雨の日の遠まわり 3 【解答編】
解答編です。よくお考えになって、この先へ進んでください。
俺には、名探偵と呼ばれるほどの推理力なんてない。杉本の「カモちゃん」呼びの真相や、春山の怪談話、その他もろもろの出来事を解決してきたのは、全て、俺の中に棲みついているもう一人の人格だ。奴は入学式の日、俺の前に姿を現した。まあ、単なる比喩表現で、容姿を見たことはないのだが。こうして「交代」している間だけテレパシーのような形で聞くことができる声を知っているに過ぎない。謎の多い存在である。
俺はこいつのことを、探偵と呼ぶことにしていた。
「どうして遠まわりをしたか。その理由は、やはり危険だったからでしょう」
「ふうん、賀茂君には全て分かっているようね」
爾田先輩は、試すような口ぶりでニタリと笑うと、ミディアムの髪をかき上げた。平城先生は相変わらず端整な顔に柔らかい笑みを浮かべているだけだ。
探偵が表に出ている間は、口調や仕草は探偵のそれになる。慇懃な言葉遣い、大げさな身振りと、普段の俺とは全く違うはずなのだが、不思議なことに周りにはいまだ気付かれていない。俺が謎解きをする時の「キャラ」だと思われているのだ。不本意だが、仕方がない。人格交代なんて言っても信じてもらえないだろうから。
「先輩たちは、行き道では雨のなかを遠まわりしてまで左の歩道を避けましたが、帰り道ではそうでもありませんでした。この違いは何なのか。
一つ。時間帯に関係していた。つまり往路の時は通るには都合が悪かったが、帰路につく頃にはもう大丈夫になっていた」
「工事以外で、そんなことってあるの?」
先輩は首を傾げた。俺も疑問だった。たった数時間の違いでそのような不都合が生じるだろうか。道路工事の線はさっき否定されているし。
「例えば、その時間は巨大な影が出現して、人を飲み込んでしまうとか」
そんな阿保な。まさに先月の春山じゃあるまいし。先輩も苦笑していた。
探偵がこんな的外れな推理をするはずもない。ということは、俺への当てつけだろう。
(おい、何が言いたいんだ)
心の中で、探偵を問い詰めてみる。探偵もテレパシーで返してきた。
『はあ。方違えの件と言い、今回のことと言い、カモさんにはガッカリです。少しは岡森さんの向学心を見習って欲しいものですね』
(……厳しいな)
そりゃ、勉強面で岡森に遠く及ばないくらい良く分かっているさ。
探偵がまた謎解きを再開した。
「話を進めましょう。二つ。左の歩道について、先輩は行きは避けたが、帰りは避けませんでした。ここにどのような違いがあるでしょうか。
往路で左の歩道を南下するということは、ちょっとややこしいのですが、進む方向を基準にしてみると国道の右手を歩くことになります。帰路はその反対で、道路の左手を北上していたことになります」
その違い……俺は思い当たることがあった。岡森と同じような話をしていたぞ。小学校の時の右側通行。法律で決まっている、道路の右側通行。車は左車線を走る。
爾田先輩も同じことに思い至ったのか、探偵に問いかけた。
「車が前から来るか、後ろから来るか、ということ? でも、植え込みのおかげで国道とは距離があったのよ。
それに、むしろ前から来るより後ろから来た方が危ないと思うけど」
「爾田さん、注目すべきはそこではありません。もう一度時間のことを思い出してください」
探偵に言われ、先輩は目をつぶった。その時の情景を思い浮かべようとしているみたいだった。
数秒の後、はっと目を見開き、
「ライト」
短く呟いた。右?
(右側通行が関係していたりするのか)
探偵に訊いてみると、今度は心配そうな声が返ってきた。
『カモさん。私はあなたの頭が雨漏りしていないか調べなければなりませんね。そう、午前中だって、うら若き乙女に裸体を見せつけていましたし』
(あれは事故だ!)
