ゴッホの横顔 1
登場人物紹介 ~名前の由来編~
賀茂 京介
1年10組4番。名前の由来は親が京都に憧れて。
岡森 桜一
同じく3番。代々長男には「桜」の字を入れる。
杉本 紗妃
同じく30番。おしとやかな少女に育ってほしいという願いから。
春山 蛍
同じく37番。親が大好きな歌手の曲名から。
平城 京
1年10組担任。
地縫 麻里
休み時間、急に乱入してきた女子生徒。
嘉屋兄弟
1年10組の双子。兄が一郎で弟が二郎。
秋葉
3年担当の体育教師。
それと作中、さらっと舞台が判明するので、そこにも注目だ。別に今まで隠していたわけじゃないのだが。
「最低っ!」
その通りだと思った。普段の言動、そして彼女に対する仕打ちを考えると、岡森に言い訳の余地などない。
その声の主は、休み時間、急に我らが1年10組に入ってきた女子生徒。彼女は俺の前の席に座る岡森桜一を、その胸倉をがっしり掴んだまま、睨み付けている。
対する岡森は薄笑いを浮かべて、男にしては長すぎる髪をいじっていた。いつもやるように、左手で髪をなでつけながら。
余裕綽々な態度がその女子の怒りに油を注いだのは、それこそ火を見るより明らかだった。彼女は空いていた左手を振り上げた。
さすがに止めなければと思った時には、風を切る音が聞こえるような、それはそれは見事な平手が岡森を襲っていた。
「それまで」
その声と同時に、張り詰めていた糸が緩むように、教室の空気が弛緩した。しかしその空気は決して軽やかなものなどではなく、湿った糸が絡みつくのに似て、じっとりしていた。
試験終了だ。
まだ答えを書き続けようとする生徒が多かったのか、試験監督の先生がもう一度声を張り上げた。まあ、俺もそのうちの一人だったが。ああ、何だっけ、この絵の題名は。作者は覚えているのだが。
くそ、ゴッホと言えば『ひまわり』だろう! 誰だよこの女。文化史はつらい。印象派だか写実主義だか知らんが、どうして興味も無い絵の名前なんかを大量に覚えにゃならんのだ……。
俺はため息を付いて、シャーペンを転がした。
先生の指示に従い、列の一番後ろの生徒が答案用紙を回収し始めた。試験監督の先生は、試験ごとに交代でやってくる。今の世界史の場合は、俺も知らない人だった。
「なんや兄貴、全然書けてへんやんか」
「うっさいわ二郎、お前のもすっかすかやがな」
後方から聞こえてくるやり取りに、教室のあちこちでほっとしたような笑いが漏れた。10組のエンターテイナー、双子の嘉屋一郎・二郎兄弟。すっかりクラスの中心だ。
空欄の目立つ答案を差し出そうとしたその時、おもむろに前の席の男が体ごと右を向くと、大儀そうに足を組んだ。突然の動きに、回収を行っていた嘉屋弟はぎょっとしたように足を止めた。
男は大きく伸びをして、
「はあー。終わったー、終わった! なあカモちゃん――」
と言いながら、俺に顔を向けた。首筋にかかる長髪が揺れる。
「静かにしろ」
先生の声が飛んでくるが、岡森は話すのに夢中で気付かない。
「岡森」
そう言って前を見るように目で促すと、岡森は首を前に向けた。
「静かにしろ、岡森。0点にされたいか」
先生のその言葉に、俺は暗い気持ちになった。
すると案の定というか、岡森が薄く笑いながら何かを言いかけたので、慌てて肩をつかんだ。岡森は首をすくめると、渋々といった感じで口を閉じ、前に向き直った。岡森があまりよく思われていないのは、今に始まった話ではない。
当の岡森は教室内から顔を背けるように窓の方を向き、頬杖をついていた。空いた左手で髪をなでつけながら、外の風景を眺めている。
先生が教室から出て行くのを待ってから、俺は岡森に話しかけた。そう言えばさっきの試験中も、岡森は早くに解答を終えると、窓を開けて外に目をやっていた。
「試験どうだった? えらく余裕そうだったが」
反応がない。俺は苦笑しながら岡森の肩を叩き、もう一度呼びかけた。今度はこちらを振り返る。
「暇すぎて開悟するところだったよ。カモちゃんは違ったのかい?」
“カモちゃん”などという、俺には到底似つかわしくないあだ名も、最近は気にならなくなっていた。人生、肝心なのは諦めと妥協だ。
「残念だけど、俺にはニルヴァーナは遠すぎる」
「はは、9億マイルはありそうだ」
……相変わらず小憎たらしい物言いをするやつめ。5月の席替えで離れてからは話す機会が減っていたが、試験期間に入り出席番号順に戻った途端、ずっとこの調子だ。
岡森桜一。ちょっとした時に一緒にいることが多い。出席番号の3番が岡森で、4番が俺。席が近かったのがきっかけで、なんてよくある話だ。
