Sの悲劇 1
登場人物紹介
賀茂京介
栄藍高校の一年生。
杉本紗妃
賀茂のクラスメート。
俺は高校へ続く坂道を上っている。額の汗をぬぐうと、学ランの袖についたボタンがぶつかり合って軽い音を立てた。
週の始まりに似つかわしい、すがすがしい朝だ。週の始まりと言っても、月曜日や、まして日曜日ではない。今日は火曜日だ。
今年は前半と後半に分断されたゴールデンウィークが明けて、最初の登校日。入学して一月が経ったが、未だにこの通学路はきつい。
この春から通うことになった栄藍高校は、自宅から電車で一時間弱の距離にあり、さらに最寄りの駅から二十分ほど歩かなければならない。
おまけに校舎が高台にあって、最後は急な坂道を上らなければならない。これがきついのだが、今の気分はさほど悪くなかった。
午前七時半と、まだ朝は早く、生徒の姿は見えない。この誰もいない静かな坂を上るのが、ささやかな楽しみだったりするのだ。
ターーー、タラッタターターター……。
頭の中では吹奏楽の有名なマーチが流れ、俺はそのリズムに合わせて歩いた。五月の風が、気持ちいいぜ。
坂の最後で、これでもかというほど急な階段を上り終えると、到着だ。グラウンドを横目に昇降口に向かう。グラウンドの奥の方では、野球部員がストレッチを始めていた。
昇降口で、自分のクラスのスペースの前にローファーが落ちているのを見つけた。それも片方だけ。
俺は女子の靴箱を眺める。靴箱と言っても板で仕切られているだけで蓋などはついていない。もう片方はすぐに見つかった。俺はローファーを拾うと、そこに入れておいた。
靴を履きかえ、一息つく。学校指定のスリッパは、硬さを残しつつも徐々に足になじんできていた。俺は息を整えながら、昇降口前の掲示板に貼ってある校内新聞を見た。
「栄高タイムズ」というシンプルな名前の新聞で、数日後に行われる総務委員の立会演説会について書かれていた。
総務委員会とは、いわゆる生徒会のことだ。この学校では、生徒全員が「生徒会」という組織に属していることになっていて、その代表機関が「総務委員会」というわけだ。
新聞には去年の立会演説会の写真が載せてあった。演台に立つ女子生徒と、その横には落語などで立てられる名前の書かれためくりがある。「S7 爾田希美」と筆文字で書かれていた。
この「爾」という、初見では絶対に読めないし書けないであろう字を冠する人を、今の栄藍高校生のほとんどは知っているだろう。彼女は生徒会長、もとい総務委員長だ。
「S7」とは三年七組の略称だが、そういえば、Sって何の略だろう。「San-nen-sei」の「S」? それだと、一年生は「I」だが、実際は「F」だ。今俺が着ている学ランにも、Fの形をした学年章が付けられているし。
……と、学ランは脱いでしまおう。駅に着いたときは肌寒いくらいだったが、今は暑くて仕方がない。俺は学ランを手に持つと、教室の鍵を取りに職員室へ向かった。
火曜日の一時限目は、数学の時間だ。授業というものは総じて眠たいが、数学だけは違う。
今、黒板の前でぼそぼそと話す教師はどれほど退屈であっても、数式と戯れるのは楽しい。どうして人気がないのか、不思議だ。こんなに面白いのに。
そう、数学はほとんどの生徒にとってはつまらないものか、試験で自分を苦しめる存在以外のなにものでもないらしい。特に、女子生徒にその傾向が強かった。
現に、隣の席でも一人の女子が眠気と必死に戦っていた。
彼女の名前は杉本紗妃。先月のある一件以来、時々話すようになった。杉本は、お嬢様のような整ったおとなしい見た目とは裏腹に、とてもアクティブなやつで、ほとんどの文化系クラブに所属しているとか。
つけられた異名は「兼部の鬼」。虫も殺さぬ大和撫子みたいな外見のくせに「鬼」と呼ばれているところに、こいつの奇天烈さがにじみ出ている。
二つ名なんて、平凡な高校生とってはあるだけでも恥ずかしいっていうのに、杉本は自分に付けられたそれを気に入っている。とんだ強心臓だ。いつか絶対後悔するぞ。真っ黒な記憶となって、精神を痛めつけることだろうさ。
と、俺は自分のことは棚に上げて考えてみる。実は、誠に残念ながら、俺にも二つ名があるのだ。発案者は杉本で、もうクラス内には広まってしまった。間違っても、学年中に知れ渡るなどということはないよう願いたい。