そもそも、こんな奴が身体に棲みついている時点で大丈夫なのかは怪しいところだが。まったく、今日は本当に毒舌だな。
さっき先輩が言ったことをもう一度考えてみる。そしたら、すんなり間違いに気付いた。「右」を意味する「ライト」じゃないとしたら……。
「おっしゃる通り。車のライトですよ。18時頃とはいえ、季節は冬。あたりは真っ暗でした」
先輩が左の歩道を避けた理由。分かった気がした。
「車のライトが逆光となり、視界が奪われるのを避けるため、先輩はわざわざ遠まわりしたのですよ」
国道は車通りが多かった。歩道も絶え間なくライトで照らされていたことだろう。もし左の歩道を使っていたら、北上する車の逆光で前が見えなくなっていた可能性が高い。いや、先輩はそのことを経験から知っていただろう。地元の人間なのだから。
まして、先輩の片手は傘でふさがれており、もしもの時に対処できるかは分からない。大事を取って、回り道になっても右の歩道を使ったのだ。
雨のなかの遠まわりは、爾田先輩への気遣いだった。
さっきの話で爾田先輩は、右の歩道について詳細な描写をしていた。しかし雨夜、街灯も無いなかでそこまで見てとれるだろうか?
歩道は暗くなどなかったのだ。南下してくる車のライトが後方から絶えず歩道を照らしたおかげで、一定の明るさが保たれていたから。だが反対側では、そのライトの光が視界を奪ったことだろう。帰りはその逆になる。
そして、探偵が俺を馬鹿にする理由も分かった。思えば俺は、逆光の話を他ならぬ探偵から一度聞いていたはずなのだ。それをすっかり忘れていた。こんなことでは、呆れられても文句は言えない。
「先輩は……やっぱりやさしかった」
ぽつり、と爾田先輩は呟いた。
「もともと私、ちょっと勉強ができるだけの、おとなしい地味な生徒だったの。眼鏡をかけて、その頃はまだ髪も長くて。今みたいに人前で話せるようになるなんて思ってもみなかった。
そんな頃、先輩が総務委員会に誘ってくれて、私も変われて……」
良い話だ、と思いかけて、俺は何かに引っかかった。先輩は昔、髪が長くて、眼鏡をかけていた? おい。待ってくれ。
ほとんど忘れかけていた、ある人物の顔が頭に浮かぶ。
「でも私、無理をしちゃったのね。ある日、あまりに仕事が忙しくて総務委員会室で寝てしまったことがあった。真冬のことだったけれど、起きたら先輩がいて、私にカーディガンを羽織らせてくれていたの。
面倒見のいい人だったわ。仕事で校内を駆けずり回って、スリッパがボロボロになっちゃった時も、自分のを譲ってくれた。色が違うし、自分で買えますって言ったら、あの人、
『それはいけない。新しいスリッパが届くまでの間に怪我をしたら大変だ。今はこれを使いなさい』
だって。嬉しかったな。
まあ、サイズを間違えて注文したのが一足余っていたからだって、後から知ったんだけど。笑っちゃうわよね。それで全然悪気が無いんだもの。先輩も、どうして自分のスリッパが二足もあるのかすっかり忘れていたのよ」
クスリと思い出し笑いをする爾田先輩。だが俺は途中からほとんど話を聞いていなかった。スリッパをくれた、だと? まさか……。先程の、ニタリと口をゆがめた先輩の笑顔。その笑顔が、ある人物のそれと重なった。
俺はとっさに、探偵の視界の端に映る爾田先輩の足元を見ようとする。だが、今は図書館用の緑色のスリッパを履いているのだった。
『分かりますよ、カモさんの考えていること。これは一本取られましたね』
しかし言葉とは裏腹に面白がっているような様子で、探偵が言った。
「先輩もお人が悪い」
「ふふ。よくできた変装だったでしょ?」
先輩はポケットから黒縁の眼鏡を取り出してかけると、ニタリと嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。ニトロは私のペンネーム」
開いた口が塞がらなかった。いや、今の俺は身体の支配権を失っているからもちろん比喩だが……。
「もしかして爾田さん、賀茂くんに話していなかったの? 自分が部長だって」
平城先生が呆れた顔で言った。先輩は悪戯を見つかった子供のような笑みを浮かべて、眼鏡を外した。さすがに今は、かつらまでは持ってきていないようだ。
『ついに爾田さんに捕まっちゃったみたいね』
司書室に入って、最初に先生から投げかけられた言葉だ。よく考えてみるとおかしい。爾田先輩は図書館の前で、俺の顔を初めて知ったかのような言葉をかけた。しかしこれでは、以前から俺を追いかけていたみたいではないか。
先輩が文芸部部長・ニトロと同一人物だとしたら。心当たりはある。先月の部活動集会を俺はサボっている。そこで話したいことがあったのだとすれば。いや、今朝の原稿依頼の話がそれなのだろう。
『――クラスが同じだから。彼女なら、平気で人を待たせるかもしれないわね』
これは爾田先輩が図書館前で発した言葉。よくも、いけしゃあしゃあと!
