いつ見ても青信号 1
登場人物紹介 ~勉強編~
賀茂 京介
中学校では主席だったが、高校入学後すぐに行われた実力試験ではふるわず。
杉本 紗妃
少なくとも見た目は勉強できそうな感じ。
岡森 桜一
主席合格の秀才。当然先の実力試験でも1位。
春山 蛍
スポーツ少女と見せかけて、勉強も出来る。国語に至っては実力試験で学年3位になるほど。
こういうの、なんていうんだっけか。
俺は、目の前の問題用紙とにらめっこしながら考える。はあ、時差の計算なんてやってられるか。どうしてよりにもよって勉強しきれなかった箇所が出るかなあ……。
~の法則といったような気がするが、どうだったか。問題を解くことは完全に諦めてそんなことを考えているうちに、地理の試験は終わった。高校に入って初めての中間試験、その初日の科目はこれで最後だ。
1時間目の数学は自分でもよくできたと思うから、今日は1勝1敗だな。数字は得意なのに、時差の計算はできないとは……数字以外が混ざるとダメなのかもしれない。
ともかく、今日はもう終業だ。試験期間中は午前中の試験が終わったら解散なのだ。昼から何をしようかとぼんやり考えていると、声をかけられた。
「カモちゃん……」
ストレートに下ろした長い黒髪に、大和撫子という言葉が似合いそうな品のある整った顔立ち。普段は楽しげに輝く切れ長の目に、今日は陰りが見られた。
カモちゃん、などという俺にはとても似合わないあだ名を広めたその女子・杉本紗妃は、暗い顔のままこう言った。
「勉強会、やらない?」
聞けば、杉本の試験の手応えは散々だったらしい。そう言えば、杉本は数学が特に苦手だった。あまりの出来の悪さにショックを受けたのかもしれない。
「お困りのようだね、紗妃ちゃん」
俺たちの話が聞こえたのか、前に座る男が振り返って言った。その拍子に、首筋まで伸びた長髪がさらりと揺れる。絵画のように端正で、女に見えるほどの中性的な顔に笑みを浮かべているその男は、岡森桜一という。
「そうなのよ、桜くん! このままじゃ部活を辞めさせられるわ……お願い、2人にも付き合って欲しいの!」
杉本は多数の部活を掛け持ちしており、彼女が加入したことで廃部を免れた部活は数知れない。付いたあだ名は「兼部の鬼」。そりゃあ、勉強がおろそかになるわけだ。
ということで急遽、午後は教室に残って勉強会をすることになった。メンバーは俺と岡森と杉本、それともう1人同じクラスの春山蛍の4人。こうして集まって何かをするのは、ゴールデンウィークの遠足で同じ班になって以来かもしれなかった。
昼食は持ってきていなかったから、近くのスーパーで調達した。杉本が春山に、なぜか器用にもスクランブル・エッグを箸でつまんで「あーん」と食べさせようとしたの岡森が見て「僕たちもやろうか。はい、あーん」などとほざいたのでよっぽど張り倒してやろうかと思ったが、まあ、折角だから差し出された唐揚げは指でつまんでありがたく頂戴した。
「ああ! 僕の唐揚げがぁ!」
「ふん、食べ物で遊んだからバチが当たったんだ」
賑やかな昼食の後は、各々が問題を解いたり、互いに分からないところを教え合ったり、岡森が世界史の出題予想をしたりする――そんな穏やかな時間が過ぎていった。
ふと喉の渇きを覚えて時計を見ると、もう午後3時を過ぎていた。集中していたからか、時間の流れが早く感じる。
「ちょっと飲み物買ってくる」
そう宣言して俺は立ち上がった。伸びをして、財布を尻ポケットに突っ込んでいると「えっと、私アイスティーがいいわ」「僕は炭酸なら何でも」「私はアク○リアス」……背中に好き勝手な声を受けて、俺は思わず振り返る。
「お前らなあ……」
「ふふ、冗談よ。私も行くわ――」
笑いながら言った杉本の言葉を遮るように、突然岡森が立ち上がった。
「いや、いいよいいよ。僕とカモちゃんがいれば十分さ。2人の分も買ってくるよ」
「いいのか?」
春山が若干申し訳なさそうに尋ねてきたので、俺は問題ないと答える。「うんうん、任せて!」と首を縦にぶんぶん振る岡森。急にどうしたんだ、こいつ。
「さあ、早く行こう」
