第二十五話 トラウマ【中編】
廊下の方から、トントントンと足音が聞こえてきた。
どっちかな?
沙織のお手洗いは、そんなにすぐ来れないだろう。
それじゃ、手際のいいマコちゃんだな。
沙織の足音は胸の荷重を上乗せしたような感じだから、この上品な足音はマコちゃんだ。
「湊様。ドアをお開け頂けませんでしょうか」
やっぱり。
ドアを開けてということは、きっと手が塞がっているのだろう。
ぶつかってはいけないので、外開きのドアをゆっくりと開けた。
そこには、グラスに注いだ飲み物と、籠に入った果物を乗せたお盆を持って立っているマコちゃんがいた。
飲み物は何にしたのかな?
ミルクティーかな?
お摘みは、果物か。
林檎が二つと……
期せずして、林檎の横にあるそれが、わたしの視界に入ってきた。
キラッと光り、脳の奥まで刺激する。
銀色で鋭利に尖ったそれは、わたしに圧倒的威圧を放ってきて、わたしの脳裏に「失敗した」という文字が浮かんだ。
霞んだ意識の中で、「沙織さん、大変です。湊様が!」と、マコちゃんが叫んでいるようだったけど、こうなってしまうと如何せん、どうすることもできない。
意識が遠くなり、時間がスローに流れ、頭がボーッとしてくる。
脳の回転が遅くなっているのかもしれない。
全てがゆっくりに見え、霞んで見え、現実感がなくなる。
どうにか視界に収まっているのは、不安げなマコちゃんの表情だけ。
必死に大丈夫だよ、と訴えようとしても、届かない。動かない。
時間と共に、わたしの脳は覚醒していった。
だんだん意識が明確になって、時間の流れが回復していくのがわかる。
すると、いつの間にか沙織が近くにいて、「大丈夫よ、真琴さん」と、わたしを包むように両手で抱きしめてきた。
こんな状態のときは、沙織がいれば、いつも抱きしめてくれる。
思うように動かないわたしにとっては、とても安心できる行為だ。
「真琴さん、果物ナイフを隠してください」
「はははい、かか、かしこまりました」
そんなやり取りをしているのだけど、わたしは完全には戻れていない。
沙織に抱かれ、髪を撫でられ、豊かな胸に包まれていた。
だんだん脳は落ち着いていくのだけど、今度は逆に心の動きが増していく。
やってしまった。
マコちゃんに心配をかけてしまった。
不安にさせてしまった。
いきなり好きな人が目の前で昏倒したら、動揺は計り知れないもののはずだ。
動かなくなってしまったわたしがどうなってしまうのかと、混乱したに違いない。
動揺が走る。
もっと、早く言っておけば、こんなことにはならなかったのに。
油断さえしなければ、甘く見てさえいなければ。
マコちゃん、ごめん。
意識が完全に覚醒したわたしは、マコちゃんにひたすら謝った。
わたしの家族や沙織、尊はもとより学校の先生やクラスメイトたちにも、周知の事実であったのだから、未だマコちゃんに話していなかった、わたしが悪かったんだ。
「そうお詫び言を頂かなくとも、わたくしは湊様がご無事でありましたことが、本望でございますので」って言ってくれても、わたしは本当に申し訳なく思う。
マコちゃんの手を取ってみた。
平静を装おうとしても、微かに手が震えていた。
本当に心配したのだと、口にしなくても、その瞳の潤みで感じ取れる。
これからずっと一緒にいるのだから、いつでも話すことができる。
そんな甘さが、いらぬ不安を招いてしまった。
まず話そう。
遅くなったけど、わたしのトラウマを知ってもらおう。
後悔先に立たずだけど、ちゃんと打ち明けなければならない。
わたしが刃物を見てしまったときの症状と、わたしがなぜ刃物がダメになってしまったのか、ということを。
「マコちゃん、あのね……」
と、わたしは切り出した。
わたしが刃物を一見すると、立ちくらみさながらに意識が薄れ、ヘタリ込んでしまう。
周りから見たら、電池が切れたように、崩れ落ちるのだという。
