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3-2

「こんにちわー」

「あら、みゆきちゃん。いらっしゃい」

 自動ドアから直進し、半円のカウンターに座っている顔見知りの受付嬢にあいさつする。

 駅から歩いて数分。オフィス街なのでビル自体はめずらしくないが、その中でも威風があるたたずまい。そこへ制服を着た女子中学生が何の迷いもなく入っていった。


 ここは株式会社「久遠」の総本部。

 久遠はゲーム会社として立ち上がった。それから一年後、マニア受けしたゲームを数本制作し、軌道に乗りかけた矢先、社長である菅総一郎があるプロジェクトを企画する。リスクが大きい上、成果に疑問視をもたれながらも強引に押し進め、自社のみならず様々な方面も巻き込み形になったのは二年後。当初の予定をはるかに上回る性能を有した大発明に日本はおろか世界は沸いた。

 今まで注目もされなかった一企業が一躍IT技術の頂点に躍り出た。

 それから一年後に一部上場を記念して作られた新社屋に、毎日IT目当てに各企業の社員――それも重役クラス――が訪れるほどに成長し、今やコンピューター総合会社になった会社だが設立当初の目的を捨てたわけではない。その発明品を使ったゲームを開発、販売してから国内限定ではあるが大ヒットをとばしている。

 その関係で女子中学生が入っていったのだろうと目撃した人間は思っているのだろう。新たな発想に若い人材を求めてもおかしくない、それどころか積極的にしそうだ。若すぎる気もしないではないが、今日本で最も旬な会社の会長は変わり者で有名だ。むしろ自然に感じられた。


「あら、学校帰りに直行?」

「うん、帰るとメンドーになるから」


 紺色で統一された制服は少女によく似合っている。若さのなせるワザと言えるかもしれない。ただ学校指定のカバンとは一緒に持っている大きな紙袋が妙にアンバランスだった。


「パパいる?」

「あ、今日はそっち? ちょっと待ってね」

 そう言って受付嬢は――みゆき側から見えない角度にある――手元のノート型パソコンを操作する。

「うん、そう。昨日帰ってこないと思ったら今日も泊まりだって言うのよ。しかたないから着替えを持ってきた」

 紙袋を持ち上げ肩をすくめる。


「それ学校に持っていったの?」

「まさか! こんなの持って、しかも男物の着替え持って学校、行けないわよ。朝、駅のコインロッカーに預けたよ」

「……それもそうね」


 クスッと笑う。それはおどけていったみゆきがおかしかったのか、思春期の少女らしい考えが懐かしかったのかは判断しづらいところだが。

 そうこうしているうちにパソコンのディスプレーに表示が出る。この会社では受付でパソコンを操作すると社員の今現在の予定が映し出されるようになっている。


「えっと今、副社長は会議中ね」

「あらら、せっかくかわいい娘が来たっていうのに。……いつ頃終わるかわかる?」

「うーん、ちょっとわかんない。副社長、次の予定は夜まで入ってないから内容次第かな。……預かろうか?」

「いいよ、せっかく来たんだからもう一人にあってくよ」

「……いや、それが」


 軽く言ったつもりだったのだが受付嬢の顔色を見て何となく悟る。


「そう言えば今日は田中さん一人で受付に座ってるってコトは……そういうこと?」

「そうなのよー、……みゆきちゃん、会長どこ行ったか知らない? 今、秘書課の手の空いてる人と大橋さんで探し回ってるのよ」

 本来は受付は二人で座るようになっている。だがコトがコトだけに大橋と呼ばれるもう一人の受付嬢もかり出されているのだ。

「知らないよ~」


 気の毒にと思いつつ、首を横に振る。


「おじさま……携帯、不携帯のクセ何とかして欲しいよねぇ~。こんなコトなら今日顔見せるってメールしとけば良かったね」

「ホント、困ったモンよ。仮にも会社のトップがフラフラしてるって」

「っていうか、フラフラしててもあんまし文句言われないために会社つくったんじゃないのかな?」


 頬に指を添え首を捻る。あんな社員がいたらすぐクビになるのではと思う。


「……でもイイじゃん。むしろいない方がスムーズに決まるんでしょ。伯父さまもそのくらいの覚悟はあるっしょっ」

「下っ端の社員が返答に困ること言わないでよ」


 と苦笑する。同僚との酒の席でのとかでの笑い話ならいくらでも言えるが、仮にもここは会社の受付だ。いくら人がいなくても最低限、言葉は選ばなくてはならない。


「でもねー、いつもならそれでいいかもしれないけど……今日は月に一度の役員会なのよ」

「ああ、それで」


 みゆきは我得たりといった感じで頷く。みんなが慌てて伯父を捜す訳も父が今日も帰ってこない理由もわかった。

 一応、役員内での重要な話から始まる。先月までの運営、実績から今後の展望を話し合う。もっとも夜が更けるにつけ会長の思いつきに近い企画に一同は頭を悩ます。イロイロと問題があるので無視するという選択肢もある。しかし微妙にできそうなうえ、利益がでそうな企画もあるからだ。