やけに不審な岡森の挙動をいぶかしみながらも、俺はもう一度女子2人の注文を聞いてから、岡森と2人で教室を出た。節電のために蛍光灯が消された廊下は、昼間とはいえほの暗い。どこかひんやりとした印象を受けた。
しばらく他愛もない話をした後、岡森がささやくように聞いてきた。
「で、カモちゃんはどっちがタイプなんだい?」
「……何の話だ」
だが俺は内心、これを聞くためだったのかと合点がいっていた。
「とぼけないでよ。紗妃ちゃんと蛍ちゃんの話さ」
俺は左を歩く岡森を睨み付けたが、奴は全く動じず、面白そうにしゃべり続けた。
「紗妃ちゃんは黒髪が似合う清楚系、見た目も言うこと無しの美人。剣道少女の蛍ちゃんは背が高くてかっこいいし、よく見るとかわいい顔立ちをしている。将来有望だね。
2人とも、密かに狙っている男子は多いだろうなあ。カモちゃんもうかうかしていたらダメだよ」
「そんな目で、見たことはない」
岡森のからかいを本気にしたわけではなかったが、俺の言葉は意外なほど固くなった。
「ほんとかなー。カモちゃんは推理力はあっても、女の子のちょっとしたサインには鈍そうだからね」
余計なお世話だ。俺は岡森を軽く睨みつける。
「そんな話をするために、2人きりになろうとしたのか?」
すると岡森は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。ん? 違ったのか。
「い、いや……まあ、そんなところさ」
こいつが虚を突かれたような様子を見せるのは、かなり珍しいことだった。……本当によく分からない奴だ。岡森は、どこか遠くに目をやるようにして、髪をすいていた。
「案外、青信号かもしれないよ……」
それは俺の方を見ずに呟くように発せられたので、俺も返事はしなかった。
だがその後少しの間生まれた沈黙のせいか、横断歩道の向こう側で彼女が手を振っているという、突如として脳裏に浮かんだ妙なイメージはなかなか消えてくれなかった。
1階に降りて一旦校舎を出ると、数メートル先に食堂がある。その正面に目的の自販機は設置されていた。
5月とは思えないムッとした熱気に気圧されるように、一瞬足が止まる。その頃には、またくだらない話を披露していた岡森も「暑いね」と顔を手で扇いだ。
食堂までの通路の向こう側から、2人組の男子生徒が歩いて来るのが見えた。ちょうどさっき自販機で買ったのか、それぞれ飲み物を手にして談笑している。
2人して綺麗な坊主頭だったから、岡森の言葉に耳を傾けながらも、つい目が行ってしまった。知らない人だったが、学年ごとに異なるスリッパの色からして3年生だということは分かった。片方の男子生徒は2メートルはありそうなくらい背が高かったから、すれ違う時も岡森の頭越しに顔がよく見えた。
そのあと自販機に辿り着いてから、俺はあろうことか誤ってホットの缶コーヒーを買ってしまった。しかも、百円玉と間違えて機械に通らない一円玉を何枚も入れる始末。
「どうしたんだい、カモちゃん。さっきはからかって悪かったよ」
まさかそんなに動揺するとは思わなかった、と言って岡森は肩をすくめたが、そうではない。俺はあることに心を奪われていたのだ。
聞かなかったのか、と言おうとして、俺はとっさに口をつぐんだ。岡森は俺に話しかけている最中だったし、聞こえなかった可能性が高い。わざわざ言うことでもないだろう。
「何でも無い。戻ろう」
岡森はいつものように薄い笑みを浮かべたが、黙って合わせてくれた。
教室に戻り、扉を開けたところ「わああ!」という怯えたような叫びと、ガタン! という椅子の音に迎えられた。声の方は春山だった。
「なんだ賀茂か! おどかすな!」
春山は怒りの表情を浮かべていたが、なぜか杉本に抱きついていたので迫力はあまり感じられなかった。
「どうしたんだい、二人とも」
岡森の質問には、杉本が答えた。春山をちらりと見て、なにやら意味ありげな笑みを浮かべた。
「『怪奇雨男』の話をしていたら、蛍が怖がっちゃって……」
「別に、怖がってなんかない! 賀茂が急に扉を開けるからビックリしただけだ!」
そんなに勢いよく開けた覚えはないが……。さすがに春山は抱き着くのをやめていたが、その右手はしっかりと杉本の制服の裾をつかんでいる。
