Sの悲劇 2
そもそも、なぜこんなに杉本が眠気を引きずっているのか、俺は本人から理由を聞いていた。話は始業前、俺が登校してきたところまで遡る。
昇降口から、俺は教室ではなく職員室へ向かった。俺が学校に着くのは七時半過ぎで、こんな早くでは教室には誰も来ていない。当然、俺が教室の鍵を開けなければならない。ここ一ヶ月ですっかり身についた習慣だった。
職員室前には各教室の鍵が入った箱と、帳簿があって、鍵を取った生徒が名前を書くことになっている。そこに自分の名前を記すのも、ひそかな楽しみであったりする。
だが、今日はすでに鍵はなく、名前も記入してあった。「杉本紗妃」――そう、杉本が先に来ていた。
えらく綺麗な字だったので、思わず、さすがだな、と独りごちていた。彼女は書道部に入っているはずだ。それも、たった一人の部員だと聞いた。今年で廃部するところだった書道部を彼女が救ったらしい。さすが「兼部の鬼」。
そういえば――。俺は靴箱にあったローファーを思い出した。あれは杉本のだったのか。
ローファーがあるということは、その持ち主が学校にいるということだ。なんだ、職員室に来る必要はなかったかもしれない。
しかし、どうしてこんな早くにと、自分のことは棚に上げて不思議に思った。クラスメートの中でも、杉本はいつもぎりぎりに教室に駆け込んでくる。
家が遠いのかというと、全く逆で、歩いて五分もかからないところらしい。ではなぜいつもチャイムぎりぎりに登校してくるのか。話のタネに理由を聞いたことがあったが、
「近いと、ゆっくりしちゃうでしょ」
とのことだった。なんだよそれ。
「少しくらい寝坊しても間に合う距離だったら、ゆっくり行けばいいやって思っちゃうのが自然じゃない?」
まあ確かに、家が遠くの生徒から順番に登校してくるような気がする。だがそれにしても、杉本の場合は極端じゃないか。
それを指摘したら、
「極端なのはカモちゃんもでしょう。一時間以上かかるのに毎朝一番乗りって」
その通りだった。
とにかく、そんな遅刻魔予備軍の杉本が今日は俺よりも早く学校に来ている。これは何かの前触れかと、不安な気持ちを抱えながら教室へ向かった。
が、教室の扉を開けた瞬間、不安など吹っ飛んだ。
すぴー……。
杉本が寝息を立てながらのんきに寝ていたからだ。わざわざ早くから学校に来て寝るなら、家でもうちょっと寝てくればいいのに。
杉本は扉の音で目が覚めたのか、むくりと顔を上げた。そのままじっと黒板を見つめる。俺もつられて黒板に目をやる。
連休明けで、まっさらな深緑色。その表面は、いくつかのプリントが貼られている他、日付が書かれているのみ。五月七日。くみん。おや? 日付以外のものが混じっている。誰が書いたのか知らんが、なぜ? 確か香辛料だっけ。
しばらくして、杉本は俺に気が付いたようで、声をかけてきた。
「カモちゃん? 早いのね」
「お前も十分早いだろ。用事でもあったのか?」
聞いてから、それはないかと思った。それならこんなところで寝ていないだろう。
俺は自分の席に鞄を置いて、中身を机の中に入れる作業を始めた。
「今日、ほとんど寝てないのよ……」
目をごしごしこすりながら、杉本は質問を無視して話し始めた。なんだか、眠りを妨げられた恨みがこもっているような気がして、俺は少したじろいだ。単なる俺の被害妄想だといいが。
「お、おう。そうか」
「寝たのも五時頃だし……。寝落ちだったんだけど」
五時って、朝の? 何してたんだよ……。
さっきと違う意味でたじろいだ俺を見ることなく、杉本は眠そうに目をゴシゴシこすりながら、
「でもね、すぐに目が覚めたのよ。姿勢が悪かったからかしら」
そう言うと、杉本は再びじっと黒板を見つめた。真顔なので分かりづらいが、たぶん眠いのだろう。遅くまで起きていた理由は口にしなかったが、俺も聞いたりはしなかった。
ほぼ徹夜か。それはきつい。
結局早く来た訳は分からなかったが、まあ、杉本の眠りを妨げても構わないほど気になると言うわけではない。
おとなしく本でも読もうかと思ったら、はっとした様子で杉本の方から、
「なんで私こんなとこにいるの!?」
と言ってきた。
「なんでわざわざ学校に来て、固い椅子に座って寝てるのよ。家のベッドで寝てたら良かったのに」
杉本はこちらを向いて、首を傾げた。前髪がパサリと揺れる。それを少し可愛いと思ってしまったのが、なんとなく癪だった。
「でも、学校に行かなきゃって、思ったような気もするのよね。凄い使命感に駆られたというか……」
「家だと寝過ごすからじゃないか」
声が固くなるのを感じながら、俺は言った。この様子だと特別な用事は無かったみたいだし、そう考えるのが妥当だろう。