意識は少しあるのだけど、体の自由を奪い、身動き一つ取れない。
別に動悸がしたり、過呼吸になったりということはない。
痙攣したり、筋肉が硬直したりすることもない。
なんていうか意識がぼーっと遠くなって、体に力が入らなくなるんだ。
軽い麻酔を打たれたような、そんな感覚。
この症状が出たからって、後遺症とかはない。
だから実害としては、少しの間、わたしの時間が止まるということだけ。
そう長くはない時間で、おそらく三分から五分といったところだと思う。
それは経験値の予測であり、実際に測ったものではないのだけど。
これが刃物を見てしまったときの症状だ。
「……っていう感じになってしまうの」
「そのようなことになられるとは、遺憾ながら気づきませんでした」
「気づくわけないよ。刃物さえ見なければ、普段はなんともないんだから。それで、わたしが刃物をダメになった理由なんだけど……」
次いで、わたしが刃物にトラウマができた理由を話す。
それはわたしが五歳のとき。
お父さんの休日に、晩秋、落ち葉舞う公園を、二人で近所の駄菓子屋へ向かって歩いていた。
「よし、湊。今日は好きなものなんでも買ってやるぞ」
「え? 本当に? やったー!」
ルンルンなわたしに、お父さんもご満悦といった感じで、手を繋ぐ。
その繋いだ手は決して離れることなく、安心感のある優しいぬくもりに包まれていたことは、今でも記憶に残っている。
滅多にいないお父さんがいることに、気持ちが高揚していた。
お父さんは忙しく、いつもわたしが起きる前に出勤して、寝てしまった深夜に帰ってくる。
海外出張もしょっちゅうで、一緒にいられる時間がとても少ない。
だからたまに一緒にいられるときは、ものすごく可愛がってくれる。愛してくれる。
なんでも買ってくれるということに、喜ぶ素振りを見せたけど、本当はお父さんといられることだけで幸せなのだと、言いたいくらいだった。
公園の向こうに、駄菓子屋がある。
お菓子をたくさん買ってもらったら、お父さんといっぱい食べよう、そんな思いに胸を踊らせる。
足取りも軽い。
人々が往来し、寄り添うカップルや、仲が良さそうな親子連れが見え、その幸せそうな光景が、この気持ちに花を添えた。
今日はお母さん、ピアノの仕事でどうしても行かなくちゃいけないからと、一緒に来れなかった。
今度は、あの親子連れのように三人で来たいな、なんて思った。
どうせなら、お姉ちゃんやお兄ちゃんと五人で来たいな、とも夢みる。
みんな忙しいから、たぶん無理だけど、もし叶うなら五人揃って時間を共有したい。
でも今は、お父さんといるこのときを、めいっぱい楽しもう。
お父さんとお菓子を選ぶことを想像すると、気持ちがはやり、足が勝手に動き出して、必然的にお父さんを引っ張る形となった。
すると急に引き止められるように、グイッと逆に引っ張られた。
わたしは驚き、咄嗟にお父さんの顔を伺う。
そのお父さんの顔は、どこか緊張感があり、深刻な顔をしているように思えた。
視線がわたしではなく、その先の、公園の門の方を向いている。
恐る恐る視線の先を追うわたし。
視界に写ったのは、どこか不自然な様子のおじさんだった。
体を覆うような真っ黒のコートを着ていて、ニット帽を被り、サングラスをして、マスクをつけている。
一瞥しただけで、とても危険だと感じた。
きっとお父さんも同じ気持ちだったのだろう、わたしを握る手に力がこもる。
どんどん近づいてくる、おじさん。
コートの中に、右手を抱えるように突っ込んでいる。
何事もなく過ぎて欲しい。
通り過ぎて、なんか変な人だったね、と、ホッとしたい。
そんな期待も虚しく、コートの中から右手が放たれた。
その手には、銀色に閃く鋭利な刃物を持っていた。
その刃は冷たく輝いていた。
おじさんの心が繋がっているように、冷酷な光を放つ。
お母さんが料理を作っているときに見慣れていたはずなのに、外で見るにはとても違和感を感じる道具。