おまけに俺も岡森も、このクラスには中学からの知り合いは居なかったしな。遠方から通う者の試練とも言える。
見知った顔もない心細い状況で、俺はつい注意を怠った。入学式の日に「探偵」のことで色々あって以来、思考力も低下していた。
つまり、俺は付き合う相手を間違えてしまった。地味に、目立たず、穏やかな高校生活を送りたかった俺の願いとは正反対に、岡森は学年でも有数の変人だったのだ。おそらく岡森を知らないやつは、このN県立栄藍高校の一年生にはいまい。一緒にいれば嫌でも目立つ。それも悪目立ちだ。
岡森を説明するのに一番分かりやすいのは、やはりその外見だろう。
まず目につくのが、高校生男子にしては長すぎる髪。校則では男子の頭髪は耳にかからない程度、となっているが、岡森の場合、髪は完全に耳を覆い隠し首筋にまで達している。土地柄、マジメな生徒ばかりが集まってくるこの高校の中で、岡森の見た目は異質だった。
だがそれが咎められることはなかった。入学してすぐの頭髪検査も難なくパスしたし、普段から担任の平城先生が注意することも無い。
不思議がる者は多かっただろう。とんでもない不良だとか、親の離婚のせいでグレたのだとか、はたまた親が県の有力者だなんて噂も囁かれた。
確かに、他ならぬ岡森自身から、家が金持ちだと聞いたことがある。「自分の家名を山に付けるくらい」だそうだ。岡森山……聞いたことがない。というか、真面目に信じるのもバカらしいか。
岡森はルックスも特徴的だ。絵に描いたように整っている。中性的で、背も160センチメートルくらいと低めだから女と見間違う者は多い。
「岡森、少しは気をつけろよ。あんな事があったばかりだろう」
あんなこと、とは数日前に発覚したカンニング事件のことだ。一年生の誰かがやったらしい。この真面目な高校でもそんなことがあるのかと驚いたものだ。
カンニングをすればその教科は0点となり、最悪の場合留年、もしくは退学だ。が、気持ちは分からんでもない。一応県下では有数の進学校だから、中学で成績が良かった奴ばかり集まってきている。見栄を張りたいという気持ちからズルをしてしまうというのは、ありそうな話だ。
「心配してくれるのはありがたいけど、僕がカンニングなんてするわけないのは、カモちゃんも知っているだろう?」
全くありがたくなさそうに岡森が言った。まあ、それもそうだ。
こいつは、学年トップの成績の持ち主なのだ。入学式の時の新入生代表の挨拶だって岡森が読んだ。あれは主席入学者がやることになっている。だから今の栄藍高校の1年生は、ほぼ全員が岡森を知っているだろう。おまけにこの見た目だ。新入生代表が校則破りの長髪で、よく問題にならなかったものだ。
イケメンで金持ちで、そのうえ勉強もできる……まるで小説の登場人物だ。
「だけど、カモちゃんが言うなら気を付けるよ。集団心理というのは馬鹿にできないからね」
と、岡森が意味深なことを言った時、1人の女子が駆け寄ってきた。
「カモちゃん! 当たったわね、桜くんの予想!」
そう声を弾ませたのは、杉本紗妃。「カモちゃん」というあだ名を広めるに飽き足らず、俺に「休み時間探偵」などという恥ずかしい事この上ない二つ名を授けた張本人である。
今日も、切れ長の整った目に楽しさをいっぱい詰め込んでいるようで、何よりだ。少し苦手な、まぶしすぎるその目から逃れるように、黒板に視線を移した。
次の科目は数学。ああ、だから杉本はやってきたのか。杉本は数学が壊滅的らしいからな。世界史に続き、数学も岡森にヤマを張ってもらおうというのだろう。
「これで赤点は回避できたわ! ありがとう、桜くん!」
桜くんとは、杉本が岡森に付けたあだ名だ。下の名前である「桜一」から桜くん。
岡森はなぜか下の名前で呼ばれることを嫌がった。岡森の祖母が付けたらしいのだが、
『思い込みの激しい人だったよ。迷信なんか信じて、こんな名前を付けるほど』
そう言っていた。意味を聞いても、笑ってごまかすばかりだった。その割には「桜」という字は嫌いじゃないらしく、このあだ名もけっこう気に入っているみたいだった。
「紗妃ちゃんが喜んでくれて、僕も嬉しいよ」
完璧な笑顔で返す岡森。よくもまあ、そんな歯の浮くような台詞を言えるものだ。杉本も苦笑いを浮かべている。
「えっと、それは別にいいんだけど……って、あれ? 何これ」
杉本が岡森の机の上を指さした。ちらっと見ると、問題用紙の裏に何か書かれている。いや、描かれている?
