雨の日の遠まわり 2
昼休み。雨は降り続いている。
教室で昼食を取った後、俺はニトロ先輩に言われた通り図書館に向かった。
「やっぱり先輩だったんだねー。綺麗な人だったなあ」
左隣を歩く岡森が言った。あの後、「有川」さんが実は3年生の「ニトロ」先輩だったということを白状したら面白がって付いてきたのだ。
「やっぱりって、お前分かっていたのか?」
「いいや。ただ、そこはかとなく色気があったんだ。あれは男を知っているね」
と、そんなことを涼しい顔で言う。これだからモテるやつは。
男と聞いて、あの掠れた「有川」という文字が蘇る。後輩の女子がスリッパを譲り受けて、今も履き続けるほどの人物。ニトロ先輩にそういう存在が居る事実は、岡森としては分が悪かろうと思ったが、奴は微塵も彼女のことを諦めていないようだった。
「昔は付き合っていたかもしれないけどさ、今はどうか分からないよ。訊いて確かめるくらいはしないと」
「お前は凄いよな」
俺は本心からそう言った。こいつのメンタルの強さは目を見張るものがある。人に一歩踏み出す勇気がない俺には、眩しく見える点だった。
岡森は窓の外の雨空を指さして、
「ほら、こう言うじゃないか。止まない雨は止まない」
「天からの強い意志を感じるぜ」
阿保なやりとりを交わしているうちに、中庭に面した狭い回廊に出た。はっきり雨の匂いが感じられ、岡森ではないが、記憶の奥底をかき混ぜられるような気持ちになった。いつか春山と来た物理講義室を横目に、ゆっくり歩いていく。
四月の頃などは、この中庭で輪を囲みお昼を食べる生徒もちらほらと見かけられたが、さすがにこの雨では誰もいない。ひっそりとした空間の中央で仲良く並ぶ2体の銅像が、誰に顧みられることもなく雨に打たれていた。
「そういえば、体育の授業の後で話していたことだけど――」
岡森が思い出したように持ち出したのは、あの右側通行の話だった。こいつは天才肌のように見えるが、影ではかなりの努力をしている。疑問に思ったことは放っておかずにちゃんと調べるというのもその一つだろう。
「歩道のない道路では、歩行者は右側を通行するように法律で決まっているそうだよ。それを生徒に学ばせるためじゃないかな」
へえ、知らなかったな。気にしたことは無かったが、今度からは通学路も右側を歩くようにしようか。
「しかし、どうして右側なんだ」
「おそらくだけど、もし左側を歩くと車が後ろから近付いてくることになるだろう? それだと危ないからじゃないかな。ほら、右側を歩いておけば車は前から来るんだから、すぐに分かる」
なるほど。特に小さい子供なら、背後から来た車に気付かず、何かに気を取られて道路に飛び出すなんてことは十分にあり得る。俺のあだ名「カモちゃん」の生みの親である幼馴染が、まさにそんな感じの危なっかしい子供だったからな……。
あっという間に図書館に着く。図書館は、校舎とは別の建物になっている。だから図書「室」ではなく図書「館」。体育館と同じく、屋根付きの通路で結ばれている。ありがたいことにこちらはまだ雨漏りはしていない。だが、そうはいっても所詮は吹き曝し、こんな雨の日にはコンクリートの床に水たまりができる。
俺と岡森は会話を中断し、水に侵された部分を器用に跳び越えながら進んでいった。岡森は「ああ! 踏んづけちゃった!」などと喚いているが、俺はもう慣れたものだ。「探偵」に連れられてきて以来、俺はしょっちゅうここに来ていたからな。
岡森を前にして、こうやって平静を装えるようになったのは、最近のことだ。もともと俺と岡森は出席番号が前後だということもあって、入学当初から親しくしていた。だが、部活動集会があったあの日を境にやや疎遠になった。いや、俺が一方的に避けるようになったのだ。
そんな状態がいけないことくらい、分かっていた。だが、そう思いつつも、考えるのを先延ばしにしていたのは事実だ。先日、あの「探偵」に指摘されるまでは。
