ゴッホの横顔 2
教室がしんと静まりかえる。遅れて、ひそひそ声が広がっていった。今や岡森は教室中の視線を集めていた。だが本人はものともせずに、学ランのポケットに両手を突っ込んで不適に微笑んでいる。
カンニングだと――? 馬鹿げている。岡森にそんなことをする必要が無いのは明らかだ。こいつは、少なくとも学力の面では優秀だからな。
いったい何を根拠に。
「カンニングて、いきなりやな」
嘉屋兄が言った。
「そう、カンニング――岡森君は、どうしてそんな髪をしているの」
地縫先輩がまた脈絡のないことを聞いた。本当に、この人は何がしたいんだ? 疑問に思いながらも俺は嫌な予感を抑えきれなかった。
「ねえ、ちょっと見せてくれない? 今、イヤホンしてるでしょ」
「ちょっと麻里ちゃん――」
岡森の言葉は、またしても遮られた。イヤホン。その言葉に、俺はドキリとした。
「私、知ってるの。岡森君がどうして長い髪をしてるのか。その髪で、何を隠しているのか。
……この前のカンニング事件。あれ、ワイヤレスのイヤホンを使ってやったみたいなの。で、共犯者がまだ他にいるんだって。
ねえ、岡森君――ちょっと耳を見せてくれない?」
先輩は呪文を唱えるかのように言った。
馬鹿な。整合性も何もあったものじゃない。たかが定期テストのカンニングのために、そこまでするか?
「いきなり人をカンニング犯呼ばわりとは、どういう了見ですか」
春山が額に青筋を浮かべて言った。かなり頭にきているらしい。地縫先輩は春山の迫力に気圧されながらも、笑みを浮かべる余裕を見せた。
「岡森君、私を散々弄んで、捨てて、次はこの女としたの?」
「は、はあ? そんな訳あるか……!」
春山が顔を赤らめた。……この手の話題では、春山は本当に弱い。先輩がペースを取り戻したようにたたみかける。
「昨日、岡森君が変なイヤホンを持っているのを見たの。ワイヤレスで、形がちょっとおかしいイヤホン。あれを使って、さっきカンニングをしてたんじゃないの?
ねえ、早く――髪をまくって」
俺が恐ろしいと思ったのは、先輩の様子ではない。クラス内で、誰も岡森を庇わなかったこと、それどころか、早く耳を見せろという声が上がったことだ。岡森が嫌われているとはいえ、そこまでなのか。
曰く、顔に物を言わせて女を食いまくっている。
曰く、頭が良いことを鼻にかけている。
曰く、話しかけても無視をする。
曰く、目を見て話さない。
曰く、話していると、なんだか見透かされている気分になる――。
岡森に対する評判は、そんなものばかりだ。俺はさっき岡森が言ったことを思い出す。
『集団心理は怖い』
その点、この人の語り口調は恐ろしいくらいに効果的だった。偶然だろうが、タイミングも悪い。誰もが苦労した、世界史の試験の直後。出来の悪さにうちひしがれている時、ズルをしているやつがいると教えられたら――。
俺は、地縫先輩の意図に気付き始めていた。
その考えを裏付けるように、先輩はふっと鼻で笑うと、「じゃあね、岡森君」と言ってきびすを返そうとした。もう用は済んだ、とでも言うように。
この人は、岡森に嫌がらせをしにきただけだった。あまり長居しようとしないのは、次に来る試験監督の先生と鉢合わせないためだろう。
理由は分からないが、昨日何かがあったのだろう。まあ、そんなことは考えたくもない。
とにかく、彼女の復讐は完全に成功したと言えた。クラス中が、じっと岡森の挙動に注目していた。
しかし、先輩にとっても予想外のことが起きた。岡森が急に立ち上がり、ゆっくりポケットから右手を出すと、髪に持っていったのだ。
「岡森!」
止めようと声をかけたが、岡森はそのまま髪をかき上げた。形のいい耳が露わになる。
果たしてそこには――。
「ほ、ほら、イヤホンよ!」
鬼の首を取ったように、地縫先輩が叫んだ。だが、その声にさっき程の勢いはなかった。岡森が素直に応じたことが意外だったのだろう。
岡森の耳には、黒い物体がはまっていた。普通のイヤホンとは違いコードはついていないが、耳介に引っかけられるように鎌状の物体が付いていた。地縫が言っていた「変な形」とは、このことだろう。
教室がざわめき出す。「ほんとだ」「まじかよ」「やっぱり」「よく見えない」「あいつならやりかねない」「これって――」「退学?」
「おい、岡森」
双子の兄、嘉屋一郎だった。
「どういうことや。説明せえ」
それに続いて、あちこちから、そうだそうだと言う声が上がる。嘉屋兄が言葉を続ける。