 ハタ迷惑なトップなのだが彼がいまだにこの会社を支えている。――それは社員の共通認識である。


「パパも大変だぁ~、それで連日の泊まり仕事なのね。……でもおじさまもほっときゃ見つかるっしょっ。役員会って結構好きらしいし。慌てなくてもいいんじゃないかな?」

「う~ん、それはそうなんだけどね。服装が問題らしいのよ」

「服装?」

「そう。役員のみんながスーツ着てるのに一人だけ、それも一番エライ人がアロハシャツとか、着流しとかきてたら会議っぽくないでしょ」

「……なるほど。そりゃぁ~大変だぁ」


 そんな伯父の姿は容易に、非常によく想像できる。そして振り回されている父親を含めた重役の姿も。


「それで今日はアッチに人がいないのね」


 ふいに思い出したように左側を見る。ここ中央ロビーは二階まで吹き抜けになっている。受付から見て右側には階段やエスカレーターがある。その逆の左側には待合室が設置されている。

 一言で待合室というがちょっとした喫茶店の様な造りになっている。一人用のカウンターから二人が向かい合うタイプのテーブル、また四、五人用のテーブルと約四〇脚のイス。ドリンクフリーのようでカップをおいてボタンを押せば自動的に注がれるタイプの給湯器が二台ある。一つはコーヒーが出るタイプ、もう一つはお湯がでるタイプ。その脇にはエコロジーを考えてか陶器製のコーヒーカップと湯飲み、また紅茶と日本茶がつめられたティパックが置かれている。勿論カップの返却場所もある。

 ここに訪れ、時間を待つ者はセルフで飲みたいものを注ぎ、好きな場所で飲み、片づけるようになっている。

 奥の壁二面に設置された巨大な液晶ディスプレーには今の季節にふさわしく一面桜が映し出されている。山いっぱいの色鮮やかな山桜は息を飲むほど美しく咲き乱れている。毎年恒例のこの桜の映像は非常に評判が良い。

 初めてここに訪れたものはドリンクフリーの喫茶店のような待合室の驚き、そこに設置されたディスプレーに目を見張る。金の無駄遣いという声もあるが待合の時間を利用して技術力をアピールするにはなかなか効果的であった。ちなみにディスプレーは季節によって、いやむしろイベントごとにかわる。


「まぁ、規則だからね。ヒマでいいけど」


 今は4時を少し過ぎた時間。定時6時のこの会社では通常ならまだ面会待ちの人間が利用しているはずだが誰もいない。役員会議ではあるが各セクションの責任者も参加する場合もあるし、また一応機密の問題もある。この日だけは午前中までに面会は済ますようにという決まりになっている。


「……じゃあ、あたしあそこで待つよ。ちょうど調べモノがあるから暇つぶしがてらに」

「あら、会長室に入って待ってればいいじゃない」

「それでもいいんだけど」


 頬に指をあて少し考えるが、


「でもあたし、待合室って使ったことないんだよねぇー」


 と笑いながら言う。田中もつられて笑う。


「そりゃそうだ。あそこに中学生が座ってたら、みんなビックリするわよ」

「ねぇー」


 田中は手元のパソコンを操作する。すると感熱紙タイプのレシートのような紙が受付台から出てくる。その紙には「1」と印刷されている。


「ではこの番号の紙をお持ちになってお待ちください。管の用意が済み次第お呼びいたします」

「ハハッ、どうも~」


 目は笑いながら、それでいて口調だけは事務的に言う田中の冗談につきあって紙を受け取る。久遠社では面会の際、受付で番号札をもらう。時間通りにくれば問題ないのだが大抵の人は早めに来る。またアポイントなしで来る人もいる。久遠社の社員のほうも準備ができてない場合もある。準備が終わり次第受付が呼びにくるが、現在の待ち時間の状況がディスプレーの下方に映し出されるようになっている。そのための番号なのだ。


「お嬢さん。遊びましょう」

「――――!!」


 不意に後方から声がしたことに、またおさげを大きく揺らして振り向いた先に細身のピエロがいたことに驚く。田中にいたっては入り口が見える位置に座っているのに――目を離していたとはいえ――気がつかなかった。

 二股に別れた水玉模様の帽子。同じ柄の上着とズボン。機能性ではなく見た目だけで履いているつま先が細く丸まった靴。


「……あービックリした。おどかさないでよ、おじさま」


 顔を白く塗り、頬と目の周りには星のペイント。鼻には真っ赤な丸いつけ鼻をつけてはいるが間違いなくみゆきの伯父、管総一郎だった。



 菅総一郎――彼は会長としての、経営者としての評価はそれほど高くない。それでもわずか数十年で会社を大きくしたのには訳がある。彼はエンジニアとしての評価が高い、それも半端ではなく。彼が企画し陣頭でしたプロジェクト、「ブレイン」の制作は世界を変えた。それまで世界最高のスーパーコンピューターが一般人の使うパソコンクラスの性能に思えるほどの超高性能スーパーコンピューターの開発に成功したのである。日進月歩で進歩するコンピューター業界であるのにかかわらず、それでも他に追随を許さないそれの発明は彼の名を世界に知らしめた。テクノロジーを飛躍的に進歩させるであろう期待される、二十一世紀最初の最高の技術者として注目されている。そんな人間なのだが……。