ん? 何かがおかしい。
(そうか、スリッパ)
外のスリッパには「有川」の赤色スリッパは無かった。だから、俺たちは先輩がまだ来ていないと判断したのだ。一足だけあった3年生のスリッパも、ニトロ先輩のものではなかった。まあ、情報元が爾田先輩だから正しいとは限らないが……。
(もしかして、あの青いスリッパは先輩のものだったのか? いや、違うな)
探偵に問いかけてすぐに、俺は間違いに気付いた。あの後すぐ先輩が現れた衝撃で忘れていたが、俺はあのスリッパの名前を確認していたのだ。どんな名前だったかはもう思い出せないが、あれは確かに俺の知らない名前だった。つまり、少なくとも「爾田」ではないということだ。
『カモさん、午前中にゲームを仕掛けてきた態度からしても、おそらく先輩は隠し事はしても嘘をつくような人ではありませんよ。だからあの青色のスリッパも別の人のものでしょう』
(じゃあ、先輩はどうやってここへ来たんだ? まさか、裸足じゃあるまい)
当然、探偵はその考えを否定した。静かに話し始める。
『その答えを、カモさんは知っているはずです。ここに来る方法はスリッパだけとは限らないでしょう? 土足で来たのですよ』
一瞬、校内を下靴のまま歩く姿を想像してドキリとしたが、そんな訳はない。そうか。先輩は、
(傘を差して、外から回って歩いてきたのか)
図書館前の下駄箱にはローファーがあった。あれは爾田先輩のものだったのだ。傘立てにはパッと見で数え切れないほどの傘が立てられていたが、その中にも先輩の傘があったということだろう。だとすれば、先輩は雨のなかを遠まわりしてきたことになるが……。
すると、探偵があるものに視線を向けた。自然に、俺の目もそれを捉える。あ! そういうことか。
それは、さっき先輩がどかした体操着入れだった。
『それは彼女のものでしょう。爾田さんは、次の時間が体育なのですね。ご存知の通り、体育館への通路が通れなくなっているせいで、女子生徒の中にはスリッパが汚れるのを嫌って下靴に履き替える方もいます。爾田さんもそうするつもりなのでしょう』
なんのことはない。まさに今日の午前中、俺は似たような光景を見ていたのだ。下駄箱から体育館に向かう、同じクラスの女子生徒たち。
(爾田先輩とニトロ先輩が同一人物だった……つまり、もしかして)
『ええ、その「つまり」らしいですね』
探偵は、どこか投げやりに答えた。むしろすがすがしい響きすらあった。
「爾田さんのお話に登場された先輩。名前は『有川』さんとおっしゃるのではないですか?」
「ええ、その通り」
見るものを魅了するような笑顔を、先輩は浮かべた。反応を見て楽しんでいるに違いない。自分ではおとなしい生徒、なんて言っていたが、どこがだ。とんだ悪戯好きではないか。
「バックナンバーはここに置かせてもらっているの。後で見せるわね。
今日は本当にありがとう。なんだかすっきりした。久しぶりに先輩の話をしたら、懐かしくなっちゃった」
爾田先輩は遠い目をして言った。その顔は晴れやかだ。平城先生はというと、ホッとしたような、慈しみに満ちた目をしていた。結果はどうであれ、良かったのではないだろうか。
「ずいぶん遠まわりしちゃったな……」
先輩の呟きが、やけに心に残った。
さぞ岡森は待ちくたびれているだろうと、心もち急いで図書館のガラス扉を開けると、奴さん、一人の女子生徒と至近距離で、何やら睦まじく語り合っていた。
「……岡森」
「ああ、カモちゃん。先輩、遅いねー」
女の子は顔を赤くしながら走り去っていく。岡森のこの見境のなさは、どうにかならんのかね。
ちょっと意地悪がてら、ささやきかける。
「実は、最初から中にいたんだ。もう話してきたよ」
「え、嘘! ちょっと今から行ってくる! どこらへん?」
「司書室の中だ。けど、爾田先輩もいるぞ」
まあ、嘘はついていない。
すると岡森は急に熱が冷めたように「じゃあいいか」と言う。本当、なんだっていうんだ。
爾田先輩がここで言ったことから考えれば、この発言がおかしいということくらいすぐに分かるはずだ。遅かれ早かれ気付くだろうが、ここまで冷静さを無くすとは、岡森らしくもない。
