ゴッホの横顔 3 【解答編】
解答編です。よくお考えになって、この先へ進んでください。
「さて、簡単な話です」
4月のあの日、探偵はそう言った。
探偵は普段、眠ったような状態になっていて、意識はないらしい。俺が「さて」と言った時に、揺り起こされるのだそうだ。そしてその時、俺の記憶が流れ込む。過去1日分くらいだと言っていた。
そうして意識の表層に現れる探偵だが、ずっとそうしていられるわけじゃない。10分。それだけの間しか出ることはできず、10分経てばまた意識が入れ替わって、探偵は眠りにつく。おまけに、なぜかチャイムの音を聞くと、10分経っていなくても強制的に戻される。だから探偵に与えられた時間はあまりない。
しかし驚くべきことに、探偵にはそれだけの時間で十分だった。やつは呼び出すと同時に、ほぼ謎を解いてしまっているのだ。実はずっと起きているんじゃないかと疑ったりもしたが、そうでもないらしい。
休み時間の間に謎を解いてしまうから、休み時間探偵。それがこの二つ名の由来だ。
探偵の言葉に、岡森はにやりと笑うと、
「へえ、その様子だと分かったみたいだね」
試すような目でこちらを見た。探偵が表層に出ている間、俺は体の支配権を失うが、五感はほぼそのまま残っている。だから、目線を動かすことはできないが、探偵が見ているものなら俺も一緒に見ることができる。口を動かしているのが分からなくても、聞こえてくる声から、探偵が話している内容を知ることができる。
モ○ルスーツを着るのはこんな感じなのだろうか。まあ、自分で操縦もできないが。
「ええ、分かりましたとも」
探偵が言った。探偵と岡森。なんとなくこの2人は似ていると感じる。底が知れない所とか、見透かされているような所とか。
そして俺は、探偵がこう言うのを聞いた。
「岡森さん。あなたは、聴覚障害者ですね」
「岡森は、耳が聞こえない」
ざわめく教室。すかさず、嘉屋弟が言った。
「おいおい、カモちゃん。岡森は普通にしゃべったりしとるで?」
「ああ。両耳が聞こえないわけじゃない。岡森は片耳だけの、中途失聴者だ」
中途失聴者。音声言語を獲得した後に、聴力を失った者のことだ。岡森の場合は片耳だけ。嘉屋は、「あ」と何かに気付いたようにつぶやいた。その顔は、少し青ざめているようだった。
「岡森が付けていたもの、あれはイヤホンなんかじゃない。補聴器だったんだ――そうですね、平城先生?」
俺は、真相を知る先生に確認した。平城先生だけじゃない。今では栄藍高校の教師全員が岡森の事情を分かっているはずだ。
「ええ、そうよ。事情は聞いていたわ」
「そんな、どうして黙ってはったんですか……?」
二郎の質問には、岡森が答えた。
「僕が頼んだんだ。片耳が聞こえないだけだから、注意していれば日常生活は送れる」
「そんなん、初めからろうって言うてくれたら……」
違う。俺は苦々しい気持ちになった。ろうと中途失聴は、全く異なる概念だ。だが、身近に聴覚障害を持つ人がいなければ、認識はそんなものだろうとも思う。俺だってそうだった。
「どうして言えると思うんだい?」
岡森は悲しげな目で嘉屋兄を見つめた。
「自分が欠陥品だって、どうして言いふらさなければならない?」
その言葉に、嘉屋は完全に言葉を無くした。教室が静まり返る。
「ごめん。カモちゃん、続けてくれないか」
岡森は顔をうつむけて、ぼそりと言った。本当は俺が気付いたんじゃない。心が痛んだが、途中でやめるわけにはいかない。自分から言い出したことだ。
それに、岡森が受けた痛みは、これくらいじゃなかったろうから。
4月の、まだ肌寒さの残る廊下で、探偵は謎解きを始めた。
「最初に気付いたのは、あなたに話しかけた時でした。岡森さんは、よく反応が遅れていました。それで、もしかして耳が聞こえにくいのかと」
「でも僕はこうして普通に君と話せているよ?」
岡森はいたずらっぽく笑った。それは、探偵の言葉を認めた上で、意地悪を言っているような感じがした。
「ええ、ですから片耳――それも左耳ですね。そちらの聴力だけ極端に低いか、失われているのでしょう。
岡森さんは窓のほうを向いている時――つまり、左耳がこちらに向いている時に反応が遅れることが多かったので」
「ちょっと待ってくれ、カモちゃん」
「何ですか?」
にこやかな声で返す探偵。
「そのしゃべり方はキャラ作りとしては面白いけど……『岡森さん』は勘弁してくれ。笑いを堪えられそうにない」
岡森は可笑しそうに肩を震わせていた。くそ、こうして俺は変人キャラになっていくのだろうか……。だが、探偵が言葉を続けたとたん、岡森は真顔に戻った。
「じゃあ、桜一さん」
「それは止めてくれ」
その瞳の鋭さに、俺はたじろいだ。そういえば、名前呼びを嫌っていると言っていたが、そこまでなのか。だが、探偵は平然と「ではそうします」と言葉を続けた。
「岡森さんは――」
「……」
結局それでいくのかよ。
「耳が聞こえない。それも片耳。
岡森さんが片耳中途失聴者であると考えると、噂のいくつかにも説明が付きます。『話しかけても気が付かない』なんてまさにその一つです。あれは無視したんじゃなくて、左側から話しかけられると、気付けない時があるんじゃないですか?」
岡森は、肩をすくめてうなずいた。気付かなかった……探偵よりもずっと長い時間岡森を見ていたはずなのに、まったく気付けなかった。
しかし、だ。それは秋葉先生が黙った理由にはなっていない。岡森は何を言ったんだ?