ああ、嫌なことを考えてしまった。集中しろ。授業中だ。
舟をこぐ杉本から視線を外し、俺は先生の聞き取りにくい声に耳を傾ける。今日のテーマは因数分解。すげえ、たすきがけを使わなくてもいい方法があるのか。なんて奥が深いんだ、因数分解……。
「あっ!」
しばらくして、隣でいきなり声が聞こえた。せっかく集中しかけたのに、また俺は視線を戻すことになった。声を上げたのは杉本だった。
寝ぼけているのか、目はうつろだ。なんだ、変な夢でも見ていたのか。声はさほど大きくなかったので、先生には聞こえなかったらしい。つつがなく授業は進行する。
すると杉本は、鬼気迫る様子でノートに何か書き始めた。ささっとシャーペンを短く走らせた後、力尽きたみたいに机に突っ伏した。そして、死んだように動かなくなった。
その様子はまるで、犯人に致命傷を負わされた被害者が、最期の力を振り絞ってダイイングメッセージを書き遺すかのごとくだった。
ダイイングメッセージを扱った有名なミステリー小説を思い出して、指で×印をつくっていないだろうなと色々観察してみたが、特におかしなところはなかった。
寝息がしないので本当に死んだんじゃないかと疑い始めた頃、肩が小さく上下するのに気付いて、俺は黒板の方に目線を戻した。
なんだったんだ、いったい、と思いながらも、俺は再び授業に集中する。杉本がちょっとばかり奇行をしようが、数学の魅力の前では些細なことだ。すぐに忘れてしまうはずだった。
しかし、このことで俺は頭を悩ませるはめになる。死んではいなかったが、杉本は本当にメッセージを残していたのだ。
それは授業が終わってすぐ、板書を眺めて余韻に浸っている時だった。隣に誰かが立つ気配がしたのでそちらを向くと、杉本がいた。杉本は深刻そうな表情でこう言った。
「ねえ、カモちゃん。これ見て欲しいんだけど」
俺は顔をしかめた。カモちゃんはやめろと言っているだろう。名字の「賀茂」をもじって「カモちゃん」。あまりこのあだ名は好きになれない。
もとは幼なじみ……と言っていいかは分からないが、そいつがつけたあだ名だ。まだ四歳くらいの時だった。
普通、姓じゃなくて名前をもじるだろうに。誰にも言ったことはないが、どうせなら「キョウちゃん」と呼ばれたかった。
その幼なじみとは中学のあいだにすっかり疎遠になって、高校で会うことも無いので、もはや俺を「カモちゃん」と呼ぶ人間は現れないはずだった。
ところが先月、高校で初めて知り合った杉本はいきなり俺をこのあだ名で呼んだ。それには思わぬ理由があったのだが……それはいいとして。
杉本があまりにも「カモちゃん」呼びを推すものだから、このあだ名はクラスに定着してしまった。まあ、もう一つの呼称に比べたら可愛いものだが。
「さっきの授業、ちょっと寝ちゃってね。で、起きたら変なことが書いてあったのよ。ここ。日付だと思うんだけど……」
杉本は、手に持っていたノートを開いて、ある箇所を指さして見せた。全体的に字が乱れまくっていて気になったが、今は指先に注目する。
そこには、汚い字で日付が走り書きされていた。変なところで線がつながっていたり、グニャグニャ曲がっていたりで読みづらいが、確かに「5/12(土)」と読めた。(図参照)
「授業中、なにか大事な用事があるって思い出して、慌ててメモしたんだけど、寝たらまた忘れちゃった」
「寝たら忘れちゃったって……お前、本当に大丈夫か?」
「ぐっじょーぶ、ちょっと眠いだけだから」
そう言って親指を立てる。大丈夫と言いたかったのだろうが、全然大丈夫じゃないだろ。
だが、さっき声を上げていた理由が分かった。思わず声を上げてしまうほどの用事を思い出し、慌てて日付だけ書き残したが、力尽きた。そんなところだろうか。
「で、改めて見たら、なんのこっちゃって感じで……。この日が何の日だったか、一緒に考えて欲しいのよ。探偵さん」
「おい、『探偵』は勘弁して……」
俺は抗議の言葉を言い切ることができなかった。杉本が、真剣な目で俺を見つめていたからだ。整った顔立ちに、俺は思わずたじろぐ。
緊張の一瞬――は、しかし、すぐに終わりを告げた。杉本が気の抜けた大あくびを披露したからだ。
表情には現れていないが、まだ眠かったらしい。