「なんでだ? 驚くことはないだろ」

「……まあ、そうかな」

 左手を後ろにまわしたまま、おどけた様子で言うピエロを見て同意する。伯父はそんな人間だということを。

「っしかし、今日は一段とハデねぇ」

「よく似合ってるだろ! コレはちょっと自信作だ」

 よく言えば痩躯、悪く言えば貧相な体格の持ち主だが、身体を大きく見せるためにパッドが入ったカラフルなピエロの衣装は不思議と似合っていた。ただ会社の受付に来るような姿では――決してない。


「そうね、不思議と似合ってる。……なかなかいないわよ。ここまでピエロが似合うアラフィフって」


 みゆきは声を立てて笑う。

 笑い事ではないのだけど、と思いつつ田中は備え付けの電話に手を伸ばす。今も会長を捜索中の同僚達に連絡しなければならない。

 会長はそんな受付に目もくれず、かわいい姪に向かい、


「ワシはまだ若いからなぁ、こういった服も着こなせるんだ」

「いや、コレは着こなすウンヌンのレベルの話じゃないような」

「そうか?」

「そうよ!」

「でもイケてるだろ?」

「イケてるかどうかは別として、……似合ってるのは認めたげる」


 スーツよりピエロの服装の方が似合う会社のトップというのは少々、いや大いに問題だが事実である。数多くある会社の中で一人くらいはこんなトップがいてもいいとみゆきは思っているのだが、賛同する意見は少ない。特にこの会社の中では皆無だった。


「しかし顔はどうした? ペイント? それともお化粧?」

「んっ、ああ、コレか」


 右手だけで――なぜか左手は後ろに隠している――器用につけ鼻をとり、ポケットに入れる。そしてアゴとノドの境目と言うべきか、地肌と白く塗っている部分の境目をつまむ。


 ――ザッ!!


 化粧用のパックを片手ではがすといった感じでユックリと、それでいて無造作にひっぱる。パックならそのようなはがし方をすればちぎれて、うまくはがれないはずだ。しかし総一郎の顔を覆っている白いモノは伸縮はするものの、ちぎれる気配すらなくはがれていく。


「へー……」


 目をパチパチさせて見入る。みゆきはその様子を見てアニメでよくある泥棒が変装から元の顔に戻るシーンを連想した。


「何コレ? おもしろ~い。こんなのあるんだ」

 はがし終わった顔はいつもの見慣れた伯父だった。ヘラヘラと笑う、どこか冴えない初老の顔。


「ああ、試作品。ウチのじゃないけど」

「そりゃぁ、そうでしょ。コレはさすがにお門違いってやつっしょ」


 伯父の顔を覆っていたものはゲームやコンピューター関係からはほど遠い。


「知り合いの化粧品メーカーのヤツがくれた。今日はじめて使ったけど意外と使い勝手がいいな」

「何、モニターなの?」

「――も兼ねてる」


 企業の会長が新製品のモニターというのはない話ではない。ただ自社のでなく他社のとなると話は別である。開発中の新商品を無関係の業種とはいえトップに渡すということは滅多にない。


「ご機嫌取りに、モニターに……まあ大人の世界はイロイロだ」

「なるほど」


 もっともそう言った裏の理由は言われるまでもなく想像はできる。もっと深い裏まで知る情報収集家なのだから。


「まぁ、ワシも目新しいもので遊べるから――ギブアンドテイクってやつだ」


 総一郎の意見は斬新で的確。新商品のモニターにはうってつけと知る人ぞ知ることでもあった。ただ問題は彼が興味を持ったモノに限定されるのだが。


「後でみゆきにも分けてやろう」

「……別にいいよ。使い道ないし」

「そうか? 変装とかに」


 首を傾げるその様は本物のピエロのよう。クスッと笑みがこぼれる。


「仮装の間違いでしょ」

「――違いない」


 と総一郎もつられたように笑う。


「それにしてもしばらく見ない間に……」


 ひとしきり笑った後、総一郎は目を細めみゆきを眺める。そんな伯父の言葉を遮るようにみゆきは、


「えっ、かわいくなったって? ヤダな、おじさまったらそんな正直に」


 少し身体をくねらせ、しなをつくる。色気はないが若さゆえのかわいさがそこにあふれている。

 そんな姪を眩しく思いながらも、若者のノリに呼応する。


「いやーそんなことより、育たんなぁー……胸は」

「なんだとー!」


 若干気にしていることを言われて即座に反応するが目は笑っている。


「もう中二なんだからもう少しふくらみがあってもいいだろうに」

「いいじゃん、このくらいあれば。それにもう巨乳の時代は終わったのよ。今は可憐な美少女が受ける時代よ」

「いやいや、まだ巨乳の人気は根強いね。時代は癒し系を見捨てはしない」

「――そんなことないわよ。今はあたしみたいに、可憐で、儚げで線の細いいわゆる『護ってあげたい』系が受けるのよ。今、学校の男子にはあたしのメアド、闇で高値取引されてるのよ」