俺は岡森を理解したいと思った。岡森の生家は、図書館の本に載っているくらい有名で、歴史が古かった。まさにN県の名家。岡森が時折見せる昏い笑顔がそれに起因しているのかどうか、俺に知るすべはない。分からない。こうした方法が正しいのかも。
図書館前には誰も居なかった。ガラス張りの玄関扉の向こうにも人は見えない。その手前のマットには、中にいると思しき生徒のスリッパが何足か置かれている。内訳は、青1、緑1、赤2。つまり順に3年生、2年生は一人ずつ、1年生は二人という構成になる。
受験シーズンには、その年の3年生の色のスリッパで図書館前がいっぱいになって見頃だそうだが、まだ早すぎるみたいだな。靴箱にパンプスとローファーが一足ずつあるのに対し、傘立てには10を超える数の傘が刺さっていた。明らかに靴の数より多いのは、カラカラに乾いているものも多いことだし、ほとんどが置き忘れ去られたものだからだろう。
スリッパに書かれた名前を見たが、どれも知らない名前だった。もちろん赤色の「有川」は見当たらない。
「まだなのかな」
岡森の言うとおりだろう。ニトロ先輩はまだ来ていないみたいだ。
ガラス張りの扉に張られたポスターを眺めたりしつつ数分待ってみたが、まだ来ない。岡森との馬鹿話のおかげで退屈はしなかったが、ほとんど屋外なのでやはり肌寒い。当然の流れで、中に入って待とうということになった。
「それにもしかしたら、この青色がニトロ先輩の本来のスリッパなのかも知れないよ」
「自分のに履き替えたってことか? わざわざどうして」
「ほら、ここに来るまでに僕のスリッパが水たまりで汚れただろ? あんな通路を、大事な先輩からもらったスリッパで通ろうとは思わないんじゃないかな」
なるほど。岡森の言うとおりかもしれない。
スリッパの群れに赤色を2足加えようとした時、ちょうどガラス扉の向こうに人が現れた。女子生徒だ。丸めたポスターらしきものと、セロハンテープを手に持っている。
「あ」
俺たちの声が重なった。その人も、どうしてか俺たちにガラス越しの笑みを寄越した。
扉が内から開かれる。図書館内なので彼女は学校指定のスリッパを履いていなかったが、俺はすぐにその人の学年に思い当たった。それどころか、フルネームさえも。彼女は栄高生なら誰もが知っているであろう人物だったからだ。
先代の生徒会長――もとい、総務委員長・爾田希美先輩が微笑んでいた。
「おや。その長髪は、お……。岡森君」
「どうも。爾田さん」
先輩に声をかけられた岡森を見て、俺は戸惑った。岡森桜一とは、常に自信たっぷりな態度を崩さず、薄笑いを浮かべて逆に感情の動きを悟られないようにしているような、そんな食えない男のはずである。だが、今のこいつは笑みを消し、能面のような表情を顔に張り付けている。
爾田先輩にしても、よく分からない。口を曲げて笑顔を作ってはいるが、それでいて瞳には、寂しそうな、憐れむような感情が見え隠れした気がする。二人は知り合いなのだろう。だとすれば、二人の間に何があったのか。
しかし、それきりだった。先輩は俺に顔を向けたのだ。
「もしかして君が『カモちゃん』かな?」
床を指さしながら尋ねてくる。……ああ、そうか。その指の先には、俺が先程脱いだスリッパが置かれていた。「賀茂」と書かれたスリッパが。
だが、どうしてあだ名のことまで知っているのだろう?
「サキサキちゃんだよ」
「は?」
耳慣れない単語に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。えっと、語感的に杉本のことだろうか。同じクラスの杉本紗妃。俺に「休み時間探偵」などという二つ名を付けたのは他ならぬこの女子だ。先月のダイイングメッセージの件でも、俺は彼女に助けを求められた。そして、彼女は俺が密かに思いを寄せている相手でもある……って、んなことは今はどうでもよくて!