わたしは動けない。
その威圧に体が硬直する。
そしてその場にへたり込んだ。
お父さんが「湊!」という言葉を発したと同時に、わたしは弾き飛ばされた。
固まってしまったわたしの体は、物体のようにゴロゴロと転がる。
不思議と痛みを感じることはなく、体の転がりが止むと、ちょうどお父さんとおじさんが視界に収まる。
相変わらず体の硬直は解けないけれど、脳だけが未だ動いていた。
時間がゆっくりと進んでいるような気がする。
わたしの瞳に、お父さんのお腹に刺さっていく刃物が、鮮明に写る。
とても恐ろしい。
人に凶器が入っていく瞬間。
お父さんは果敢にも、刺された上から刃物を握る。
お腹と掌から血が溢れ出し、混ざり、滴り落ちた。
その後の記憶は、わたしにはなかった。
気を失ったのだと思う。
眠りについたように、フッと意識が途切れる。
だけどなぜか誰かに救われたような、そんな感覚が残った。
きっと幸せを剥奪されたという思いが、誰かに助けてほしいという願いになり、想像の中で救われた感覚になったのだろう。
あとで訊いた話によると、周りの人たちによる通報が早く、すぐに救急車が到着して、幸いにもお父さんは大事に至らなかった。
お父さんが刃物を握ったお陰で、深く刺さらず、運よく重要な内臓を傷つけなかったというのも、大事に至らなかった要因の一つだ。
刃物を握られた犯人は、追い打ちをかけようとしたのだけど、誰かが止めたらしい。
現場では話が輻輳していまい、幻のようにその存在は消えてしまった。
一説には子供のようだったという情報もあったが、混乱した現場と、一瞬の出来事で、よくわからなくなってしまったらしい。
だからお礼を言いたくとも、その誰かはわからないままだ。
お父さんを刺した犯人は、すぐに捕まった。
警察が来たときには、現場で脳震盪を起こし、倒れていた。
犯人の身元はすぐに判明し、お父さんの会社が買収しようとした先の、社員だった。
買収といっても、倒産寸前の会社の技術を存続させようとしたのが狙いだったようで、黙っていても潰れていた会社だったという。
その会社の社員が、どこで勘違いをしたのか、会社が倒産しそうなことを買収のせいだと思い込み、事件を起こした。
だから結局のところは、逆恨み。
犯人はもちろん悪いけど、買収話はそう簡単に社員へ伝わるはずないから、会社の内部に問題があったのかもしれない。
そんな会社だからこそ、倒産しそうになったのだと思うと、頷ける。
このことにより、買収話もなくなり、会社は倒産した。
因果応報というやつだ。
それからというもの、わたしは刃物に対し過敏に反応するようになり、始めのころはデザートナイフやハサミでさえ、放心状態になってへたり込んでしまうといった症状を引き起こしていたんだ。
気絶したことも、何回かある。
わたしのことを守ってくれているような、不思議な感覚を残した気絶。
ちなみに、気絶するときとしないときの境は不明なのだけど、片手で数えるほどしかないから、確認しようもない。
ただの気絶なのだから、確認するまでもないけど。
今は、デザートナイフやハサミは何とか大丈夫になったのだけど、それでも癖で目を背けてしまう。
「別に包丁なんて使わなくても、生きていけるわよ」なんて軽く言いながら、対面だったキッチンに壁を、むりやり入れてしまったお母さん。
料理を作るのを見たり、お手伝いしたりすることが好きだったわたしは、そのことを皮切りに見ることすらできなくなってしまった。
でも大好きなお父さんが無事だったんだから、それだけでも良かった、と心底思っているんだ。
結局残ったのは、お父さんの傷口とわたしのトラウマ。
その事件がきっかけで、わたしは強くなろうと奮い立った。
守られてばかりの立場じゃいられない。
大切な人が傷ついていくのを、黙って見てもいられない。
だから強くなる。
強くなってやる、と子供ながらに思ったのだった。