「何? ってことはワシの知ってるメアドは売れるのか! いくらだ?」


 伯父が姪に言う言葉ではないような気もするが姪も気にしない。近よりひそひそ話でも知るように、


「おじさま、一財産よ。大事になさい」

 と言う。

「よし、アドレス変更する前に叩き売ろう」

「何よ、叩き売るって」


 顔を見合わせ爆笑する。

 そんな様子に受付の田中は電話をしながら冷や汗を流す、なんて会話だと。伯父と姪の会話にしてはなかなか突飛ではあるが日常茶飯事なのか二人とも実に楽しげだ。御するどころか話をかみ合わすことさえ難しい会長にここまで気が合うみゆきは頼もしい反面、先行きが怖いと関係者に囁かれていることを思い出す。 


 ――誰もいなくてよかった。


 田中は心の奥底から安堵し、胸をなで下ろす。他社の人間がいた場合、会社の品位を下げないためどうにか止めなければならなかっただろう。しかしここまでノッて話している二人を止めることは至難の業、いや不可能に近い。


「話は戻るがホント、やっぱりもう少し胸は必要だ」

「いや、戻すなよ」

「いーや、戻す」


 何故かきっぱりと言う。


「何でよ」

「何でも何もコレ以上に重要なことがあるか?」

「いやあるでしょ、いくらでも」

「あーぁ、わかっとらん」


 総一郎は頭を大げさに振り絶望した――フリをする。


「まだ若いからわからんかもしれんが……女は胸だ!」

 キッパリ、この上ないくらいにキッパリと言う総一郎にみゆきと田中は目を丸くする。

「いい歳して、何マジメな顔で力説してんのよ」

「まあ聞け。信じられないのは――いや、信じたくない気持ちはよく分かる。だがなこれは事実なんだ」

「…………」


 何かあいの手でも入れようかとも考えたが、とりあえず伯父に語らせることにした。


「男って生き物は――巨乳に弱い生き物だ! 胸が大きければそれだけでその女は三割、いや四割増しに見えるもんなんだ! みゆきとお前よりちょっと劣るけど胸が大きい娘と並んでみるとする。それ見た男はどう思うか? いくらみゆきのほうがかわいくても五分というかもしれない。もしかしたら胸の大きいほうがかわいいというかもしれない――いや、お前の言い分も分かる。サイズがたった五センチ違うだけで、カップが二つほど違うだけでそんなに変わるモノかと言いたい気持ちは」


 その具体的な数字に意味はあるのかとつっこみを入れたくなるがおさえる。総一郎は力のこもった熱弁をふるう。


「ただな、男はホントにバカな生き物なんだ! 目の前にちょっと大きいふくらみがあるとそれだけで正常に物事を判断できなくなる。だから何度も言うが女は胸だ!」


 その熱弁ぶりはピエロ姿に似合わない――いやもしくは内容が内容なだけに実に道化っぷりが引き立っているのかもしれない。

 こんな内容を眼前で、それも実の伯父に語られて普通なら「ひく」なり「軽蔑」しても何ら不思議はない。少女の反応としては普通だろう。ただ、この少女は少々普通ではない、……伯父と同様に。


「……そうか、胸かぁー」


 自分の胸を見下ろす。薄い胸は足下をさえぎるのに役に立たない。生まれてこのかた大きさを必要に感じなかったのだが、伯父にそうまで言われると確かに小さいような気がした。

「ああ、胸だ」

「胸かぁー」

「胸なんだ」

「そうか、胸かぁ」

 どう通じるのもがあるのかはイマイチ不明だが二人は「胸」と言う単語をしきりに言い合い互いに納得する。


(何て……会話)


 とっくに会話についていくのをあきらめている田中なのだが受付からどこかに逃げたいような気持ちに支配されている。しかし同僚達への電話がすんでいない以上、また会長がどこに行くのか知らなくてはならない以上そういうわけにはいかない。冷や汗を垂らしながらどうにか耐えている。