「それはどういう話なんだい?」
「なんでもね、雨の日でも傘を差さずに登校してくる生徒の話らしいの。昇降口で、学生服からぽたぽたと水滴を垂らす姿を見た生徒は不幸に見舞われるという……」
杉本が春山に顔を近づけて芝居がかった口調で言った。
「紗妃、からかわないで!」
春山は泣く子も黙る剣道部1年エースだというのに、怪談話にめっぽう弱いという意外な一面を持っている。あんまり苛めてやるなと窘めようとしたら、杉本はすぐに、
「大丈夫よ、蛍。その人もう卒業したらしいから」
しっかり春山にフォローを入れていた。まあ、俺が心配するまでもなく、お互いちゃんと間合いは把握しているか。
俺は杉本にペットボトルを渡しながら、気になったことを聞いてみる。
「その人、実在していたのか? ていうかうちの生徒だったのか」
「あくまで噂だけどねー」
そう言って、冷えた紅茶飲料をコクコクと美味しそうに飲んだ。結露してできた水滴が、制服のスカートにぽたりと落ちる。慌てて視線をそらした。
春山も、岡森から受け取った例のスポーツドリンクをグビリと飲んでから憮然として、
「そんなの傘を忘れたってだけだろう。もしくは、ほら、よく言うだろ。傘を持ってない時に限って雨に降られる、みたいな……えっと……」
「『マーフィーの法則』だね」
左手で髪をいじりながら、岡森が助け船を出した。
「そう! それだ!」
岡森の言葉に表情を明るくした春山は、手をパンと叩いて話を続けた。
「つまり、その『怪奇雨男』の正体は、傘を持っていない日にたまたま雨に降られた、ただのツいてない男子ってだけだ!」
そう言ってしまえば身も蓋もないが、まあ、実際噂話なんて真相はそんなところだろう。俺は不意に頭に浮かんだ、似たようなフレーズを口にしてみる。
「いつ見ても青信号、とかな」
何気なく言っただけなのだが、杉本が聞き逃さなかった。
「それって、よく赤信号に捕まることの、青信号バージョン?」
「どうして青信号なんだ?」
春山も杉本に続く。2人の予想外の食いつきに俺は一瞬たじろいだ。そして、どうしてそんなことを口走ったのか、原因を思い出した。
「いや……さっき聞いたんだ。『いつ見ても青信号なんだ』って」
俺は先程すれ違った3年の先輩のことを説明した。
「ああ、そういえば居たね」
岡森が手を打つ。あの時、2人組の片方――背の高い方――がそう言ったのだ。岡森が聞いていたかは分からないが、俺はその言葉にしばらく心を奪われた。間違ってホットコーヒーのボタンを押してしまうくらいには。
「桜くんは覚えていないの?」
杉本が言ったので、俺は少々居心地の悪さを覚える。
「女の子なら忘れなかっただろうけどね」
だが、岡森はいつもと同じ軽い調子で答えた。顔も頭も良い岡森は、よくモテる。ついでに奴の女癖の悪さは、早くも有名になりつつあった。いつかえらい目に遭いそうだ。
「だけど、それだけならたいした話じゃないんじゃない? 青信号ってのは気になるけど、急いでいる時に限って赤信号に捕まるなんてことは、よくあることじゃないか」
岡森が言う。だが、問題はそう単純ではないのだ。俺だって、その言葉だけを聞けばあんなにも気に留めることはなかっただろう。
「岡森。先輩が言った言葉はそれだけじゃなかった。続けて、こう言ったんだ。
――『だから、待つ羽目になる』」
俺の言葉に、杉本が考え込むように俯いた。
「いつ見ても青信号、だから待つ羽目になる……確かに、これは奇妙な発言よね」
「青信号によく遭遇するのはあり得るとして、だから待たなきゃならないってのは、謎だね。逆なら分かるけど」
「そうだ、普通は赤信号の時に待つものだろう」
3人が次々と言ったので、俺は少し面食らった。そこまで考えるほどのことか――そう思ったが、さっきの俺がまさにそうだったではないかと思い直す。
「ねえ、この前貸してくれた本がこんな話じゃなかったかい。ほら、ある1つの文章から推理していく話だよ」
「ああ、そういえばそうだな」
どこか楽しげな岡森の問いに、俺は頷く。
「カモちゃん……ちょっと考えてみましょうよ」
杉本が身を乗り出して提案した。その瞳は、いつものように楽しげに輝いていた。岡森も春山も、乗り気らしい。