雪山における「寝るな! 寝たら死ぬぞ!」じゃないが、このまま寝たら遅刻すると思った杉本が、それを「使命感に駆られた」と感じたとしても不思議ではない。
学校へ来て教室に居さえすれば、寝ていても遅刻にはならない。まあ、それまでに誰かが起こすだろうが。
杉本はなるほど、と言って、
「さすがは『休み時間探偵』ね。遠足の時と言い、なかなかのものじゃない」
相好を崩した。俺は、ちくりと胸が痛むのを感じて、そっぽを向く。
『休み時間探偵』とは、四月の一件で杉本が俺に付けた「二つ名」だ。杉本、頼むからこれ以上こんな呼び名は広めないでくれよ。
俺は話がそれ以上その方向に飛ばないように、
「今のうちに寝とけよ。ちゃんと起こしてやるから」
と言った。早くから学校に来て杉本を起こしてしまった罪悪感も、ないことはなかった。
「ありがとさん。ぐっすり眠れるわ」
杉本は再び机に突っ伏した。黒髪で横顔は見えない。今度こそ俺は文庫本を読み始め、それから会話を交わすことはなかった。
だが、あまり眠気は取れなかったみたいだ。一時限目になっても、杉本は板書を取るのもやっと、という有様だった。
改めて今回の依頼品を見てみよう。
……じゃ、なくて。俺は杉本のノート全体を観察する。
今日の板書の始まりは、すぐに見つかった。前回分の板書と筆跡がかなり違うからな。ページの左端に、「5.7.火 因数分解」と、今日の日付と授業のタイトルが書かれている。
「7」がカタカナの「フ」そのものなのが気になるが、これは癖だろう。そしてまだこの辺りは、ましな字だ。
そこから下に行くにつれ、数式や公式の字が徐々に乱れていく。俺も経験があるが、眠い時に板書をとるとこうなる。後から見ると、本人すらなんと書いてあるのか分からない。それほど筆跡が変わる。
乱れが最高潮に達したところで、板書が不自然に途切れていた。自分のノートと見比べてみるが、やはり途中で板書が終わっている。ここで完全に眠ってしまったのだろう。突然声を上げた時だ。
そして、この時杉本は謎のメッセージを残した。
板書が途切れたところから目線を右上に移動させていった場所、ページの余白に例の「5/12(土)」の書き込みがあった。(図参照。もう一度)
杉本は、自分の席の椅子だけを俺の横に移動させ腰掛けると、
「こうしてみると、まるでダイイングメッセージね」
授業中に俺が思ったのと同じことを言った。
……そう、これはダイイングメッセージ。永遠の眠りにつく直前の杉本が、最期の瞬間に遺した暗号。なんとしても解かなければ! カタキは討つ!
なんて思えるはずがない。どうせ寝ぼけた杉本の勘違いだろう。
俺はもう一度、今日の板書全体を見渡してみる。それにしても……。
「それにしても、これはひどい。ひらがなか数字かさえ分からん」
「書道部の名折れね……」
栄藍高校唯一の書道部員はがっくりとうなだれた。
「自分の字じゃないみたい。あ、でも文章のところは筆順に注意すれば読めないこともないわね」
ふと言ってみただけだったのだろうが、俺は気になって聞いてみた。
「筆順?」
「そう。筆順は大事なんだから。いくら寝ぼけてても、そこは乱れたりしないわ」
そんなに大事なものか? 筆順って。俺はそこまで気にしないが。
だが、そこで少し引っかかりを感じた。何だ。なにか、矛盾があったような……。
もう一度ノートをじっくり見る。そのまま深い思考に陥りかけたが、杉本の声で我に返った。
「ねえ、カモちゃん。宿題出てなかった? 私、そろそろ当たるよね」
数学の先生は、毎回授業の最後に生徒に宿題を出していた。俺も一度当たった。それは出席番号順だから、杉本はそろそろ自分が当たると予測していたらしい。
黒板を見たら、次に当たる生徒の出席番号と、教科書の問題番号が書かれていた。
「ほら、あれだ」
「えっと、あれね。やっぱり当てられてたか」
杉本は手を伸ばして教科書をとると、俺の机の上に持ってきて開いた。宿題の箇所に「5.9.木 まで!」と明後日の日付を書いて、丸でグルグルと囲む。
わざわざ俺の机で書いたものだから、杉本がとても近い。少し身体を遠ざけていると、急に杉本が叫ぶように言った。
「もしかして、この宿題のことだったの……?」
おいおい、寝ぼけすぎじゃないか。それはあり得ないだろう。杉本も言ってから気付いたのか、ぶんぶんとかぶりを振った。
どうやったら「9」を「12」と書き間違えるというのか。それに、先生が宿題を出したのは授業の最後、杉本が「5/12(土)」のメッセージを残したのは授業中だ。宿題は関係ない。
さてと。
ここからが本題だ。ノートの余白に書かれた日に、何があるのか?
