D or A 2
杉本の一言は、さすがに俺の予想の範囲を超えていた。
「タイムスリップって、お前……」
「そう、あれは絶対そうだったわ!」
またまた御冗談を……。
杉本は、見た目だけなら和風のお嬢様然としているのだが、言動がそのイメージをぶち壊しにしている。書道部、怪談研、その他多くの文科系クラブを掛け持ちしたり、そのうえ自ら「兼部の鬼」などと名乗ったり、とにかく行動的で破天荒なのだ。俺に二つ名なんてものを付けたのもこいつだし、俺に依頼が持ち込まれるきっかけになるのもたいてい杉本だった。
「まあまあ、落ち着こうぜ。ちゃんと話を聞かせてくれ」
仮にも探偵だから、なんてことを言うつもりは毛頭ないが、話くらいは聞かないでもない。だから浮ついた気持ちは、今は忘れることにしよう。杉本は、身を乗り出すようにして語りだした。
話によると――杉本は今朝、時間が一瞬で過ぎ去る経験をしたらしい。6時に目が覚めたと思ったら、あっという間に7時になっていたというのだ。約1時間の時間旅行。少し先の未来へのタイムトラベル。
「……いやそれ、ただの二度寝じゃないのか?」
「違うわよ、ちゃんと目は覚めていたわ」
いや、怪しいものだ。これまでの行いから見ても、杉本はかなりのうっかり屋だからなあ。
「だって時計を見てから、ちゃんとベッドから起き上がったんだよ」
「ふーん?」
「ほ、本当よ! 私にしては珍しくね!」
杉本は両手のこぶしを握り締めて、抗議するように言った。
「で、それから1分くらいしてもう一度見た時には、7時を回っていたってわけ。
ねえ、やっぱりタイムスリップじゃない!?」
杉本はさらに身を乗り出して顔を近づけてきた。その迫力に気おされそうになりながらも、努めて冷静に考えてみる。そうは言ってもなあ……。眼鏡で見た目が変わっても、中身はやはり杉本のままだな。普通そんな発想には至らんぞ。
だが、そこは杉本のこと。気のせいで済ませられるような相手ではない。彼女のとてつもない好奇心、闇雲な行動力に俺は振り回され、「休み時間探偵」などというありがたくもないあだ名を頂戴する羽目になったのは、記憶に新しい。
この溢れんばかりの熱量こそ、眼鏡をかけたくらいでは変わらないと言うべきだろう。
「分かった、もう少し詳しく聞こう」
キラキラと期待に目を輝かせる杉本を見やる。眼鏡のレンズ越しでも、やはりその切れ長の目から溢れ出す楽しげな光は衰えを見せない。その光にどうしようもなく惹かれたのも、また事実だった。
「……時計はA.M.6:00を表示していた、と。次に見るまでに1分と言ったが、何かきっかけはあったのか」
杉本は不可解そうな顔で首を傾げた。ああ、言葉足らずだったかもしれない。
「時計を見返すまでが、やけに短いと思ってな。気になったんだ」
「え? ああ、だから『きっかけは?』っていう質問なのね。えっと、ちょうどその時お母さんが私を起こしに来たの。
この際、詳しい状況を話すわ。私も整理したいし」
どうやら杉本は、本当にこの一件を気のせいで済ますなんて考えはないようだ。俺も、ほんの少し座る体勢を正した。
「今日は珍しく自然に目が覚めて、それで目覚まし時計を見たら6時過ぎだったから、今日はちょっとだけゆっくりできるなー、なんて考えたの。それで、ベッドから降りて柔軟体操を始めた。そしたら――」
「柔軟体操?」
杉本らしからぬ単語の登場に、思わず口をはさむ。
「そうよ。……そんなに意外そうな顔しなくてもいいじゃない」
「だって、お前そういうのからっきしだろう」
杉本は運動方面の才能は全く持ち合わせていない。根っからの文系少女だ。
「蛍に勧められたんだもん。特に寝起きにやると目も覚めて良いって」
ああ、春山に言われたのか。それならまだ納得できる。こいつが好んで体操をするとも思えないからな。
「まー、めちゃくちゃ痛かったからもう二度とやらないとは思ったけど、それはいいとして。
そしたら、すぐにお母さんが部屋のドアを開けた。あ、私の部屋は2階にあって、寝坊した時とかは起こしに来てくれるの」
朝が弱い娘を起こしに、階段を上がる母親の図……容易に想像が付くな。杉本は家がこの近くのくせに、いつも遅刻寸前のところで教室に駆け込んでくる。自宅が学校に近い故の甘えだ。ふ、訓練された遠距離通学民としては信じられないぜ。
