雨の日の遠まわり 1
登場人物紹介 ~好きなスポーツ編~
賀茂 京介
栄藍高校の1年生。「運動は好きじゃない」
岡森 桜一
賀茂のクラスメート。「●●はスポーツに入るのかい?」
謎の少女
賀茂に依頼を持ち込む。「サイクリングかな」
爾田 希美
先代総務委員長。「サイクリングかしら」
平城 京
賀茂の担任教師。柔道が強いらしい。
人生、時には遠まわりすることだって大事だ。急がば回れとも言うじゃないか。歴史を見ても、功を急いで事を仕損じた例は数知れない。つまり、あの場面での慎重な行動も、ある意味では正解だったのだ――。
というような趣旨のことを滔々と述べたら、
「だからって、敵にパスはあり得んだろ」
「そうだね。あそこはシュートを打つべきところだよ」
矢継ぎ早に指摘を加えてきた佐々木と岡森を、俺は苦々しい気持ちで見つめた。ぐうの音も出ない。
体育の授業が終わり、今は休み時間。俺たちは教室のある本校舎へ向かっていた。球技大会なる忌まわしき行事を数日後に控え、さっきの授業では本番で行う種目を自由に行っていいことになっていた。いかにも緩い校風の、我らが栄藍高校らしい采配と言えよう。
で、バスケットボールを選択していた俺はシュートを打つべきシーンで迷ってしまったというわけだ。挙句、立て直そうとパスを出した先が相手チームのメンバーのど真ん前だったというから嫌になる。
俺たちはジャージ姿のまま、本校舎に向かって歩いていた。女子と違って男子には更衣室がないため教室で着替えるのだ。これが、いい具合に汗が乾いてよろしい。雨さえ降っていなければ。
そう、俺たちは雨の中を歩いていた。それも上靴のままで、だ。本来なら屋根付きの通路を使うところだが、タイミングの悪いことにそこは老朽化のせいで雨漏りしており、数日前から通行禁止になっていた。さすが今年で90周年を迎えるだけのことはある。ぼろい。
石畳のため晴れの日なら上靴――学校指定のスリッパ――で歩いてもそこまで汚れることはないのだが、雨が降っているとなるとそうもいかない。とはいえ、一部の女子が授業前にしていたように、一旦昇降口で下靴に履き替えてから傘を差して体育館まで向かうというのも面倒くさい。結局、スリッパのまま強行突破を試みる運びとなった。
時は六月。梅雨真っ盛りだ。
ジャージのファスナーを指で弄りながら、「雨で中止にならんかね」と、言っても仕方のないことを独りごちる。それは静かに降りしきる雨粒に溶けて消えた――なんてことはなく、律儀なことに前を歩く佐々木によって拾われてしまう。
「そんなに嫌か? 球技大会。
カモちゃんも、部活に入って鍛えてもらったらいいんだ。どこにも入っていないだろ?」
「入っているさ。文芸部」
「ああ、あの部自体が幽霊って言われているところな」
佐々木の言い様はひどいものだったが、本質を突いているので文句は言えない。年に一回、文化祭の時に文集を一冊出すだけらしいからな。らしい、と伝聞なのは、俺だって信じられないが、なんとまだ一度も他の部員に会ったことがないからだ。まあ、もともと身を置くだけでいいという話だったし。
佐々木の言葉は聞こえたからか、今度は岡森が俺に向き直って、
「それがねえ、カモちゃん。この時期にあって、球技大会の日は毎年きれいに晴れるらしいよ。これも七不思議ってやつなのかな!」
何がおかしいのか、けらけら笑っている。岡森桜一。クラスメートの男子だが、その中性的な美貌と低い身長から女子と見間違われることもあるらしい。加えて学年トップの学力と絵の才があり運動も卒なくこなすとなれば源氏もかくやというところだが、それを打ち消してなお余りある女癖の悪さにより、評判は芳しくないのが実際である。許さるるは小説の主人公ばかりなりけり。
入り口に置いてあった雑巾で、スリッパの底の汚れを拭って校舎に入る。汗が乾くどころか、雨でますます濡れてしまった。風邪を引かないようにしないとな。
「僕は雨の方こそ嫌だね。部活に影響が出る」
スリッパを履き直しながら、岡森は何気なく言った。
「どうしてだ? 美術部だろ?」