そうか。先月の一件で、俺は杉本と爾田先輩の関係を聞いていた。俺の話が先輩に伝わるとしたらそこからだろう。
「杉本さんのこと」
案の定、先輩はにっこりと笑って彼女の名前を挙げた。
「『紗』に『妃』だから、サキサキちゃん。
彼女から君の名探偵ぶりは聞いているよ。凄いんだってね」
そこでやっと、先輩はポスターを貼り始めた。何かのイベントの広告らしい。
「いや。そんなことはないですよ」
俺は思わず先輩から目線を逸らして答えた。謙遜に聞こえるかもしれないが、俺にとっては本当に「そんなことない」のだ。今まで謎を解いてきたのは、本当は俺ではない。
「ちょうど良かった。私も探偵さんに『依頼』をしてもいいかな?」
手早く作業を終えた先輩は、そう言うと悪戯っぽく笑った。それにしても、もうこんなところまで噂が広まっているとは……。それもそのはず、今朝だって3年生のおかしな先輩に話しかけられたばかりではないか。そうだ、ニトロ先輩。
俺は爾田先輩に、文芸部部長に呼び出されているという話をした。すると先輩は床に並べられたスリッパを見渡して、
「ああ、彼女のスリッパはないみたいだね」
どうやら、さっきの青色スリッパも違うらしい。……いや、待て。ということは、爾田先輩はニトロ部長の本名を知っているのか?
「ご存じだったんですか」
「ええ、同じクラスよ。彼女なら、平気で人を待たせるかもしれないわね。
どう? 待つついでに中で話だけでも聞いてくれないかしら」
それから、ちらりと岡森の方を見る。奴はというと、素っ気なく「僕は雨を眺めていますよ」と言った。
普段の如才ない岡森なら、中に入りたくなかったとしても、後から来るニトロ先輩を迎えるため、とかなんとか、何かしらの名目を付けるくらいはしたはずだ。俺は内心ハラハラしながら爾田先輩に顔を向ける。
「そう」
にこやかに返す先輩の声も、その表情の割には感情が込められていないような気がした。
貸し出しの手続きを行うカウンターの奥、いつもは縁の無い司書室に俺は案内された。爾田先輩はなんの躊躇いもなくドアを開け、つかつかと入っていく。俺もおずおずとそれに習った。
小さな部屋の中でまず目に飛び込んできたのは、所狭しと並べられた本の数々。司書室は、入りきらない本の避難場所にもなっているようだ。中央には職員室にあるのと同じデスクが並んでいて、その上にも本が積み上げられていた。さすがにキャスター付きの椅子の上は空いているが、そのうちの一つには何故か体操着袋が置いてあった。
奥のデスクには古めかしいパソコンが設置されている。と、その陰からひょこんと顔を出したのは、なんと我らがクラス担任、平城先生だった。
「え。あ、こんにちは」
とりあえず頭を下げる。
「こんにちは、賀茂くん。ついに爾田さんに捕まっちゃったみたいね」
そう言って、美人の先生はころころと楽しそうに笑う。すでに四十を超えているということだが、こうして見ると20代にしか見えない。副業で魔女をやっていたりはしないのだろうか。
先生は、文芸部の顧問でもある。そしてそれこそが、俺が部員を一人も知らないまま文芸部に所属できた理由だ。入学当初のホームルームで、俺は平城先生に直接入部届を出したのである。簡単な話だ。
今日ここにいるのも、部活関係かもしれない。文芸部と図書館、なんとなく親和性がありそうだといういい加減な推測だが。
「ちょうど、賀茂くんが来てくれたらねえという話をしていたのよ」
カタカタとキーボードを叩く音に混じって、作業に戻ったらしい先生の声がパソコンの向こうから聞こえてきた。
「雨が降ると、思い出してしまうのよね。爾田さん」
「そうです。あ、この椅子を使って」
先輩は体操着入れを無造作にどかして、俺に座るよう勧めた。
「去年の冬のことだったわ。総務委員会の忘年会があったの――」
その会は、この高校があるN市の隣、K市の鍋料理店で行われたわ。代々そこで会を開いているわけでもなくて、去年はたまたまそこだったというわけ。
高校生だし、あまり遅くなるといけないから、18時という結構早めの時間から始めることになっていた。それでも冬のこと、最寄り駅に着いた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。今日みたいに、あいにくの雨だったしね。
