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「羽七ちゃん、ただいま」
人の声がした。誰のものかはすぐわかったし、この家に出入りする人間なんてヒロくんぐらいしかいない。私はソファーの上で寝てしまっていた。今日もサークルどころか授業までサボってしまった。というより眠くて眠くて体が動かなかった。
「あ、おかえりヒロくん」
カーテンも閉めないまま寝てしまったので、真っ暗な窓ガラスの向こうを見てぎょっとするが、さらに時計をちらりと見てますます落胆する。私の知らぬ間に今日は終わろうとしていた。
「…!ごめん、寝ちゃってた!夕飯の支度とか何にも…なんかあったかなあ?」
ぼけている頭をかばうようにしながら冷蔵庫の中身を確かめに行こうとソファーから立ち上がる私の腕を、ヒロくんがすっと掴んだ。
「いいよ。羽七ちゃん、疲れてるでしょ?お腹すいた?僕が何か作るよ」
「う、ううん、私は別に…」
「そっか。じゃあ、僕もいいや」
ヒロくんは柔らかく笑い私の目をじっと見る。すごく優しい目をしていた。そらせない、というより見つめていたくなる。そして再びソファーに腰を下ろした私に目線を合わせて、両手で私の指を優しく包んで、こう言うのだった。
「羽七ちゃんがいてくれたら、それで良い」
嬉しくて、幸せで愛しくて、思わず笑みがこぼれそうになった瞬間、ヒロくんは私の顎に手を添えて、唇を優しく重ねてきた。徐々に激しくなっていく鼓動、高くなる体温の中、気づけば私は彼の舌や粘膜や歯の感触に夢見心地になっていた。しばらくして顔を離されたとき、前のめりになっていた私は、ソファーからずり落ちて床にへたりこんでしまった。
「ふぁっ、はぁっ…はぁ…」
「羽七ちゃん…」
ヒロくんも息を荒くしていた。私の口からはヒロくんと自分の唾液が混じった液体が垂れていたが、それを気にすることもなく、流れるように私の肩の上に頭をうずめる。
「好き、大好き。愛してる」
「ヒロくん…」
こんな時間がずっと続けばいいと思った。誰にも傷つけられずに、この甘い空気の中でいつまでも抱き合っていたい。そう願った。
「羽七ちゃん、ベッド行こ?」
しかしそんなことが実際叶うはずもなく、私はハッと目が覚める。さあ始まる。
今度こそ断らなくては。
「だ、だめ!明日は行かなきゃならないんだから!また傷増えたら…」
「見えない所なら良いでしょ?」
「あのねヒロくん、そういう問題じゃないよ」
私はグイとヒロくんを押しやる。少し怖かったけど、これぐらいはしなきゃと勇気を出した。さっきの情熱が消え、ほとんど無表情に近いが強い疑問を孕んだ眼差しを向けてくる彼の様子を見て、さらに続けて言った。
「痛いんだよ?縛られるのも切られるのも、首締められるのも全部全部痛いの!…ヒロくんは楽しくても、私は痛いの!」
「…楽しい?」
その一言にヒロくんが反応する。別人格が降りてくるみたいに私を蔑むような目で見つめている。言いすぎた?いや、でも言わないと何も始まらないし、言い方が悪かったのかな…と、この瞬間にいろいろ考えたが既に遅かった。
「本当にそう思ってるの?僕がどれだけ苦しいか知りもしないで。羽七ちゃんは、僕の事なんにもわかってないんだね」
立ち上がって見下してくるヒロくんと、怖気付いて床から立ち上がれないままの私。私を眺める視線は冷たく、口元は心底うんざりだというように歪み、今までみたこともない程に光の失せた表情をしていた。こんなにヒロくんを怒らせたのは初めてかもしれない、だって今日初めて拒んだのだから。ちゃんと自分の意思を伝えれば、少しはヒロくんも理解してくれるかもと思っていたのに、それどころかますます狂気を感じる。怖い。私を見下ろす、目の前の悪魔が、怖い。
「ひ…ヒロくん?」
「羽七ちゃん」
びっくりするぐらいさっきよりもずっと強い口調で、彼は言うのだった。
「ベッド行こ?」
何も言えない。もう逆らえない。どうしたらいいのかわからない。何を言っても何も言わなくても、これからされることはきっと同じ。
「行くよ」
書いてて楽しいとこでした