岡森は本人曰く「美人だらけの奇跡のような部」である美術部に在籍している。そのくせ部内恋愛は後腐れするからと部員には手を出していないというから、こいつなりの線引きはあるのかもしれない。手当たり次第に女子と一線を越えまくっておいて何を、という話だが。
同学年の女子を敬遠しているところも見ると、どことなく人と深い関係になるのを避けている節がある、なんて深読みもできる。が、過去に何があったのかなんて訊けないし、どんな闇を抱えているのか、俺には想像もつかない。
だが岡森の言った理由は、なんとも拍子抜けなものだった。
「今描いている題材が、雨には似合わないのさ。気分が乗らない」
「贅沢な悩みだ」
と、俺の気持ちを代弁するかのように佐々木が言った。彼ら1年生テニス部員はコートの水たまりをスポンジで吸い出すという過酷な労働を義務付けられているからな。普段は温厚で感情をあまり出さないというのに、今は渋面を浮かべている。
岡森は気にしたふうもなく、軽い調子で呟いた。
「雨の匂いは、昔の記憶を呼び覚ますんだ」
「はは。シジンだな」
佐々木は笑ったが、俺にはできなかった。話が思わぬ方向へ逸れていくような予感がして、俺は慌てて尋ねた。
「で、どんな絵を、描いてるんだ?」
「美人画さ。パラソルを差す少女、みたいなイメージ」
モネの有名な絵画を意識しているのだろう。なるほど、確かに雨とは真逆の雰囲気だが、
「お前のモデルになってくれるような人なんて居るのか」
「失礼だね、カモちゃん。モデルを僕が描くんじゃない、僕が描いた人がモデルになるんだ」
ずいぶんな言いぐさである。というか、やっぱり居ないんじゃないか。
聞けば、先輩の一人を勝手にモデルにしているらしい。佐々木が呆れたように言った。
「お前、隠し撮りとかしてないだろうな」
「してないよ。先輩の姿を見ているだけで十分なのさ。
だけど最近は、球技大会のハチマキづくりに時間を取られているらしくて、部室に来てくれないんだ」
球技大会ではバスケ、サッカー、バレー、ドッチボールの4種目をクラス対抗で行う。その際、クラスのハチマキを作るのが昔からの恒例となっているのだ。ちなみにそのハチマキ、体育大会でも使いまわしされるらしい。
俺が在籍する1年10組も例外ではなく、数人の生徒が布の買い出しやら製作やらを行っていた。俺は関わるつもりなんて毛頭なかったのだが、ひょんなことからある出来事に巻き込まれてしまったのは記憶に新しい。
「そういえば『まち針紛失事件』、あの時もカモちゃんの推理は冴え渡っていたんだよね」
岡森が、まるで俺の思考を読んだかのように言った。偶然だろうが、少し気味が悪い。
なんだそれ、と佐々木が食いついてきた、その時。こちらに向かって近付いてくる、小柄な女の子に気が付いた。
俺たちは1年生の教室が並ぶ廊下まで来ていた。一番奥には我らが10組の教室がある。この女子は、その手前のクラスのいずれかから歩いてきたのだろう。
廊下の右側に寄って通路を空ける。そこで、俺は不意に小学校時代のことを思い出した。しきりに、廊下は右側を歩くように指導された覚えがある。今のもその名残かも知れないが、あの指導には意味があったのだろうか。
「そういえば、どうしてなんだろうね? 右側通行って」
思わず隣にいる岡森に顔を向けた。「お前、サトリの化け物か」
「何の話?」
岡森がやや困惑したように俺を見た時、
「あの」
声をかけられた。小さな声だ。見ると、先程の女子はまだ通り過ぎていなくて、俺たちの前で立ち止まっていた。
長い髪と黒縁の眼鏡が特徴的な女子生徒。どこかおどおどしたような、大人しい雰囲気を身にまとっている。
彼女は俺の目を見たまま、
「もしかして賀茂京介さんというのは……」
あれ、どうして俺の名前――あ、そうか。ジャージに縫い込まれた名前を見たのだ。
「お、依頼か? カモちゃん」
「あの、お名前は!?」
佐々木の言葉に割り込むようにして、岡森がその女子に詰め寄った。ちゃっかり手を握っていやがる。
「えと、あの」
女子生徒は困ったような微笑みを浮かべている。見かねたらしい佐々木は岡森の首根っこを掴んで、