メンバーのうち、電車で来たのは私だけだった。けど、先輩の一人が案内してくれることになっていた。その人は地元の人だったから。当然、今はもう卒業しちゃってこの学校にはいないけど。先輩は少し遅れてきて――もともと抜けている所がある人だった――私たちは雨の中を速足で進んでいった。
この先輩がとった不思議な行動こそ、賀茂君に聞いてもらいたいことよ。話を続けるわね。
私たちが待ち合わせをした駅から東にちょっと進んだところには、南北に延びる大きな幹線道路があるの。会場のお店はその道路沿いの西側、つまり駅に近い方にあった。
駅から東へ進んで国道に出たら、右に曲がってそのまま歩道を進むだけ。私も事前に地図くらいは確認していたけど、先輩は地元の人だし、付いていこうと思っていた。
でもね。国道に出た時、先輩はなぜか横断歩道を渡り始めようとしたの。店はこちら側の歩道にあるはずだから、向こうに渡ったら遠まわりよね。
横に立つ先輩を見上げたけど、それで問題ない、って言い切った。それで結局、黙って任せることにした。私の記憶違いかもしれないと思ったし。
だけど、記憶は間違っていなかった。そのまま十分くらい歩道を進んだ頃かしら。やっぱり反対側、つまり元居た側にお店の看板が見えた。
ひっきりなしに通り過ぎる車を眺めながら、私たちは信号が変わるのを待った。すぐそこにお店は見えているのに。
再び道路を渡って、ようやくお店に着いた。集合時間にはぎりぎり間に合ったけど、日ごろの小さな不満もあって、先輩とはちょっと揉めちゃった。
「どうってことない話なんだけど、時々ふと思い出しちゃうのよね。あの時先輩は、どうして回り道したんだろう」
爾田先輩は静かに語り終えた。司書室には窓がないため外の様子は全く伝わってこないが、なぜか先輩のしっとりとした語り口調を聞いていると、実際に雨の音が聞こえるみたいだった。
「意味もなく、爾田さんを振り回すような子ではなかったと思うんだけど」
平城先生が頬に手を当てておっとりと言った。仕事を終えたのか中断したのかは分からないが、いつの間にか椅子ごと移動して俺たちから見える位置にいる。
俺は頭の中で、幅の広い縦線を引いてみた。これが国道。その左右にへばりつくようにして歩道を描く。
国道の左から真っすぐやってきた爾田先輩たちは、わざわざ道路を渡って右側の歩道を南下した後、また国道を横断し左側にある目的地へたどり着いた。なぜ最初から左の歩道を使わなかったのか。
どうして、雨の日に遠まわりをしたのか。
「夜道で、しかも雨が降っていたんですよね。ただ単に危険だからじゃないんですか?」
「確かにそうね。狭くて暗い道だった。深い側溝があって、街灯は無かった」
「だったら」
だが先輩は、俺の言葉を遮るように首を振った。
「反対側、つまり私たちが通った方も似たり寄ったりだったのよ。街灯は無いし、足元も側溝があったりして。二人並んでギリギリくらいの道幅だったし」
二人ならんで歩くといっぱいの狭い歩道か……。あれ、だとするとさっきの話と矛盾するぞ。決して意地悪を言うのではないが、一応聞いておく。
「傘を差しながら、横に並んで立てたんですか」
「うん。相合傘だったから」
……はいはい、お惚気ですか。先輩の微笑を見ながら、俺はまた違和感を覚えた。さっき、先輩はおかしなことを言っていなかったか。
「あの、先輩。左の歩道の様子をどうやって知ったんですか?」
結局、先輩たちは左側の歩道を通らなかったのだ。なのに、なぜ爾田先輩はその歩道の様子を知ることができたのだろう。
しかし先輩は俺の言葉に首を傾げた。
「左の歩道?」
ああ、えっと。俺は先ほど頭の中で組み立てた図を先輩に説明する。
「なるほど、共通の呼び方があった方が分かりやすいわね。そう呼ぶことにしましょう。
賀茂君が疑問に思うのももっともね。何故なら、帰りは左の歩道を通ったからよ」
「え、そうなんですか」
「そう。その時は先輩と二人じゃなくて、何人かだったけどね。帰る時は店を出てそのまま歩道を歩いていったの」
なんと。それなら様子を知っていて当然だが、なぜ行きに限って避けたのだという話になる。ますますわけが分からない。
「狭い歩道だったんですよね。車が近くて危ないからとか」
かなり大きな道路で、車通りも多い時間帯みたいだったし。