「暇だから絵を描いてたんだ」
なんと。人があくせくして問題を解いていた時に落書きしていたってのか、こいつは!
「そっか-、桜くん、美術部だもんね。見せて見せて」
杉本は無邪気に言っているが、目的を忘れてやしないか。数学のヤマを教えてもらうんだろう。まあ、俺の予想に過ぎないが。
「紗妃、また変なものに引っかかっているんじゃないか?」
その声とともに、巨大な影が出現した。いや、失礼な言い方だったな。クラスメートの女子、春山蛍だ。
1年生ながら剣道部のエース、態度もいたって真面目。教師からの覚えもめでたい。ちなみに、岡森や俺だって教師からの「覚え」はいい。目を付けられていると言う意味でだが。
すらっとした高身長で、岡森はもちろん俺よりも背が高い。腕力も強く、学年有数の武力の持ち主であるのは間違いない。繰り返し言うが、女子だ。
「数学のこと聞くんじゃなかったのか」
春山が呆れたように言った。やはりそうだったか。
「僕のことを『変なもの』扱いとは。傷ついたよ、蛍ちゃん――」
そう言った岡森の頭を春山の手刀が捕らえた。
「ひどいよ、殴るなんて」
「次にその呼び方をしたら殴るって言ったよなあ?」
春山は頬をひくつかせながら再び手刀を構える。岡森は「降参」というように両手を挙げて、左手で髪をなでつけた。
「そうだったね、僕も名前で呼ばれるのは嫌いだ。やり直すよ。
……やあ、ホータルー。どうしたんだい?」
「岡森も観てたのか。ちょっと似てるな」
「……さいですか」
「それは似てない」
一番有名なのはやらないのか、とかなんとか、よく分からない話を始めたので俺は離脱することにした。杉本を加えたこの3人は、俺が知らない共通の話題を持っているらしかった。気になります。
そうだ、杉本。こういう話題には喜んで食いつくのに、やけに静かだ。横目で見ると、一点を凝視して固まっていた。岡森が試験中に書いたという絵を見ているらしい。
俺もひょいと覗きこんでみた。ほう、さすだな。
美術部に所属しているのは知っていたし、「中学時代は『八木中のゴッホ』なんて呼ばれてたんだ」とほざいていたのも覚えている。「ゴッホ」と豪語していただけはあって、かなり上手い。
問題用紙の裏に描かれていたのは、女だった。吊り目がちだが、気の強そうな印象は受けない。幸せそうに笑っているからだろうか。安心しきっているような感じを受ける。
そして、若い。俺たちと同じくらいの年代かもしれない。それなのに、やけに色っぽい。
ん? ゴッホ? それにこの絵……。
「ああ!」
俺は思わず声を上げた。「なんだよ、いきなり」と春山が眉をひそめるのには構わず俺は机の上の問題用紙をめくった。ああ、これだ……さっきギリギリまで考えて分からなかった文化史の問題。ゴッホの「アルルの女」――岡森の絵は、それに酷似していた。構図やタッチ、絵の感じが全くそのまんまだ。ただ女だけが別人。
あ、ていうか、「アルルの女」だ! くそう、思い出すのが数分遅かった!