「はいはい。邪魔するなよー、岡森」
引きずるように連れていった。岡森はというと、「有川さーん、またお話聞かせてねー」と未練たらしく言い残していた。全く、同学年には手を出さないんじゃないのかよ……。
彼女の赤色のスリッパには「有川」と掠れた字で書かれていたのだ。栄藍高校生はみな名前をこのように書いておく。岡森は目ざとく見つけていたらしい。
体操着姿のクラスメートや、他のクラスの生徒が通り過ぎる廊下で、俺と「有川」さんは二人だけ立ち止まっていた。あっという間のことで、流れについていけず戸惑ってしまう。さぞ彼女も驚いているだろうと、もう一度顔を見て。
ぞくっとした。
一瞬のうちに、彼女の雰囲気が変わっていた。なんだ、まるで別人みたいじゃないか。瞳からは、さっきの気弱な色は微塵も見てとれない。
彼女は嗜虐的な笑みを浮かべて、
「さて、私は何者でしょう」
挑発的な目で俺を見た。
「えっと、」
「ヒントその1。私は一人っ子」
少女は、依然としてニタニタと笑みを浮かべている。……あくまで、まともに自己紹介をするつもりはないということか。厄介な依頼人かもしれない。
心当たりは、ある。俺はちょっとした有名人となっているのだ。不本意ながら、「休み時間探偵」なんて二つ名を頂戴し、たびたび探偵の真似事のようなことをしてきたせいだ。先日の「まち針紛失事件」もしかり。
最近はクラス外の見知らぬ生徒からも依頼が来るようになった。だからこうやって、噂を聞きつけた生徒に話しかけられるのもそう珍しくは無いのだが、こういうケースは初めてだ。まるで、俺の力量を図ろうとしているような。
いや、予想はできたはずだ。有名になれば、変な輩も寄ってくるだろう。杉本の印象が強くて霞んでいたが、考えてみればこの学校おかしな人間ばかりだ。探偵部、なんてクラブもあるらしいし。
はあ。ため息が出る。
『私は何者でしょう』
フー・アム・アイ。よくあるなぞなぞの類だろう。面倒そうな人間に出会ってしまったものだが、この女子生徒、てこでも動かなさそうなしつこさを感じる。どこか杉本を彷彿とさせた。
……そういえば杉本も一人っ子だし、背丈や髪の長さといった外見の雰囲気も似ている。眼鏡をかけているところは大きく違うが。
そうなのだ。杉本は普段は眼鏡を外していた。もとから授業中だけ着けるつもりだったらしい。良かったのにな、眼鏡姿も。
いや、今は杉本のことはいい。まずは観察、それで無理そうなら適当にバトンタッチすればいいか。
「賀茂君って、いやらしいんだね。さっきから私の胸と脚ばっかり見て」
「な、そんなことありません」
人が結構いるのに、誤解を招くようなことは言わないで欲しい。俺は観察を行っていただけだ。
女子の制服の胸ポケットには、学年を表すバッチを付ける決まりになっている。1年生はF、2年生はJ、3年生はSの形をしたバッチだ。ちなみに、それぞれFresh man、Junior、Seniorの頭文字だと最近知った。
それを見れば学年が分かるというわけだが、残念ながら、目の前の女子はカーディガンを着ているためバッチは見えない。胸の膨らみに目を奪われただけだった。じゃなくて。
しかし、学年の判別方法はそれだけではない。さっき確認したように、一番分かりやすいのはスリッパを見ることだ。学年ごとに色が分けられていて、彼女は俺たちと同じ赤色。つまり、一年生ということか――いや。大きめのスリッパは、ややくすんでいた。
それにしても脚、綺麗だな。じゃなくて。
さっきの「ヒントその1」。これだけでも十分だろうが、もう少し特定に役立つ情報が欲しい。
「次のヒントをください」
「もうないよ」
じゃあ「その1」ってなんだったんだよ。
「泣きついたってダメだし、逆立ちしてもなにも変わらないわ」
いたずらっぽく彼女は付け加えた。お、今のは。けっこう優しいじゃないか。
ちゃんとヒントをくれた。
「――分かりました」
「え、ほんと? さっすが『名探偵』!」
脱力しそうになったがこらえて、俺は一息に答えを言った。
「僕に文化祭用の原稿を『依頼』しに来た3年生の文芸部員、ですね」