「それに、その人の言うカンニング云々は置いといても、今の時間イヤホン付けてたのは、あかんのとちゃうか? 疑われてもしゃあないで」
言うことはもっともだった。どうして岡森は、わざわざ自白するようなことをしたのか。
岡森は右耳からそれを外すと、机の上に置いた。そして、うつむきがちに薄笑いを浮かべた。
「君たちは、ほんとうに馬鹿だ」
クラス中が色めきだつ。……くそ、お前はどうしてそんなことを言うんだ! 岡森は地縫先輩の方を向いた。
「だけど一番の愚か者は君だよ、麻里ちゃん。顔だけは良かったから可愛がってやってるけど、その結果がこれかい?」
その言葉に、先輩は色を無くした。もう怒りの感情を通り越して、顔色が真っ青になっている。
だが、岡森を貶めるようなことをしても、地縫先輩はまだ岡森に惚れていたのかもしれない。哀れみを誘うような表情で、すがるように岡森の胸倉を両手でつかんだ。押されるまま、岡森は椅子に倒れ込む。
「そんな、桜一君――」
「その名前で呼ぶな」
近くにいた俺ですら聞き取りにくいほど低い声で、岡森が言った。その目は、俺が見たこともないような冷たい光を宿していた。
地縫先輩は、ひどく傷ついたような顔をすると、「最低っ!」と叫び、左手を挙げた。
まずい、と思ったときには、手は振り下ろされていた。深く腰掛けたままの岡森は、こんな状況でもいつもの薄笑いを浮かべ、髪に左手をやっていた。
しかし、彼女の平手が炸裂することはなかった。春山が途中で腕をつかんだのだ。
「いい加減にしろよ……」
完全に座った目で、ドスのきいた声を発する。腕を握った手にはもの凄い力が込められているのが傍目にも分かり、地縫先輩は「ひっ」と恐怖の声を漏らした。
よく止めてくれた、春山。そして、たぶんもう間に合った。
「遅いですよ。平城先生」
少し失礼な物言いだったが、俺はそう言わずにはいられなかった。弾かれたように、地縫先輩は背後――教室の入り口を見た。
「ごめんなさい、賀茂君。
それと、カンニングってどういうことかしら? 地縫さん」
問題用紙の束を持って、我らがクラス担任・平城 京先生がそこに立っていた。
「しまった」
地縫先輩が小さくつぶやいたのを、俺は聞き逃さなかった。やはり、先生に見つかりたくはなかったようだ。策に溺れたな。
青ざめる先輩に、さらに先生が追い打ちをかけた。
「2年3組出席番号27番、地縫麻里さん」
「は、はい……」
地縫の顔は、どうしてそこまで知っているのかという驚きに満ちていたが、俺は驚いたりなんてしなかった。平城先生ならこれくらい普通だ。「秋葉とは大違いだ」と岡森がつぶやいた。
「確か2年の文系選択者は次の時間、試験が無かったわね。だけど、1年はあと1教科残っているのよ。そろそろ出て行ってくれないかしら?」
口調は柔らかいのに、その声には有無を言わせぬ響きがあった。地縫先輩は弾かれたように教室を出て行った。あっけないほどの幕切れだった。
「さあ、最後の試験を始めましょうか。みんな席について」
先生が気を取り直すように言った。教室が落ち着きを取り戻していく。なんとか秘密は守られたか……と胸をなで下ろした、その時。
「先生」
嘉屋兄が声を上げた。その声からは、ごまかされてたまるか、という意思が感じられた。
「先生も聞こえとったでしょう。岡森にカンニングの疑いがあるんです。さっきの試験中、イヤホンをしとったんです」
「岡森君……」
先生は、困った顔をしていた。その顔は、事情を分かった上で、岡森を心配しているような感じがあった。
そう、先生は真相を知っている。
そして、俺も。
4月のあの日。「探偵」の推理によって、俺は岡森の事情を知った。だから、せめてこれくらいは、俺の役目だ。
俺は、また嘲るような笑みを浮かべて何かを言いかけた岡森の肩に手を置き、立ち上がった。
「先生。俺から話があります。岡森のことで。――いいか? 岡森。もういいだろう」
岡森は、少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑って「カモちゃんの好きにして良いよ」と言った。
「これも預けるよ」
俺は岡森から受け取ったそれを持って教卓まで歩いていき、置いた。
「それと、試験が終わった後ホームルームの時間を少しください」
「おい、どういうこっちゃ、カモちゃん――」
「説明させて欲しいんだ」
俺はみんなを見渡した。何人かは「探偵」として相談に乗ったやつらだ。都合が良いのは分かっているが、今はそこにすがるしかなかった。頼む、味方してくれ。