「この日付に、心当たりはないのか?」
「土曜日は特に何もなかったはずよ。今週の土日は何も用事が無いもの。こんなこと滅多にないから、覚えているわ」
手帳などは見ずに、そう答えた。アクティブ過ぎて少し引くレベルだ。別に運動部に入っているわけでもないのに。
だが、そうなるとこの答えは信頼できそうだ。じゃあ、やっぱり。
「やっぱり、寝ぼけてただけじゃないのか? 板書を書き間違えたとか。ほら、こことかもなんて書いてあるか分からんだろう」
俺は、ノートの一角を指さした。数式だと思うが、乱れすぎて見た目は英文のようになっている。
だが杉本は、俺の考えを明確に否定した。
「それはないわ。だって、授業中に急に何か大事なことを思い出して、慌てて書き留めたの、覚えているから。
……うん、やっぱり板書の写し間違えはあり得ないわ。余白に書いてあるんだから」
「あ。そうか」
板書の続きではなく、それより右上の余白にわざわざ書いてあったということは、それが授業とは関係のないことだったからだ。しかも、杉本の記憶によるとそれは重要な用事だった。
「それに、一番おかしいところは他にもあるわ。気付かなかった? カモちゃん。
十二日って、日曜日よね?」
「あ……」
俺は慌てて黒板を見た。今日の日付は五月七日。そして、火曜日だ。
八日→水。
九日→木。
十日→金。
そして、十一日→土。十二日→日。
杉本が書き残した日付は存在しない。あったとしても少なくともそれは今年ではない。だが、数年前や数年後の用事を慌てて書いたりするだろうか。
杉本は、俺をまっすぐに見つめて言った。
「確かに、これも間違えただけかもしれないわ。私が寝ぼけて訳の分からないことを書いただけかも。別にそれならいいのよ。だけど、絶対なにかあったはずなのよね……」
最後の方の言葉は、俺に聞かせるつもりでは無かったのだろう。うつむきがちに発せられたため聞き取りにくかったが、杉本が納得にしていないのは明らかだった。
なんてことだ。俺は、言われるまで曜日のズレに気付けなかった。はじめから書き間違いだと決めつけようとしていた。
ここで「分からん」で済ませても、杉本は責めたりしないだろう。俺も困るわけではない。むしろ俺が「休み時間探偵」だなんて、大きな誤解だったと言うこともできる。先月のや、校外学習の時のはまぐれなのだと。
実際、俺は探偵でも何でもないのだから。
今なら、あの言葉を口にすれば、本物の探偵が出てくるだろう。
俺の中に棲む、もう一人の人格。あいつも、この謎に対して興味を示しているのが分かる。今回も、解決編は横から眺めさせてもらうしかないか。
いや、奥からか。
俺は、その言葉を口にした。名探偵が皆を集めて推理を始める時の、お約束の言葉だ。
『さて――』
瞬間、世界が反転する。キーン、という耳鳴りに似た音とともに世界が歪み、俺の意識は、身体の奥へ奥へと沈んでいく。水の底へ沈んでいくような感覚の中、あいつの声が聞こえた。
『やあ、カモさん。また会えましたね』
もはや耳鳴りは聞こえない。身体の支配権は失われていき、代わりに、あいつが俺の身体の表層に現れる。俺はぼんやりとした感覚だけを残して、それを理解した。
そして、俺の口が開かれた。
「さて――簡単な話です」
探偵が言った。