「それがね、国道との間に腰の高さくらいの植え込みがあったから、車がすぐ横を通って危険なんてことはなかったわ。それは左の歩道も、右の歩道も、どちらも同じ」
「……その時間だけ、左の歩道は通行止めになっていたとか」
工事などを想定して一応言ってみたのだが、あまり考えづらい仮定だ。案の定先輩も静かに首を振った。
「そういう痕跡は無かったと思う」
「なんだかカタタガエみたいだわ」
話を聞いていた平城先生が不意に呟いた。「ああ、なるほど。先生らしい視点ですね」爾田先輩が嬉しそうに言葉を返す。俺はというと、ただ二人の間で視線をさまよわせた。
先生は俺の挙動をしっかり見つけて、
「あら、賀茂くん。この間授業で話したじゃない」
「肩が寝違えた話ですか」
「そんな話しないわよ」
平坦な口調で言うと、先生は俺をジトッと見た。
「『方違え』よ。平安時代などに行われていた風習ね。
出かける際、その方角が悪いと、一旦違う方角に行くの」
「方角が悪いって、どういうことですか?」
「陰陽道では、ある神様がいる方向に直接向かうと、悪いことが起きるということになっていたの。だから、わざわざ遠まわりしたのよ」
な、昔の人はそんな面倒くさいことをしていたのか。まあ、俺には迷信としか思えないが、それらがもっと身近に息づいていた時代だったのかもしれない。
迷信といえば、この前の春山の話。夜だけに現れるという影のことを、俺は思い出した。
「……お化けが出るとか」
爾田先輩がフッと噴き出した。自分でも、ますます馬鹿なことを言っているのは分かっている。
「それはさすがにないと思うよ。先輩は迷信とか信じていなかったから。合理的な考えの人だったわ。合理的すぎるくらいに」
ということは(当たり前だが)「方違え」の説も外れのようだ。そもそも、進む方角はどちらにせよ同じ南だったんだし。
だが、合理的と聞いてまた思いついた。
「そういえば、国道を通らずに駅から直接お店へ行く道は無かったんですか。住宅街を抜ける裏道とか」
「あら、賀茂君らしい発想」
先輩は何かを含むような言い方をした。ど、どういう意味ですか。
「私も言ったんだけどね。先輩から、そこは人通りが少ないからやめようってたしなめられたの」
「そうね。それこそ危険だわ」
平城先生も納得したようにうなずく。その時、先輩の表情に少しだけ現れた嬉しそうな色を見て、俺は改めて納得した。なんだ。本当に、爾田先輩は、
「その人のことを慕っておられたんですね」
「うん、そうね」
恥じる様子もなく、爾田先輩は破顔した。が、その笑顔には少し陰りがあるように思える。ふと疑問に思って、迷ったが、尋ねてみた。
「あの、どうして直接訊かないんですか」
「……ちょっと喧嘩別れみたいになっちゃって。随分長い間、連絡を取っていないのよ」
やっぱり。気まずい理由があるのだ。事情を知っているのか、平城先生もどことなく難しい顔をしているように思えた。目が合う。何かを伝えたがっているような目だった。
なんとなく、先生の言いたいことが分かったような気がした。先生は、先輩たちの間に出来た溝を埋めたいのかもしれない。爾田先輩だって、なんとかしないといけないとは思っているようだし。
この他愛もない、ちょっと不思議な思い出話を解くことで、なにかしらのきっかけが生まれるのなら。
何か理由があったのなら。雨のなか、遠まわりをしたことに。
それならば、俺がすべきことは一つだ。
『さて――』
瞬間、世界が反転する。平城先生や爾田先輩の姿が色褪せ、遠くなっていく。キーンという耳鳴りが響く中、あいつの声が聞こえた。俺の中に潜む、もう一人の人格。
『やあ、カモさん。こんなことも分からないのですか』
探偵の口調には、どこかトゲがあった。今日はやけに攻撃的だな。
俺は巷で噂されるような探偵などではない。この、「さて」と唱えることで俺の中から現れるもう一人こそが、本物の探偵だ。俺にはどうしようもない状況で、奴はこれまでにも様々な謎を解いてきた。
『少しは岡森さんを見習えばいいのです』
(どうして岡森が出てくるんだ)
なんだ。探偵からは、怒ったような、呆れたような印象を受ける。俺が何をしたというんだ。
そうこうしているうちに、交代が終わる。身体の支配権が完全に探偵に移った。俺の口が勝手に開かれる。
探偵が、言った。
「さて――簡単な話です」