……まったく。みんなそろそろ勉強に飽きて、休憩したかったってだけなのだ。まあ、それは俺も同じだったが。
それに、今回のはいつもの「依頼」とは違う。まさか、原本通りに犯罪が関わっているわけでもないだろうしな。あいつの世話になることもあるまい。
「決まりだね。じゃあ、まずはカモちゃんの話を聞こうじゃないか」
発言をちゃんと聞いていたのは俺だけ。妥当な提案と言えた。俺は、舌で軽く唇を湿らせた。
「まず――発言した3年の先輩は、うんざりしていたわけでも、いらだっていたわけでもない」
「まあ、そんな感じはなかったね。カモちゃんも『談笑』って表現したし」
岡森が俺の言葉に首肯する。
「何が言いたいんだ?」
それに対し、春山は怪訝な顔をした。まあそう急かすな。
「つまり、発言した本人も偶然だって思っていたんだよ。いつでも、っていうのは少し大げさな表現に過ぎないんだ」
「確かに、本当に『いつでも』という意味ではないでしょうね」
杉本がうんうんと頷いたのを見てから、俺は話を続ける。
「その上で、この発言には2つの謎がある。1つは、いつ見ても青信号だということ。……本当は、青信号の時が多いという意味かもな。単なる偶然という可能性もある。
もう1つは、青信号にも関わらず待つ羽目になる、というところだ。『だから』というのは順接だから、この解釈に異論はないな?」
言葉を切って、3人を見回す。もちろん、俺が発言を一字一句再現していることを証明する手段はないが、そんな厳格さは誰も求めていない。
この「推理」の趣向は、真実を見つけるというよりは、色々と想像して退屈を紛らわせることだからだ。そういう暗黙の了解ができていた。いわば、一種の思考ゲームだ。
だから例えば、「探偵」でなくとも別に構わない。
「じゃあ、1つ目から考えよう。まずは状況の確認からだな。先輩の言った『青信号』は、どんなものだったのか」
「どこにある信号か、ってこと?」
杉本の言葉に、俺は首を振る。
「それが分かれば凄いけどな。見ず知らずの人間の会話の断片から推測するには無理があるだろう。まあ、N県のどこかだ」
「少し思ったんだが……」
春山が腕を組みながら口を開いた。
「その『信号』が、ある1つの信号とは限らないだろう。『急いでいる時に限って赤信号』って言う時は、複数の信号を想定しているのと同じで」
「ああ、僕もそれは思ったけどね、多分違うよ」
岡森がやんわりと否定した。
「先輩は『いつ見ても』って言ったみたいだからね。特定の信号の可能性が高いと思うよ。
それよりも、僕が思ったのは――」
と、何やらいたずら好きな子供のような顔で、岡森は言葉を続けた。
「その信号は、車両用だったのかもしれないよ。つまり、先輩は乗車中だった」
俺は、その言葉に軽い衝撃を受けた。いや、まさか……。それはないだろう。確かに車の免許は18から取れるし、今は5月だ。3年生ならその年齢に達していてもおかしくはないのか。
いや、教習所に行く時間を考えると、4月生まれだとしてもこんな早い時期に取れるか? となると……俺の頭に「無免許運転」という単語が浮かぶ。急に事件性を帯びてきた。
考え込んでしまった俺に対して、岡森は笑いを堪えながら言った。
「カモちゃん、その先輩は3年生だろ? じゃあとっくに16歳は超えているさ」
岡森の言いたいことが分かって、俺はまんまとやられた事に気が付いた。
「原付も、法律上は『車両』さ。免許は16になればとれる。僕たちと同じ1年生の中にも、条件を満たしている生徒はいるだろうね」
「からかうな」
言うと、岡森は素直に「ごめんごめん」と手刀を切った。こいつのこういう態度には呆れてしまうが、今のやり取りで思い出せたことがあった。
「いや、岡森。やっぱりバイク説は無い。今思い出した」
俺は、記憶の断片をゆっくりと言葉にした。
「ランニングに行く途中、のことだったんだ」
「ランニング?」
「ああ。後出しじゃんけんみたいになって悪いが……例の先輩が、
『最近、ランニング中におかしなことがある』
みたいなことを言って、それに対してもう一人が
『近所の公園まで走りに行くやつだっけ』