『勘違いをしているようだから言っておきますけどね、カモさん』
探偵が頭の中で俺に語りかけてきた。
『先生が黙ったのは、岡森さんの言葉が原因ではありません。先生が見た光景が問題だったのです』
(どういうことだ?)
『そうですね、まず第一に考えられるのは――おっと、カモさんと話していても仕方ありませんね』
悪かったな。探偵は再び語り始める。
「岡森さんは左耳が聞こえない。ここからまず考えられるのは、耳が不自由な人なら付けていてもおかしくないもの」
岡森は楽しげに話を聞いている。その姿からは余裕が感じられて、俺は信じられない思いに駆られた。言ってみれば自分の秘密を暴かれているのに、なぜこんなにも平然としていられるのか。
……いや、俺が言っていいことじゃないな。誰がその秘密を暴こうとしたんだ。
ふと、残り時間が気になった。今回は休み時間の終わりかけに呼び出したから、チャイムまでに間に合うかどうか。
「補聴器です。秋葉先生は、岡森さんの耳に付けられた補聴器を見て真相を理解した。そして言葉を無くしたのです」
探偵が言った言葉に、俺はハッとなった。補聴器。知識としては知っていても、そして岡森が難聴だと知った今でも、探偵に指摘されるまで全く思い浮かばなかった。岡森は黙って何も言わない。続きを促すように笑っているだけだ。
「長い髪の説明も付くかもしれません。補聴器を付けている方の中には、そのことを隠したがる人もいますから。
『自分が欠陥品であることをさらけ出しているみたいだ』――知り合いの難聴者はそう言っていました。もっとも、全員がそう感じているだなんて思いませんけどね。
岡森さんは学校側に、補聴器を付ける了解を取っているはずです。だから、入学式の時もその髪型のままでいられた。同時に、それをできるだけ隠して欲しいとも言ったんじゃないですか?」
探偵がそこで言葉を切ると、岡森は「その通りだよ」と答えた。なんだかつまらなさそうな様子だった。
「今年赴任したばかりの秋葉先生がそのことを知らなかったのか、それとも失念していたのかは分かりませんが、どちらにせよ残念なことです」
俺は、自分の口から語られる受け入れがたい事実を、嘘のような気持ちで聞いていた。
(おい、難聴者の知り合いってなんだ。お前は記憶が無いんじゃなかったのか。それに、ろうや難聴の話なんて、俺も知らないことばかりだ)
探偵は、俺の記憶を参照して謎を解いているんじゃないのか。
『カモさん、ろうと中途失聴では、置かれた状態も、コミュニティーも、全く異なりますよ。少しは勉強してください。
それと、自分に関する記憶はないのですが、どうやら「知識」として蓄えられたことは覚えているみたいですね。ですから「知り合い」にしたって、居たという事実は覚えているのですが、顔も名前も分かりません』
その時、チャイムが鳴った。まだ5分も経っていないが、強制的に入れ替わりが起こる。
『ああ、間が悪いですね……』
探偵はそう言ったが、あらかた説明は終わっていた。今回も間に合ったようだ。
耳鳴りが響いてくる中、探偵は岡森をじっと見つめて黙っていた。奇妙な沈黙の時間があった。
すると、探偵を通して見ていた岡森の顔が、急に真剣なものになった。まさか、探偵との入れ替わりに気付かれたのか? 俺が不安な気持ちになったのは、相手が岡森桜一だからと言うこともあっただろう。
それは、まさに噂で聞いたような、見透かされるような目だった。焦点が合っていなくて、自分の心の奥を覗かれているような……落ち着かない気持ちにさせられた。
だがそれも10秒ほどのことだった。俺が身体の支配権を取り戻した時、岡森は心底感激したように言った。
「カモちゃん、君は……凄いよ、本当。本物の名探偵だ。どうしてこんなことに気付けたんだい?」
涙を潤ませすらした岡森は、よほど辛い思いをしてきたのだろうか。罪悪感を感じながらも、俺はほっとした。入れ替わりに気付いた様子は無かったからだ。こんな現象、どう説明しろって言うんだ。別人格が探偵だなんて、頭のおかしい奴と思われるのがオチだ。