「凄いな、そっくりだ。シャーペンで良く描けたな」
春山が感心したように声を上げる。その言葉に岡森は胸をはると、
「僕は『八木中のゴッホ』とまで言われた男だからね」
あれは適当に言っただけじゃなかったのか。絵のことはよく分からないが、俺は岡森の才能に舌を巻いた。
「八木中ってなんだ? 岡森の出身中学か?」
春山の疑問には、杉本が得意気に答えた。いかにも情報通らしい。
「そう、県の南の方にあってね、あの有名な大和三山を一望できるの。八木中からこの学校に来る生徒はほとんどいないらしいけど」
大和三山とは、N県の盆地にぽつんとそびえる、畝傍山、香久山、耳成山の3つの山の総称だ。国の景勝にも指定されていると中学で習った。
「ふーん。この絵にモデルはいるのか?」
春山は杉本の蘊蓄をさらりと聞き流すと、岡森に聞いた。うーん、杉本を難なくいなす手腕はさすがだ。まともに取り合うと、とんでもないエネルギー量に押しつぶされてしまうからな。その結果の最たるものが、「休み時間探偵」というあだ名だったりするのだろう。
春山の問いに対し岡森は、爽やかな笑顔で答えた。
「うん、昨日抱いた娘」
直後、春山がゲホゲホと咳込んだ。顔が真っ赤だ。杉本は口元に手を当てている。よくもまあ、女子の前で堂々と……。
岡森はよくモテる。よく女子と話し、休み時間はたいてい他のクラスの女子の所へ通っている。下校するのも女子と一緒だ。俺を誘うのはフラれた時で、そんな時はたいてい問題を起こす。俺もなぜか巻き込まれる。そして次の日からは別の女子を連れている。
ああ、神よ。ここまでだと、さすがに不平等じゃないだろうか。それか、岡森桜一は前世でよっぽど徳を積んだのか?
「岡森! お前というやつは――」
こういう話題に弱い春山は赤い顔のまま言いかけたが、引き戸が開けられた音がしたためか、口を閉じて振り返った。岡森もそれを見ると、入り口の方に顔を向けた。
次の試験監督の先生が来るにはまだ少し早い……と思ったら、生徒が立っていた。小柄な女子だ。うちのクラスじゃないが、どこかで見覚えがあるような。
その子は俺たちの方をじっと見つめながらずんずん歩いてくると、岡森の横で立ち止まった。その際押しのけられる形になった春山はムッとしたようだった。
スリッパの色が見えて驚く。一学年上だ。先輩だったのか。そして顔を見て、俺はハッとした。
「あ」
杉本が何かに気付いたように声を上げた。春山も、たぶん気付いたはずだ。さっき、この女子を見たことがあると思ったのは、気のせいではなかった。
岡森が描いた絵の女とそっくりだったのだ。
釣り目がちの女。問題用紙の裏に描かれた絵は、目の前に立つ女子生徒の特長を良くとらえていた。ただ、絵と違って本人からは気の強そうな印象がひしひしと伝わってくる。絵ではほどけていた髪が今は二つに結ばれているのも違うところだった。
「地縫先輩……」
杉本がつぶやいた。知ってるのかと、春山がこっそりと聞く。
「2年の人よ。地縫麻里先輩。だから見覚えがあったのね……」
さっき絵を凝視していたのは、そういう理由からか。それにしても、絵とはかなり違う印象を受ける。口は真一文字にぎゅっと結ばれ、カッと見開かれた目からは憎悪が滲み出ていた。
どうせ岡森のことだ。また無節操なことをしたのだろう。「修羅場」の三文字が頭の中でピカピカと点滅した。
岡森を睨み付けていた地縫先輩は、息を吸い込むと、大音量で叫んだ。
「岡森桜一! あなたの企みは分かっているんだから!」
高い声が教室に響き渡った。「なんや」「どうしたんや」と、後ろから嘉屋兄弟の声が聞こえてくる。教室のあちこちでも、何事かとざわめきが起きた。
「麻里ちゃん、僕が何を企んでいるって?」
岡森がとぼけたように言うと(先輩を「麻里ちゃん」呼ばわりとは……)、彼女はそれに被せて「とぼけるな!」と叫んだ。ツインテールが揺れる。この小柄な身体のどこにそんなエネルギーがあるのか、不思議だった。
「あなたは、重大な校則違反を犯したわね」
「この髪のことかい? いまさら――」
「だからっ! とぼけないで!」
先輩は、自分の絵があるとも気付かず、問題用紙ごと机をどんと叩いた。シャーペンで描かれた幸せそうな顔が醜く歪む。どうして岡森は先輩の絵を描いたんだ? 先輩の来訪を予想でもしていたのだろうか。いや、違うな。逆だ。岡森は昨日、先輩と……いたしたと言っていた。そこで何かがあったから、先輩がやってきたのだ。
しかし、妙だな。俺は先ほど考えたこととは少し違う展開に首を傾げた。修羅場には違いないが、単なる男女関係のもつれでもなさそうだ。地縫先輩は何を言いたいんだ? まあ、岡森が火種を蒔いたのは間違いないだろうが。
「私、見たんだから」
息を荒げながら彼女が言った次の言葉は、思いもよらないものだった。
「あなたが企んでいたのは――カンニングよ!」
今回はある人物(岡森桜一)に対して考察するお話です。日常の謎らしいと言えるのでしょうか。
意識したのはとある海外ミステリです。それも最後まで読めば明らかになると思います。