「それでもまだお前には望みが、可能性がある!」

「そ、そうだよね! なんてったってまだ若いもんね!」

「ああ、成長期がくるはずだ……たぶん」

 大げさに視線をそらす。

「――たぶんって何よ! 絶対くるもん! バーンと大きくなって三割り増しになるもん!」

 結局「女は胸」という伯父の主張を受け入れたようだ。その姪をシワの増えてきた顔に更に皺を寄せ、

「くるかなぁ~?」

「くるもん!」


 意地悪く言う伯父に即答。


「……男じゃその辺のことはイマイチわからんからなー。ここは経験者に……」

「ダメよ! おじさま」


 総一郎が何を言うのか悟ったみゆきは瞬時に彼の言葉をさえぎる。さらに総一郎が向こうとした先にいる田中の前に立ち、両手を大きく広げることで伯父から受付嬢を隠そうとする。


「それ以上は言っちゃぁダメ! 絶対に!」

「…………?」

 その強い口調に総一郎も田中も言葉が出ない。何故かがわからない。

「今までのは伯父と姪の会話。でもね会社会長が受付嬢にそんなこと言ったらセクハラよ!」

「あ~」

「それで訴えられたらいくらおじさまが変わり者でモノゴトよく分かってないって主張しても負けるから止めて」

「そんなものかなぁ」


 みゆきが何を言いたいのは分かったがピンとこず、頭を掻く。


「もう、おじさまは危機感が足りない! このご時世、セクハラは大問題よ! 特におじさまみたいにお金持ってる人間は裁判で負けるとふんだくられるんだからね! ホント、気をつけてよ」

 そこまで一息にまくし立てて、今度は受付を振り返る。

「ゴメンナサイ。……でも今回はセーフってコトで見逃して、ネッ!」

 両手を合わせてかわいらしく頭を下げる。

「えっ……ええ」


 急にふられた田中はこういうのが精一杯だった。突然のことにあっけにとられ、目を丸くしている。

 一応とはいえ言質が取れたことにニッコリと微笑む。再び伯父の方に向きを変える。


「おじさま、悪ノリはあたしだけにしててよ。かわいい姪ならとりあえず何言っても問題はないからね」

「……お前には何言っても良くて、社員には何も言うな。……か」

 むしろ姪にこそ嫌われたくはないというのが本音であるが。

「そう。わかった?」

「ああ。……お前は優しいくて心が広いなぁ」

「そりゃぁもう!」


 感心したように言う総一郎に笑顔を振りまく。


「だっておじさまは将来この会社をあたしにくれるんでしょ? ならそのくらいのセクハラは全然ガマンするからいくらでも言って」

「――――!!」

「この会社を引き継ぐのにこれくらいの試練は耐えてみせるから」

「みゆき……お前、ワシの跡、継ぐ気か?」

「当然! それに他にいないじゃない。おじさま独身でしょ。死んだら弟に株なり財産なりがいくでしょ。そしたら結果的にパパからあたしのところにくるじゃない」

「まぁ、そうなるな」

「だからできるならおじさま、遺言には財産は全部あたし宛にするって書いといてね。なんにも書かなくて法律通りにパパに渡って、それからあたしってなると相続税を多く払わなくちゃいけないから」

「意外と法律知ってるんだな」


 目を丸くする。


「勉強してるのよ。早いうちから経済とか法律、知っとかないと。意外とおじさま早死にしそうでしょ。今社長の榊のおじさまはしっかりしてるけど苦労人だから引退も早そうだし、パパは……おじさまよりはマシだけど経営者の器じゃないし……。となるとあたしががんばらなくちゃってことになるでしょ?」


 榊というのは今の社長。総一郎とは学生時代からの付き合いで久遠社設立時のメンバー。好き勝手する総一郎に振り回されつつも経営と言った面で会社と総一郎を支えてきた人間。人によっては彼こそが久遠社のトップという人もいる。


「乙女の青春、犠牲にしてる健気な姪に何かしてあげたいと思うんなら税金がかからない程度、株の譲渡するって手もあるわよ。それを数年にかけて譲渡し続けると税金もかからなくて、相続税も減って次期経営者が大助かりするから。ああ心配しないで、株が減ってもおじさまが失脚しないように、あたしは株主総会に行って最後までおじさまの味方するから。そのときの筆頭株主は榊のおじさまかパパか、……あるいは両方かもしれないけどあたしが護ってあげる。っで、おじさまが隠居したらあたしがメンドウみてあげるから安心してボケてね。ただボケる前に何度も言うようだけど遺言はしっかり書いてね。あたしに全部譲渡するって」


 こんな内容を眼前で、それも実の姪に語られて普通なら「驚愕」なり「絶句」しても何ら不思議はない。伯父の反応としては普通だろう。ただ、この男は少々普通ではない、……姪と同様に。