「うわー、すごい。よくそこまで分かったね」
先輩は控えめに手を叩いて、破顔した。良かった。正解だったようだ。
「理由を訊いてもいい?」
俺はほっと息をつき、唇を湿らせてから、口を開いた。
「まず、おかしいと思ったのはそのスリッパでした。大きめで、サイズが合っているように見えません。それに、入学して2カ月しか経っていない割に、汚れ過ぎているように思います」
スリッパに書かれた名前は掠れていた。まるで何年も使われたように。
「そこから考えられるのは、誰かからの譲りものということ。同時に、あなたが1年生であるという保証は無くなったわけです。
スリッパの出自について、一番あり得そうなのは兄や姉からのお下がりという線ですが、それは一人っ子という『ヒント』で消されています。だとするとそれ以外の上級生から。
赤色の代は僕たちと、それから今年の春に卒業した先輩方。後者から譲り受けられる立場にいたと考えると……当時2年生だった生徒の可能性が高いと思いました。つまり、あなたは現在3年生」
これだけでは弱いのだが、先輩はヒントをくれた。
「また、学年を表す略号のF、J、Sのうち、『逆立ちしても』つまりひっくり返しても変わらないのはS――つまり3年生だけです」
実を言うと、正直当たっている気がしなかった。本当は、たまたまスリッパを忘れて過去の先輩が残していった備品を借りている同級生かもしれないし、留年して2度目のフレッシュマンを味わっている1年生かもしれない。可能性なんていくらでもある。
だが、先輩の目的は俺を試すことのように思えてならなかった。もしかすると、正解にたどり着くこと自体は重要ではないのかもしれないとも。推理の過程を見せる方が、その黒縁お眼鏡にかなうと思った。
結果、彼女は満足してくれたようだ。もう一度パチパチと手を叩いて、
「なるほど、なるほど。文芸部っていうのは?」
「上級生が僕に用事があるとしたら、部活のことだと思ったんです」
「ご名答!」
そして、先輩は本題を切り出した。
「改めまして。文芸部部長の、ニトロです。
君には、今年の文化祭で発行する第90号の文集に寄稿してほしいんだ」
この人、部長だったのか。軽く驚いていると彼女は、さっきまでの嗜虐的な笑みとは打って変わって、見るものを魅了するような笑顔を浮かべた。
「よろしくね」
自分の席で着替えながら、先程のことをぼんやりと考えた。
すっかり汗も雨水も乾いてしまった体操着を脱ぎ、一度パンツだけになって、ウェットティッシュで身体を拭く。手を動かしながらも、頭の中では「ニトロ」先輩の言葉が甦っていた。
『昼休みに図書館まで来てほしい』
バックナンバーを見せてあげると、先輩は言った。昨年度の分は教室にも置いてあるが、それ以降のは図書館にまとめて保管されているという。最近よく通っている、この学校の図書館。
願ってもないことだが、彼女は結局本名を教えてくれなかった。「ニトロ」は彼女のペンネームらしい。部活内では仮名で呼び合うとか、そういう決まりがあるのだろうか。
なんとも不思議な先輩だった。それにどこかで見かけたような気もするが、はて。あの印象の代わり具合と良い、いまだ謎の多い人だ。
キーン、コーン……。
そうこうしているうちに、チャイムが鳴った。はっと我に返る。周りを見ると、もうみんな着替え終わっていた。なんと教卓には、すでに初老の数学教師までいるではないか。全く気付かなかった。
「男子ー! 入るぞー!」
ドアの外から女子の声がした。「カモちゃん!」と珍しく焦ったように岡森が叫んだかと思うと、ガラッとドアが開かれた。入ってきた春山と、見事に目が合う。呆気にとられたような表情をしていた。
そこで初めて、俺はまだパンツ一丁のままだったと気付く。
春山は赤くなった顔を背けると、小さく、だがしっかりと教室中に通る声で、吐き捨てるように言った。
「変態」
題名、そのままかい! っていう突っ込み、あるかと思います笑 ですが、活動報告にて色々ご意見を聞けて本当に勉強になりました。ありがとうございました。 m(_ _)m




