに、とても素直な印象を受けた。
恥ずかしがっている、といった仕草は、とても純だった。
それに比べて僕は、ミナとやることしか考えていないなんて、なんて大バカものなんだ、とは思わず、しめしめ上手くていっている、とほくそ笑みたい気分になる。
所詮、男なんてそんなものだ。
やることしか考えていない。
これはいけると感じた僕は、ミナを凝視した。
もとい、熱い想いを込めて見つめた。
生唾も出てきたが、今度は誤魔化す余裕もないため、ダイレクトに飲み込んだ。
これは真剣なんだという、緊張感として伝わるはずだと思っていた。
だがミナは、ニコリと微笑むと、僕にマカロンの皿を寄せてきた。
恥じらった様子はまだ消えきっていなかったものの、少しホットした感じでマカロンを勧めてきていた。
なぜか僕のギラついた眼差しは、お腹が空いたのだと勘違いさせたみたいだ。
「カオル君も食べてみてください、美味しいですよ」と、健気にも僕に気遣いを見せている。
くそ、何か間違えたか?
僕が食べたいのはミナなんだ、と叫んでしまいたかったが、そんなことをできるわけもなく、仕方がないと好意に甘え、マカロンを摘むとそのまま口の中へと放り込んだ。
モグモグモグ。
ん、美味い。
美味いぞ、これは!
ミナの味こそしないが、ビターなチョコ味で、甘すぎず、とても濃厚だ。
しっとりもっちりとした食感が、なんともいえない噛みごたえで。
って、そんな感想を述べている場合じゃない。
噛めば噛むほど苦しくなってきた。
もっちりが口の中に広がり、中を接着するように纏わりついてくる。
やべ、詰まった。
苦しい。
そんな僕の様子を見たミナは、急いで僕にミルクティーを差し出したきた。
僕も慌てて渡されたミルクティーを口の中に流し込む。
ミルクティーがマカロンを巻き込んで、喉を通り抜けて行った。
涙目となっていた僕は、助かった、ミナは命の恩人だ、とミナに感謝の言葉を告げようとしたのだが、「一口で食べるからですよ」と、呆れ顔をされ、「ついつい美味そうだったからさ」と照れ隠しをいうハメになった。
あれ? おかしいぞ。
脚本と違う。
このままじゃ、筋書きどおりにいかない。
そしてミナは、僕の考えなど眼中にないとばかりに、上品にマカロンを一口齧ると言った。
僕のように丸ごと一口ではなく、一欠片といった感じであったが、その所作は寂しさを纏っていた。
「本当は、マカロンをナイフとフォークで食べたいところなんですけど、わたし、ナイフ使えないですしね」
「あれ? デザートナイフは大丈夫なんじゃなかったっけ?」
「大丈夫なことは大丈夫なんですけど、少しだけボーッとしちゃうんです。わたしが平気だと思っていても、きっと周りから見たら、イマイチなんですかね。だからお姉ちゃんに、練習のとき以外は使うなって言われていて」
「だけどそれじゃ、ナイフを使わなくちゃいけない食事はどうしているんだい? ステーキとかの洋食ってナイフを使う食事多いだろ」
「それはお母さんやマコちゃんがあらかじめ、カットしてくれているんです。それにそういった食事のときは、自分たちもわたしの前で使えないから、事前にカットしていて。面倒くさいですよね、わたし」
とても切ない表情で、はにかんでいた。
そういえば、ミナの家に泊まったあの夜も、ピアノコンサートの祝賀会も、確かにナイフを使った料理は出てこなかった。
あのときは腹も減っていたし、箸でなんの問題もない食事だったから、全然気にならなかったが、思い起こしてみれば食べやすいようにカットされていたかもしれない。
間近で見たことはないが、ミナのナイフにより卒倒することは、僕も聞いている。
あの男集団に襲われた事件だって、そのことにより致命的な事態になってしまったってことも。
だからこれまで、何気ないところに出てくるナイフに、気を使った生活を送っていたのだろう。
そんなことを気にしたことのない僕には、想像もつかないが、きっと大変だったに違いない。
ミナは未だ切なさを隠しきれないでいた。
僕は再び気落ちしそうになったミナを、勇気づけるべく、言葉を振り絞った。
「面倒くさくなんかないよ。みんなも決してそんなこと思ってない。
例えば、あれだ。乳製品やキノコなんかのアレルギーを持った人は、料理する前に抜くだろ。宗教によっては食のタブーがあるじゃないか。
それと同じで、ただやっちゃいけないことをやらないだけ。それが面倒だとは誰も思わないよ」
「そうですかね」
「そうだとも。別にミナが悪いわけじゃないんだから、そんなに悲観することはないんだよ。僕なんか、自分が部屋を片付けられないから母さんに片付けて貰ってるんだから、そっちの方がよっぽど面倒くさいやつさ」
「カオル君、優しいですね。男の子にそんなこと言われたら、ドキッとしちゃうじゃないですか」
少し涙目となったその瞳には、安堵が浮かんでいた。
僕は、言って良かったと心から思った。
やましい気持ちなど微塵もなく、ただ純粋にミナが元気になって欲しかった。
そのことで落ち込んで欲しくなかった。
ミナも僕の言ったことに救われたとばかりに、瞳に安堵感を込めていた。
頬もほのかに赤くなっている。
目の前にいるミナは、この上なく魅力的な女性だった。
その愛らしさ、そのいじらしさは、この世のものとは思えないほどであり、どうしようもなく僕を魅了した。
作戦のことなど忘れさせられるほどの存在感。
僕はすっかりその空気に飲まれていた。