「わかった。みゆきに任せるとしよう。これでワシも安心してボケて、ハゲれるな」

 どこか感無量と言ったように頷く。

「任しといて! 立派な後継者になるから」

「しかし経営ってのは難しいぞ。それは千人の部下に対して責任を持つってことだけじゃない。見ず知らずの関係ない人にまで責任を持たないとならないときもある」

「分かってる。協力関係にある会社の人間にもでしょ、下手してプロジェクトがつぶれた場合そっちにも迷惑がかかるから」

「それだけじゃない。もしもみゆきの采配でライバル社がつぶれて、そこの従業員が職を失った場合、それに対しての責任問題が生じる」

「……なるほど」


 そこまでは考え及ばなかったのだろう。右手で口を隠すように押さえ伯父の言葉を考える。


「それが経営者、それも大企業のトップってヤツだ。わかるか?」

「……うん。でも……」

「なんだ?」

「おじさまに言われても説得力ないし」

 と言って指さす。ピエロの格好をした大企業のトップを。

「違いない」

 二人は顔を見合わせ爆笑する。

「いやー、しかしみゆきが後継いでくれるのならワシも安心して好き勝手できるわ」

「任せてっていいたいけど、おじさま今でも好き勝手してるじゃない」

「じゃあ更に好き勝手する」

「やめてよ。あたしがココに入ったときに傾いてました、じゃ何の意味もないんだしね。あとおじさま借金とかつくって、あたしに押しつけるってのもやめてよね」

「そのときは多額の生命保険の受取人をみゆきにしとくから」

「っていうかそれはすでに勘定に入ってるし」

「――しまった! 一本とられた」


 再び笑い出す。

 この二人の妙なテンションと一風変わった会話にほとほと疲れ果てた田中だが、会話が一段落ついたのを見計らって声をかける。


「会長、今までどこに行ってられたのですか?」


 その格好のままで。そうついでに言ってやりたい気持ちをどうにか抑える。


「んっ、ああ。ジャンジャジャーン!」


 今まで後ろに隠していた左手を前に出す。そこには紙の箱が握られていた。


「あ、ノエルのケーキ!」


 紙の箱の印刷に気がつきみゆきは声を少々甲高い声を出す。


「そうとも、今日はみゆきが来るだろうからって抜け出して並んできたのさ」

 胸を張って言う。

「ってことはアレ、買ってきてくれたの?」

「もちろん! スペシャルマロン」


 『ノエル』というおいしいケーキをだすと若い女性に評判の店がある。そこでも目玉が『スペシャルマロン』と名付けられたオリジナルケーキ。ベースとしてはモンブラン。薄くサクサクのパイに、シットリした濃厚なアーモンドクリームを詰め、栗の味が前面に出た生クリームで覆う。その上部にこれでもかと言うくらいに乗せられた栗。値段は張るがその味の虜になった物が毎日訪れ、一時間並んでも買えるかどうかわからないほどの人気が一品。


「だからおじさま大好き!」


 好物のケーキの味と食感を思い出す。


「会長、困ります。そういうことは秘書の和泉に行かせてください。黙って出て行かれると下の者が混乱します」

「そうよ、せめて一言いうなり、書き置きして行かなきゃ」

「いやワシが行かなきゃ意味ないじゃないか。特にああいう場で若い子たちの話を聞くことが感性を磨くってことにつながるし」


 黙って出歩くには自分なりの理由がある。しかし社員にしてみればこれ以上感性を磨かずに会長らしくデンと座っていてもらいたいという気持ちがある。


「っていうか、よく今日あたしが来ることわかったね?」


 みゆきは不思議そうに首をかしげる。父にすら連絡してなかったというのに知っているというのはおかしな話だ。『フェアリー』並の情報収集能力があるというわけもないのにだ。


「んっ。いや今朝信二が昨日今日と家に帰れないとか言ってたからな。もしかして今日あたりみゆきが着替えでも持ってくるんじゃないかなぁってな」

「……なるほど」


 納得する。情報力でなく洞察力だったということに。


「っで信二には会えたのか?」

「ん、まだ。何か会議中だって。おじさま失脚させるために何か策でも練ってるんじゃない?」

「ありえん話じゃないな」

 笑い事ではないのだが他人事のように笑う。

「まあ、ワシはみゆきが護ってくれるからいいとして」

「それは株をもらってからの話。それまでは自分の身は自分で護ってね」

 ケロッと言い放つ。

「くぉぉ、厳しいのぉ」

「当然!」


 すましたポーズをとって即答。でも顔は笑みを隠せない。


「まぁワシも今までこの地位をどうにか死守してきたんだ。みゆきに譲るまではがんばって死守し続けることにしよう」

「ファイトよ! おじさま」


 両手の拳を握って応援する。そのかわいさに総一郎は微笑みながら、


「とりあえず部屋に行こうか。コレを食わなきゃな」

「ウン!」



 会長室。それも一応大企業の会長室であるというのならある水準以上の豪華さが必要だ。ここも例外ではない。足音さえ消すかのような分厚い絨毯。本人にさほど必要がないのにもかかわらず無駄に豪華で大きい檜造りのデスク。人ひとりが座るには大きすぎる気がする椅子。その上にはディスクトップ型とノート型のパソコン、電話が一台づつ。総一郎はここで仕事をしている。他にも来客用にデンマーク製のガラス製のテーブルを挟んでクッションがよくきいていそうな大きめの一人掛けのソファーが二つに長ソファーが一つ。