岡森の問いに、俺は言葉を濁した。早く次の教室に行かなければならない。
「今日は遅刻だな」
「ああ……そうだね」
名残惜しそうに岡森が言った。それから俺たちは駆け出す。遅れると怖いのだ、次の先生は。
これでまた目を付けられる――ため息をつきながらも、俺は考えていた。自分がこれから何をするべきかを。
せめて岡森に、何をしてやれるかを。
俺は4月に探偵が推理したことを述べた。教室中が、それをしんと聞いていた。
「じゃあ、あの先輩の言うてたことは……」
「カンニングなんて嘘っぱちだ。補聴器をイヤホンと勘違いしただけだろう」
地縫先輩は、昨日岡森と会った際、何かの拍子に補聴器を見てしまったのだろう。……シャワーを浴びる時は外すだろうし。
もしも、先輩が聴覚障害のことを知ったうえであんな嫌がらせをしたのなら、それはある意味大したものだが、彼女はそんな悪人にも見えなかった。教室から出て行った時のあっけない様子は、まるで小物だ。
先輩が嫌がらせを思い立った理由は当人たちに聞かなければ分からないだろうが、そこまで干渉する必要はないだろう。ただ、彼女は岡森に心までは許してもらえていなかったのは確かだ。
チャイムが鳴った。時間割が違うから、試験期間中は鳴らなくなっていたチャイムだ。久しぶりに聞くその音で、隣の教室が騒がしくなり始めた。もう帰る時間だ。
「岡森」
嘉屋兄弟が同時に立ち上がった。岡森は、座ったままその様子を見る。
「俺は、お前が気にくわなかった。進んで悪役を引き受けるような、そんなところが嫌だった」
嘉屋兄が言った。俺は岡森の言葉を思い出す。クラスにはまとめ役が必要だ。だが、クラスを団結させるのは、強いリーダーだけではない。
強烈な悪役もまた、人々を一致団結させるものだ。
岡森は反抗的な態度を取ることで、孤立を保とうとしていた。さっきも、クラス中を敵に回すようなことを言って、近付く者を遠ざけようとしていた。そこまでして、あいつは秘密を守りたいのだろうか。俺は、そんな岡森を放っておけなかった。
嘉屋弟が、兄の後を引き継いだ。
「俺も兄貴と同じや。やけど、こんなん聞かされたら……なあ?」
そして、2人は同時に頭を下げた。「すまん!」という声がそろう。
意外だった。こいつらは筋を通したりもするのか。ただ単におちゃらけた奴らだと思っていた。
「これから、よろしく頼む!」
二人が出した手を、岡森は両手を出して握り返した。「こちらこそ、よろしく頼むよ」
教室が、ほっとしたような空気に包まれる。それでも、岡森を嫌いなやつは嫌いだろう。俺も、あの女癖の悪さには嫌悪感すら覚える時がある。
だが、それでいいのかもしれない。本当に仲のいいクラスなど、幻想だ。嫌いなやつがいて当たり前だ。
「せや、兄貴。俺、前から岡森に頼もう思てたことがあんねん」
「急になんや、二郎」
「どうやったらモテるか、教えてくれへんかなあ?」
「調子良すぎるやろ、お前!」
岡森はそのやり取りを楽しげに眺めながら、「え? 聞こえないな?」と右耳に手を添えて言った。
「お前、そっちは聞こえるほうやろ!」
双子の突っ込みがシンクロし、岡森は「バレたか」と両手を挙げた。さすがに誰も笑わない。だが、重い空気は無くなっていた。思えば、嘉屋兄弟は、岡森にいい顔はしなかったが、拒絶したりはしなかった。
岡森は、見たことの無いような穏やかな表情をしていた。あの薄笑いより、ずっと良い。こうやって岡森が、徐々に周りに馴染んでいけたら……なんてことを考えた。
「さあ、この後は集会がありますからね! 早く片付けをするように」
平城先生が良く通る声で言った。そうだ、忘れていた。試験期間中は禁止だった部活が、今日から解禁になる。それにあたり集会が開かれるのだった。俺も一応は文芸部員だから、参加しなくてはいけない。
解散して、教室がいっそう騒がしくなる中、用意を終えたらしい春山がやってきた。
「岡森。私は今まで全然気付けなかった」
「いいんだよ、蛍ちゃ――痛て」