……みたいな相槌を打った。その後だ、例の発言が飛び出したのは」
我ながら要領を得ない話だと思ったが、仕方がない。すれ違ったのは一瞬だったしな。
「じゃあ、車説も無いね。残念だよ」
全く残念じゃなさそうに岡森は言った。この様子だと、本気で言った訳ではないらしい。
「ランニング……」
杉本がうつむいてなにやら考えていたが、その横で春山が、
「なあ。今の話で思ったんだけど」
明るい顔で言った。なにか良案でも思い浮かんだらしい。
「その先輩はランニング中……つまりは広い意味で歩行者だったけど、車用の信号が目に入ったんだ。この考えだと、2つ目の謎は解けそうじゃないか?」
ああ、なるほど。確かに、車両用信号が青なら、歩行者用信号は赤。待つことになる。
「だけど、歩いていたら普通は歩行者用信号に注目しない?」
杉本が首を傾げた。それももっともな意見だ。だが、歩いていても車両用信号に注目せざるを得ない状況というのは、確かにあり得るのだ。春山が気付いたのはそのことだろう。
「じゃあ、紗妃。もしもその信号が無かったら――?」
「え?」
「太い道路に脇道がつながっているような場所だと、歩行者用信号が無くて、車用の信号しか無い場合だってあるんじゃないか?」
「ああ、確かにそうね……」
とは言ったものの、杉本はどこか納得のいかない様子だった。
「じゃあ、第一の謎はどうなるの?」
「それは……例えば、毎日同じ時間にその場所を通れば、青信号――車用だけど――に出くわすことも多くなるんじゃないか? それか、やっぱり単なる偶然だろう。
そもそも手掛かりが少なすぎたんだ。賀茂が聞いた一言からじゃあ、これくらいが限界じゃないか」
「何か、他に覚えていることはないかい? カモちゃん」
岡森が言ったが、俺は静かに首を振った。覚えていることは全て話したつもりだ。もう他に思い出せそうな事実もない。
「ということは、やっぱり蛍ちゃんの案が一番現実的に思えるね。
目的地の公園までの道中に、小さな交差点でもあったんだ。そして、多分先輩は毎日同じ時間に家を出ていた。それがたまたま、信号に引っかかるタイミングだったのさ」
まあ、こんなものじゃないの――こちらを向いた岡森の目がそう言っていた。俺も、これ以上は推理しようもないと思う。思考ゲームも終わりだ。休憩としては、丁度良かったんじゃないか。
また勉強に戻ろうという空気が流れ出したその時、一人うつむいていた杉本がハッとしたように顔を上げて、
「ねえ……その先輩って、どんな人だった?」
尋ねてきた。心なしか、顔が上気している。
「ええと、かなり背が高かった。春山よりも頭一つは高かったな。それと、見事な坊主頭で――」
「カモちゃん!」
杉本が、ずいと上体を寄せてきた。顔が近付く。切れ長の目は大きく見開かれており、俺はヘビににらまれた蛙のように動けなくなった。
「な、なんだ」
「その人、もしかして」
杉本は素早くスマホを操作して、画面を俺の眼前に突きつけてきた。
「この人じゃなかった?」
画面に映し出されていたのは、どうやらプリクラだった。若い男女。少し加工されていて分かりづらかったが、どこかぎこちなげに笑う坊主頭の男は、確かに先ほどの先輩だった。
「見ていいか?」
春山もそのプリクラの画像を見た。
「この人、志野原先輩じゃないか!」
「知っている人か?」
「ああ、柔道部3年の先輩だ。志野原紅星先輩。剣道場と柔道場は建物が同じだからな。よく見かけるんだ。
確かに、賀茂の話に出てきた先輩の特徴と一致する」
しきりに春山が頷いている。……どうも、おかしなことになってきた。
「それにしても、よくその先輩だって分かったね、紗妃ちゃん。どうしてだい?」
「それがね、桜くん。この謎について考えている間、どこかで聞いた話だと思っていたのよ。それが、志野原先輩の話だったってわけ」
「ということは……」
俺のつぶやきに対し、杉本は人差し指を立てて、とても楽しげに言った。
「まだ、終わりじゃないわ」
見る者を魅了するであろうその笑顔を、俺はぼんやりと眺めていた。さっき俺が夢想した横断歩道の彼女もこんな笑顔をしていた、などと考えながら。
まったく。おかしなことになってきた。