 この部屋の主はあまり自分の物には執着しない。コンピューター会社の創設者であり、いまだに最優秀の技術者である以上パソコンは性能がイイに越したことはないが他の物はどうでもいいと考えている。折りたたみ式の長机にパイプ椅子でもかまわない、むしろそっちの方が気が楽なのだがそういうわけにもいかないとこの部屋をあてがわれている。外聞というものがあるからだ。会長室である以上来客がある。それも会長に直接面会できるというのはそれなりの地位がある人間である。それだけに例え本人が嫌がっても豪華な調度品をそろえている。

 今この部屋にいるの二人。中学生とピエロ。この部屋を作った人間はこの状況を知ると一体どういう反応を示すだろうか?


「おいしい~!」


 いつもお茶を出してくれる秘書が出払っているためみゆきが伯父のためにコーヒー、自分用に紅茶をつくりガラスのテーブルにケーキと一緒に並べた。何度も食べているのでおいしいことは分かっているのだがそれでも歓喜の声をあげてしまう。

 頬を押さえて喜ぶみゆきを目を細めてみる。この姿を見るためなら多少の苦労など気にもならない。そして、


「最近はどうだ? 何かおもしろい話、あるか?」


 姪から学校の話題を聞くのが楽しみの一つ。若い人間のために何か作るのであれば若い人間と同じ目線でいるべきだと力説しているが、精神年齢が年の割に低すぎるせいではないかという意見の方が説得力がある。


「最近ねぇー」

 栗を口に入れながら伯父が喜びそうな話題を思い出す。

「物騒な話とちょっと……おもしろい話がある」

「物騒って言うと拳銃の話か?」

「ピンポーン! ……よく知ってるね」


 まだマスコミから発表はされてはいない。ネットで口コミのように広がっているが、かなりヤバ目の情報なので簡単に目に入るといった情報でもない。電車やバスを利用していたらそういったコトも耳に入る可能性もあるが総一郎は車で出勤している。総一郎と同じような通勤手段をしている中年以上の人間がこのことを知るのは稀ではある。


「ケーキ屋で並んでるときに若い子が売りつけられそうになって慌てて逃げ立っていってたのを聞いた」

「……そうなんだ」


 フラフラと出歩くクセには困ったものだが、そんなに悪いことでもないとみゆきは思っている。会長室にこもって世間に疎いよりはマシであるし、第一そんな伯父だと話していて何の面白味もない。


「みゆきも買ったのか?」

「ううん、そんな現場にであったこともないけど、友達が何人も売りつけられそうになったって」

「ふーむ、中学生にも売りつけるか。そりゃあ物騒だ」


 腕を組み、この男にしてはめずらしく難しい顔をする。


「みゆき、もし売られても絶対買っちゃダメだぞ」

「ウン、分かってる。……でもおじさまもたまにはまともなことを言うのね」


 思いがけない伯父の言葉にケーキを食べる手を止めて、マジマジと伯父を見る。しかしいかにも心外だと言わんばかりに総一郎は続ける。


「当然だ、コレばっかりはみゆきの命にかかわる」

「……? でも銃持ってるだけで命にかかわる? せいぜい銃刀法違反になるだけで、あたしは未成年だから特に問題はないと思うけど」


 総一郎は大きく頭を振る。


「ああ、お前はまだわかってないなぁ。そういう問題じゃないんだ。金を持ってない中学生にまで銃を売るってコトがどういうことかわかるか?」

「……さばきたいんでしょ、数多く」

「そうだ。逆に言えば中学生のこづかいでも買える値段に落としても売る側はいいと考えている」

「確かに……そうね」


 この件に関して分からないことは多い。動機もその一つだ。安値でも人に売ることに何の意味があるのか? 愉快犯にしては大掛かりだし、国を混乱させたいにしてはやり口が稚拙だ。


「拳銃を一丁作るのと、玉を一発作るのにコストがどれだけかかるかは知らんが安いものでもないだろ?」

「でしょうね」


 どんな情報でも調べられるが今まで興味がなくて調べたこともない。だから同意するにとどめる。もっとも総一郎にしても目の前にいる姪が情報収集家『フェアリー』だと知っているはずもないので答えを彼女に求めたわけではない。


「それなのに安く売る。ということはだ」

「ウン」


 めずらしく真剣な顔をする伯父をじっと見つめる。


「普通の銃が足元見られて高く売られているか、今安く売られているのが粗悪品かのどっちかだ。どっちかは知らんがもしも粗悪品なら暴発するかもしれないし、したところで非合法商品には保証も何にもないんだ! 文句のつけようもない上、使った方が罰せられる! こんなバカな話があるか!」