「なんか今、小馬鹿にされた気がするんですけど……。
で、お母さんが『そろそろ下にいらっしゃい』って。それで私は、あれって思ったの。まだ6時なのに……。そしたら、『何言ってるの、もう7時よ』だって。驚いたわ。
お母さんが机のところまで行って目覚まし時計を確認して――私の部屋には、それしか時計がないから――私にも見せてくれたけど、本当に7時過ぎだった」
「その間、わずか1分ほどだったと」
「そうよ。ていうか、この私が時間を忘れるほど柔軟体操に夢中になるなんて、あり得るはずないじゃない」
なぜか得意げに胸を張る杉本だったが、別に偉くもないからな……。それでいて妙に説得力があるのだから、困ったものだ。
とにかく、これで二度寝説は消えた。だからといって、杉本が起きた時間が本当に6時だったとは考えにくい。母親が時間を間違えていたわけでもないらしいし。
「本当に、時計は6時を表示していたのか?」
俺の家の目覚まし時計もそうだが、薄暗い中だとデジタル表示が分かり辛い時があるのだ。視力には自信があると言っても、やはり寝起きだと目は霞む。
まして杉本は、眼鏡をかけ始めたことから分かるように、近眼だ。しかし杉本は首をひねって、
「うーん、間違えないと思うなぁ。だって明るかったし、7時と6時でしょ? あ、ぴったりじゃなくてちょっと6時を回っていたけど」
まあ、確かに……。「7」を「6」と見間違えたと考えるのは、少し難しいような気もするが。
「あ、そういえば」
「なんだ?」
杉本のつぶやきのような言葉に、俺は顔を上げた。
「今朝は鳴らなかったわ……うん、そっか……それもあってまだ6時だと思ったんだ」
「どういうことだ」
「えっとね、いつも目覚まし時計のアラームを7時に鳴るようセットしているの。だけど、今日は鳴らなかった……。解除されていたのよ」
「解除って、もう一度ボタンを押すとか、そういうことか?」
自分が使っているデジタル時計を頭に思い浮かべながら、俺は尋ねた。
「そう、時計の上にスイッチが付いていてね。パネルみたいなやつ。それが跳ね上がっているとアラームがONになっている状態で、押し下げるとOFFになる」
なるほど。まあ、よくあるものだろう。うちのとも大差はないはずだ。そして、アラームが鳴らなかったからまだ7時ではないと思ったのも納得できるが……。
「ただ単に、セットし忘れた可能性は?」
「毎日のことなんだから、忘れないわよ。
ていうかカモちゃん、さっきから私のこと見くびり過ぎじゃない?」
杉本はおもむろに、指で赤いフレームをクイと押し上げた。
「これでも一応長女なのよ!」
「長女がしっかり者とは限らんだろ。それにお前、一人っ子じゃなかったっけ」
「むうー……なによ、馬鹿にして!」
面倒くせえ。
「カモちゃんが『人の道に外れた行い』をしているのだって、私、知ってるんだからねー」
「な、なんだよそれ」
多くの教師からあまり良く思われていないとはいえ、さすがにそこまで言われるようなことをした覚えはないぞ。いや、もしかしたらアレのことかも……。
身構えていたら、杉本は拍子抜けするようなことを言った。
「今日だって、どうせ住宅街を通ってきたんでしょ?」
「え?」
「通学路を使わないなんて、悪い人ね」
「ああ、なんだよそのことか……」
最寄り駅から高校までの道のりには、2パターンある。国道沿いに進むルートと、俺がそうしたように住宅街を抜けるルート。こっちの方がかなりショートカットできるのだが、昔に騒いだ生徒がいて苦情が来たとかで、一応は前者が正式な通学路とされている。
まあ、そこまで厳しく指導されているわけではないが。元々うちの高校は真面目な生徒ばかりだからな。
杉本は再び眼鏡の位置を直しながら、俺に挑戦的な眼差しを向け、言い放った。
「通学路から外れる……つまり、通学路から外れた行為というわけね!」
「お後がよろしいようで」
今度は落研にでも入ったらしい。
「別にいいだろ。それに、俺は騒いだりなんかしないからな」
「カモちゃんの場合、一緒に登校する相手がいないだけじゃないの」
おい、言ってはいけないことってあるんだぞ。
「そんなことない。今日は春山が一緒だった」
「え、どうして?」