「黙っていて悪かったが、俺は真相を知っている。試験が終わったら、全て説明する。だからそれまでは、虫のいい話だとは思うが、岡森を信じてやってほしい」
そう言って、深々と頭を下げた。教室がしんと静まりかえる。嘉屋弟の「『探偵さん』は全てお見通し、ってか?」という声に、こぶしを強く握りしめる。
「いいよ。カモちゃんが言うなら」
頭を上げる。杉本だった。続けて春山や、他のクラスメートも――おおむね、納得してくれたようだった。
俺はもう一度頭を下げると、急いで席に戻った。問題用紙が配られ、少しの間ごたついた教室の空気は、また試験特有の張り詰めたものに戻っていった。入学して初めての定期試験も、次の数学で終わりだ。
だが俺にとっては、それで終わりでは無い。今日の俺は少しおかしい。ただ目立たず、高校生活を送れたら良かったはずなのに。
岡森ほどじゃないが、幸い数学には自信がある。考えをまとめる余裕くらいはありそうだ。俺は4月に想いを馳せる。「探偵」の推理によって、岡森の事情を知った日。
あの時見た岡森の横顔は、今だ強く印象に刻まれていた。
その日は移動教室があった。いつものように他クラスの女の所へ行って姿の見えない岡森は放っておいて、俺は一人で教室を出た。
しばらく歩いて、トイレの前に差し掛かった時、腹が嫌な音を立てた。俺はピタリと足を止める。雉も鳴かずば、撃たれずに済んだものを……。荷物を持って入るのは抵抗があるが、仕方ない。トイレのドアに手をかける。
その時、後ろから声をかけられた。
「カモちゃん! 移動教室なら言ってくれよ」
岡森だった。
「チャイムが鳴るなり飛び出したのは、どこの女好きだっけ?」
「ああ、それなんだけど、すこぶる評価が良かったんだよ」
「何の?」
聞いてから、しまったと思った。こいつの話をまともに聞くとバカを見る。
「何がってほら……耳がでっかくなっちゃった!」
作り物の巨大な右耳を、俺は冷ややかな目で見つめた。
「おかしいなあ。さっきの子は喜んでくれたんだけど」
「くだらないこと言ってないで、荷物を取りに戻ったらどうだ?」
マジックの小道具は持っているくせに、岡森は次の時間の用意は何も持っていない。
「へーき、へーき。それより、カモちゃんの荷物持っておくよ。入るんだろ」
「おお、悪いな」
なぜか最近、妙に岡森が話しかけてくる。おそらくあの一件――杉本が俺を「カモちゃん」呼びした謎を解き明かした一件――で俺に興味を持ったのだと思うが、勘弁してほしい。
だが、岡森は周りの評判に反して付き合いやすいやつだった。けっこう気も利いて、良いやつなんだけどな……言動に問題がありすぎる。
「先に行くよ」
「ああ。すまん」
俺は手刀を切ると、トイレに入った。
5分ほどして、トイレから出た。岡森はとっくに教室に着いているだろう。急がねば。
と思っていたら、ちょっと進んだところに岡森の後ろ姿が見えた。特徴的な髪型と低い背ですぐに分かる。そして岡森と向かい合うように、大柄な先生が立っていた。二人の間には、遠目で見ても分かるくらい険悪なムードが漂っている。
あいつ、また何か言ったか。この前も、くだらないことで先生に楯突いて騒ぎになっていた。よく聞いてみると岡森の言うことはもっともなのだが、いかんせんやり方が悪い。
相手の先生は、確か今年赴任してきたばかりの人だ。背が高く、ジャージに包まれた体格はガッシリしている。白髪の交じった髪は短く切り揃えられていて、目つきの鋭さはここまで伝わってきていた。
いかにも体育の教師っぽい。それも、生徒指導を任せられそうな先生だ。時代が数十年前なら、絶対に竹刀を持って目を光らせていたはずだ。
何を言っているかまでは聞こえないが、言い合いをしているようだ。それは、岡森越しに見える先生の顔からも明らかだった。鬼のような形相をしている。何を言ったんだ、岡森。
岡森の表情は見えないが、俺の荷物を両手に持って、だらしなく立っている。その特徴的な髪のこともあって、とてもじゃないが主席入学の優等生には見えない。
おそらく、通りがかりに長髪のことで注意を受けたのではないだろうか。それに対して岡森はいつもの調子で何か言い返したのだろう。
先生の「なんだその態度は」というような言葉がここまで聞こえてきた。あんなものを間近で聞かされたらさぞ恐ろしいだろうが、岡森におびえる様子は一切ない。それがさらに先生を怒らせたようだった。
先生は手を挙げて、岡森の髪をわしづかみにした。つかまれる瞬間、岡森はその手から逃れるように顔を背けたので、手は側頭部をつかむような感じになった。同時に、岡森が俺の荷物を取り落とす。ノートや筆箱が、岡森の右方に散らばった。