「はあー、つまんないな。カモちゃんの恋バナでも聞かせてよ」
「なんでだよ」
思わぬところからカウンターが飛んできたものだ。すぐに一人の女子の顔が思い浮かんだのも、なんだか悔しい。
「僕には分かっているよ。カモちゃんは感情が表に出やすいからね」
岡森があくどい顔で恐ろしいことを言い始める。
「さっさと白状しちゃいなよ」
「お前なあ……」
この時の俺は、もの凄く渋い顔をしていたに違いない。岡森は依然としてニヤニヤと笑っている。
『ずいぶん遠まわりしちゃった』
さっき爾田先輩が見せた晴れやかな笑顔が、とどめになった。短く、だけどはっきりと、俺はあの人の名前を口にした。
「杉本が好きなんだ」
「…………」
「そのアルカイック・スマイルを今すぐやめろ」
「よく言った! それでこそ男だよ、カモちゃん。応援するからね!」
嬉しそうな岡森の表情が、やけにまぶしく感じる。いや、そもそも周りが明るい……あ、そうか。
雨は上がっていた。
「天気予報だとずっと雨だったのにね。おっかしい」
岡森はそう言って身を翻すと、本校舎に向かって歩き出した。光が反射してきらめく水たまりを、今度はうまく跳び越える。俺もそれに倣った。
探偵は、俺が偽りの恋をしていると指摘した。岡森のことから目を背けたいがために逃げただけだとも。それが本当だとすれば、再び岡森と向き合うことが出来たら、この気持ちも冷めることになる。
『カモさんは、それでも結構岡森さんから良い影響を受けていると思いますよ』
司書室を出た後、俺と探偵は少しだけ会話を交わした。
『ニトロさんの私は誰でしょうクイズ、あれだって、以前のカモさんなら断っていたでしょう。やる気になったりはしなかったはずです』
そう言われれば、少し負けず嫌いになったような気もする。入学頃の俺は今よりずっと、何事に対しても消極的な人間だった。岡森だけでなく、杉本や春山たち、そして探偵と時を過ごすうちに、俺もましな人間になれたのだろうか?
心が、軽くなったような気がした。同時に、今まで重たいものを呑んでいたことに気が付いた。……今さらだな。結局は、俺も遠まわりしていたということだ。やっと、岡森と向き合える気がしてきた。
そのことで、俺の恋心は変質してしまうのか? ふん、そんなことはくよくよ考えても分からんだろう。
今を精一杯過ごすだけだ。
(岡森に、杉本のことを言おうと思う)
深い意味はないが、探偵に決意表明をしてみることにした。
『別に止めたりしませんよ、私は。カモさんは生きた人間です。只今は、生者のためにあるのです』
意味深なことを探偵は言う。お前、それじゃあまるで――。
『私は、一体なんなのでしょうね』
時間が来たのか、そこで人格交代は終わった。この現象は10分ほどしか続かないのだ。
ふと、後ろに気配を感じた気がして、物思いから引き戻される。スリッパが水たまりをパシャリ、と打った。振り返る。
爾田先輩がいた。
ローファーを履いて、体操着袋を手に持ち、もう片方の手には小ぶりな傘。先輩は俺に笑いかけると、踵を返して、明るくなった空の下を歩いていった。
「どうしたの、カモちゃん」
「いや。なんでもない」
マットにごしごしとスリッパの底を擦り付けて、岡森を追いかける。
「そういえば」
岡森が言った。
「僕たちと入れ替わりに卒業した総務委員長も、有川って名前だったかな」
「そうなのか」
爾田先輩を総務委員会に誘った人。先々代の総務委員長だったのか。
それで終わるはずだった何気ない一言に、俺は引っかかりを覚えた。待て。どうしてそんなことを岡森が知っている。
「どうしたの、そんな不思議そうな顔して。
栄光タイムズのバックナンバーで顔写真を見たんだよ」
「いやそこじゃない。だとしても、どうしてそんなことを覚えている」
だって、こいつの興味の向く先は――。
「凄い美人だったからね。忘れないさ。ああ、本当に残念だよ。
もうここには居ない、有川浩子さん」
「雨の日の遠まわり」 了