「途中でばったり会ったんだ」
今朝あいつが声をかけてきたのは、ちょうど二つのルートが合流する辺りだった。春山は国道沿いのルートを通ったから、そうなったんだろう。いかにも模範的なあいつらしい……。
あ、そうだ! 俺は春山を見た瞬間に感じた違和感があったことを思い出し、そしてその正体にも気が付いた。あそこで合流したということは、俺は春山と同じ電車に乗っていたことになる。だが、そのことに全く気付かなかった。それを疑問に思ったんだった。
視力だけが取り柄のような俺が、高身長でいかにも目立ちそうな春山を見落とすとは……これはいよいよ「病気」だな。
「へー。それで、蛍は今どこ?」
「学校に着くなり武道場へ行った。朝練らしいぞ。
いや、それはいいとしてだな――」
随分と話が逸れてしまった。
「アラームが鳴らなかった原因に、心当たりとかはないのか」
「うーん……ああ! 時計落としちゃったんだった!」
「いつ?」
「えっと、多分夜中に……。
喉が渇いたのかなあ、目が覚めちゃったの。早く寝なくちゃって思うんだけど、そういう時に限って自分の呼吸を意識しちゃったり、時計の音がやけに大きく聞こえたりするでしょ?」
まあ、確かにそうだが。それよかまた脱線しかけているぞ。
「それで、一旦下に降りて水でも飲もうって思って。私の部屋、寝る時は分厚い遮光カーテンを引いて真っ暗にするから、手探りでベッドから降りた時に時計に当たってしまったの。
床に落ちてけっこう大きな音がしたから、起こしてしまわないかってヒヤヒヤしたわ」
確かに、下の部屋に響きそうだ。だが、それでスイッチの謎は解けたんじゃないだろうか。杉本も言ってみて気が付いたのか、両手をぽんと打ち合わせた。
「落ちた時に――」
「スイッチが当たったのね!」
杉本は顔をほころばせた。
そう。床に落ちた時、ちょうど上面が下向きになってスイッチが押し込められ、OFFになったんだろう。それで7時になっても鳴らなかった。先日の話ではないが、ここでも「マーフィー」が仕事をしたということになる。
「あ、もしかすると落とした衝撃で壊れて、それで朝も調子がおかしくなった……なんてことはないかぁ」
そうだな、それは考えにくい。それで時計の表示が乱れたとしても、ちょうど杉本が見た時だけというのもおかしな話だ。
「ね、やっぱりタイムスリップだよー」
「まだ言ってんのか?」
とはいえ、このままでは埒が明かないのも確かだ。今回も、「あいつ」に頼るしかないのか。俺の中に棲む、探偵に。
実は、俺は「探偵」と呼ばれるにふさわしい推理力など持ち合わせていない。視力が取り柄なだけの、ただの高校生だ。そんな俺が杉本や春山、その他のクラスメートから持ち込まれる謎を解くことはできたのは、ひとえに探偵――俺のもう一つの人格のおかげだ。
こいつは、俺が自分にはどうしようもない謎に直面した時にだけ、意識の表層に現れる。この「交代」と呼んでいる現象が初めて起きたのは入学式の日のことだが、今はそのことはいいだろう。
自らを探偵と称したそいつは、俺の身体を借りてたちまち謎を解いてしまった。だが、周りから見れば他ならぬ「賀茂京介」自身が、10分しかない休み時間のうちに謎を解いてしまうようにしか見えない。これが「休み時間探偵」の由来だ。
奴と交代を起こす条件は2つ。一つは、自分ではどうしようもない謎に直面していること。もう一つは、ある言葉を呟くこと。今なら、すぐにあいつがこの謎も解いてしまうだろう。
その言葉を口に出そうとして、俺は何の気なしに前に向き直った。視界に入ったのは、掲示板。さっき俺が立てかけた文芸部誌……。
ん? あ、やってしまった。そうか、さっき適当に置いたから――。
その瞬間。俺の脳裏に、うっすらと閃いたことがあった。それが消えてしまわないよう、俺はほとんど無意識に何をすべきか判断し、叫んだ。
「杉本、眼鏡だ!」
「へ?」
「俺に眼鏡を貸してくれないか!」
杉本は呆気にとられたような顔で、すんなり眼鏡をはずした。俺はそれを受け取り、慣れない手つきで着ける。目がクラクラしたが、構わず前を見る。これでちょうどいい。
『68』
よし、思った通りだ!
「分かったぞ、杉本。タイムスリップの謎が!」
俺は快哉の声を上げて、杉本に顔を向けた。