その瞬間、おかしなことが起こった。2人が、そのままの姿勢で固まったのだ。先生は岡森の髪をつかんだまま、岡森は横を向いたまま。
岡森が口を動かすのが見えた。
直後、先生の表情が変わった。さっきまで彼の表情を占めていたのは怒りだったが、今は違う。その顔いっぱいに表れていたのは、困惑と恐怖だった。
岡森の方は、笑っていた。髪をつかまれながら、その横顔は笑っていた。それは、思わずぞっとしてしまうような乾いた笑みだった。
岡森は、ゆっくりと手を挙げて、先生の手を払った。力が抜けていたのか、手は簡単に外れた。
先生はもごもごと何事かを呟くと、そのまま立ち去っていった。
岡森は、よくやるように左手で髪を撫でつけながら、しゃがんで荷物を拾い始めた。俺は我に返って、岡森の所へ駆け寄った。岡森が鋭く俺を振り返る。
「カモちゃん。見たのかい?」
その表情からはいつものへらへらした感じが消えていて、俺は一瞬たじろいだ。唇を舐め、ゆっくり口を開く。
「ああ、見たけど。
それより岡森、さっき何を言ったんだ?」
岡森は、ポカンとしたような顔をした。
「どうして、あの先生――」
「秋葉だよ」
そうそう、確かそんな名前だった。
「その秋葉先生は、どうして引き下がったんだ? 脅しでもしたのか」
「たいしたことは言っていないさ。それにしても、秋葉って柄じゃないよな、あの先生。電化製品には滅法弱くて、この間クーラーを直そうとして竹刀でぶったたいたらしいよ。
秋葉山から火事、とは言うけれど――」
「ごまかすな」
俺は岡森を睨んだ。都合の悪い時の、こいつの常套手段だ。
案の定、岡森は観念したように肩をすくめると、からかうように言ってきた。
「カモちゃんは『探偵』だろう? 推理してみたらどうだい」
またこれだ! 俺は苦虫を噛み潰したような気分になった。確かあの時は、最終的に岡森にも聞かれたんだったな。杉本が初対面の俺をいきなり「カモちゃん」と呼んだ時のことだ。その謎がきっかけで、俺は「休み時間探偵」などと言われるようになったのだ。
岡森はいつもと同じように薄笑いを浮かべているが、その目からは意地でも譲らないという決意が見て取れた。
「さあ、探偵さん。分かるかい?」
この時、俺は何も言うべきじゃなかったのかもしれない。だが、実はいい奴かもしれない岡森に対して、どこか壁を作っているようなこのクラスメートに対して、ほんの一瞬、その壁を壊してやりたいと思った。
いや、それは言い訳だ。俺はただ、誰かの特別になりたかったのだ。心のどこかでは、バラ色の高校生活なんてものを望んでいたのかもしれない。
『さて――』
俺はその言葉を口にした。
瞬間、世界が反転する。キーンという耳鳴りと急なめまいが俺と外界とを遮断し、そこへ「探偵」が入り込んでくる。
『やあ、久しぶりですね。カモさん』
またテレパシーのように、いつもの「探偵」の声が聞こえた。
俺は実は、探偵でも何でもない。少し目がいいだけの、ただの高校一年生だ。
だが、俺の内側には、もう一つの人格がある。自らを「探偵」と名乗ったそいつは、ある条件の下で意識の表層に出てくる。その条件とは、俺にはどうしようもない謎を前にして、「さて」とつぶやくこと。
こいつが何者なのか、こいつ自身も分かっていない。記憶喪失の探偵――それが、「休み時間探偵」の正体だった。4月の件も、校外学習の事件も、杉本のダイイングメッセージも春山の怪談話も、すべてこの探偵が、俺の記憶を参照して解いたのだ。
そして今回も、すでに謎は解けているようだった。
「さて――簡単な話です」
数学の試験が終わり、その時が来た。答案用紙の回収が終わるのを待って、俺は立ち上がった。
4月、俺は岡森に関する秘密を知ってしまった。だから、俺はこいつの味方でありたいと思った。
今から説明することは、もう俺にとってはどうしようもない謎ではなくなっている。だからあの言葉を口にしても、探偵が出てくることはない。だが俺は、いつも探偵がやるように笑みを浮かべると、言った。これは、せめて俺がやらなければならないことだと、自分に言い聞かせて。
「さて――簡単な話なんだ」
俺はみんなを見回し、平城先生の顔を見て、最後に岡森の目を覗いた。薄笑いを浮かべた端正な横顔は、まるで絵画か何かのように、現実味に欠けていた。
ちなみに『キジも鳴かずば』は日本昔話の中で一番好き。それをこのようなネタに使うのはどうかと思いましたが……。