春山の手刀が岡森を襲った。
「僕が障害者だって聞いた後でも容赦が無いね、春山女史は」
「ふん、話が別だろう。それに気を遣って、遠慮したほうが良いのか? 岡森」
春山が口の端を上げながら言うと、岡森もにやりと笑って、
「まっぴらごめんだね」
「そうか。じゃあ、これからもよろしく」
「よろしく」
握手を交わした。
「それから、賀茂……」
そっぽを向きながら春山が何事かを言ったが、小さくて聞き取れなかった。
「何だって?」
「かっこよかった、だってさ」
そう言った岡森に、春山は顔を赤くすると、叫ぶように言った。
「そこまで言っていない! ていうかどうして岡森の方が聞き取れてるんだよ!」
「片耳だけなら、けっこう良い方なんだ」
春山は憮然とした表情になると、俺を睨み付けた。な、なんだよ。
「賀茂も、早く用意しろよ。お前ら2人とも一応部活入ってただろ」
春山はそれだけ言うと、きびすを返して立ち去っていった。なんだかんだ言って、ちらっと見えた横顔は晴れやかだった。
「桜くん!」
今度は杉本か。試験も終わったし、存分に部活に打ち込めるからか、その声は弾んでいた。
「まさかそんな事情があったなんて、少しも気付かなかったわ。気を回せなかったことがあったら、ごめんなさい」
静かに頭を下げた杉本に対し、岡森は慌てたように言った。
「いや、僕の身勝手のせいだ。気にすることはないよ」
ほころぶように笑顔になる杉本。だがすぐに真顔に戻ると、岡森の目をじっとのぞき込むようにして言った。
「それと、桜くん。聞こえないのは、左側よね?」
「ああ、そうだよ」
あれ、さっき言ったはずだけどな。最後にもう一度、「左から声をかける時は気を付けてください」くらいは言っておくべきだったか。少し反省する。
「そっか。これからは気を付けるわね」
杉本は、そう言って歩き出そうとしたが、思い出したように振り返ると、
「カモちゃん……結局さっきの数学散々だったわ……」
消え入りそうな声で言った。そういえば、岡森にヤマを聞きに来ていたな。地縫先輩の事があって、すっかりそれどころじゃなくなっていたが。
授業中あれだけ寝ていたら当然だろうな……。まあ、岡森が教えてくれるのなら、補習くらいは大丈夫だろう。
「そうか。災難だったな」
「補習は確定ね……その時は、今度こそよろしくね、カモちゃん」
……は? 俺だと?
きびすを返した杉本に、俺は慌てて声をかけた。そこは岡森に頼むところじゃないのか。
「何言ってるの? さっきもカモちゃんに頼みに来たんじゃない」
「は?」
自分はさぞ間抜けな顔をしているんだろうなと思いながら、俺はさっきの事を思い出す。確かに杉本は、一言も岡森に頼んではいない。
春山が「変なものに引っかかって」と言い、岡森が「変なもの」を自分だと認めて話を進めていたのは、思えば不思議なことだった。俺はてっきり、「変なもの」は岡森の描いた絵のことだと思ったからだ。
だが、近付いてきた春山が絵に気付けただろうか? やはり「変なもの」は、春山特有の軽口で、岡森のことを指していたのだ。
引っかかる、と言うことは、それが本来の目的ではないと言うことだ。もしも春山が、杉本は岡森に勉強を教えにもらいに行ったと知っていたなら、「岡森に引っかかる」とは言わないだろう。
それに、杉本は第一声、何と言っていたか。「カモちゃん!」――そう呼んだのではなかったか。俺のことを。
「はは」
思わず笑いが漏れた。「ひどいわ、カモちゃん!」と杉本は口を曲げているが、俺は愉快な気持ちを抑え切れなかった。試験後の開放感や、一仕事終えたという実感がそうさせたのかもしれない。
「2人とも、集会サボっちゃダメよ。先に行くわね」
杉本はそう言って、今度こそ教室を出て行った。気付けば、ほとんど人は残っていない。俺も、早く用意をしなければ。
「探偵」なんて呼ばれるのは性に合わないが――俺は岡森の横顔を見ながら、考える。こいつのこんな顔が見られるのなら、「誰かの特別」に近付けているのなら。
もう少し続けてみてもいいかと、俺は思った。