「……微妙に怒りの方向性がズレてるような気がするのは気のせい?」


 ちょっと脱力し、再びケーキの攻略にかかる。


「ん、おかしいか?」

「そういう可能性も確かにあるけどね……、どうせなら誰が持ってるのか分からないからいつみゆきのかわいさを妬んだヤツが撃ってくるかもしれないとかストーカー系が「つきあえ! さもないとこの銃で殺すぞ!」とか脅迫してくるから気をつけろって世間一般の伯父らしいセリフを言ってくれるのかと期待しちゃったよ」

「……なるほど、そういう危険もあるのか」

「いや、まずそっちを気がついてよ」

「悪い悪い」


 と笑う。

 実際の話、今出回っている銃は伯父の予想通り粗悪品だという情報は知っている。そしてそれがどういう結果をもたらすかも。だから何とかしなくてはと思ってのだ。


「……でもまあ気をつけろってことだよ」

「ウン、わかってる」

「っでもう一つのちょっとおもしろ話は?」


 みゆきが伯父のことを気に入っている一つにこの切り替えの早さがある。例えば父親なら今の話をしたら何度も、しつこいくらい何度も念を押して注意してくる。気持ちは分かるのだが正直鬱陶しい。その点伯父はたいていの場合一度だけしか言わない。それが楽でもあり、自分という人間を信頼してくれているような気になる。


「えーっと……『悠久の櫻』って知ってる?」


 その単語を聞き伯父は一瞬目を輝かせたかのように見えた。


「おお、知ってる知ってる。『人喰い桜』のことだろ!」

「……人喰い?」


 伯父からの聞き慣れない単語に首を傾げる。


「……今はそう言わないのか? ワシの若い頃はそう異名がついてたんだけどな」

「それは聞いたことない」


 首を横に振る。それを見て時代が変わったんだと思いつつ、


「まぁ同じ『悠久の櫻』のことだ。ああいった逸話のある絵には――絵だけじゃないけどな、まぁ異名がつくもんだろ」

「かもね」

「……しかしいまだにその話題が若い子に伝わってるんだ」


 感心したかのようにアゴを撫でる。


「今度また売り出されるんでしょ、だから話題になったみたい」


 と嘘をつく。カムイに調べてもらった『悠久の櫻』についての報告書を見て、その怪奇的な逸話がおもしろかったので自分から話題にし、友達を怖がらせた。


「あれは売っちゃあダメだろ。どこかの美術館に寄贈して展示すべきだろ」

「いずれそうなるんじゃないの? 買い手がつかないんでしょ?」

「そうでもないだろ。持ち主が必ず死ぬっていう噂なんか偶然だって鼻で笑うヤツもいるしな」


 一人の画家が恋人のために描き、送った『悠久の櫻』には逸話がある。そして怪奇的な呪いの噂も。それを所有する人間は必ず死ぬというのだ。現に買った人間は一年以内に死ぬと言われている。


「春が来る前に、正確に言えば次の桜を見ることなく死んでいくって話は……いかにも作り話っぽいしね」

 

 

 時は大正。二人の男女がであった。桜の下で出会った二人は一目で恋に落ちたという。しかし二人は結婚することはなかった。売れない画家の男と富豪の娘。当然のごとく反対された。しかしそれでも消えることなかった想いという名の炎は必死に周囲を説得していく。あともう少しで説得できるというときに娘が血を吐き倒れた。元々身体が丈夫でなかった上に心労が重なり肺を患ったのだ。医者の見立てでは春が来るまで持たないとのことだった。


「もう一度あなたと桜が見たかった」


 病床に伏せる娘の悲痛な叫びは男に決心させた。彼女のために桜を描こうと。画家の自分が彼女にできることはそれこそ命を削っても絵を描くことだけだった。最高傑作の桜を描きせめて彼女の心を癒すこと。

 男はキャンパスに向かった。

 満開で咲き誇る巨大な桜を天を仰ぐように見上げた構図。それは二人で見た記憶そのもの。いつでも見れる枯れることのない桜を精魂込めて描いた。

 娘を想う男の執念は一つだけ奇跡を起こした。あの日見た、彼と娘だけの思い出の中の桜を再現できた。キャンパスの中で悠久に咲き誇る桜は掛け値なしに美しかった。


「……ありがとう」


 久しぶりに出会った娘はやせ細っていた。それでも桜を見せると一瞬だが生気の戻ったような顔をし微笑んだという。

 しばし桜を見た後、静かに息を引き取った。

 その後、絵を所有する人間は桜の季節を待つことなく命を失うという。

 それはこの桜の絵は画家から自分への愛の証ゆえに、死後絵に取り付いた娘が自分以外の所有者を認めないと言われている。



「絵を見て奇跡が起きて病気が治った。っていうならこういう都市伝説系の話も出なかったろうにね」

「そうともいいきれないだろ。その場合、『悠久の櫻』が奇跡を起こし、彼女の尽きるはずの寿命を肩代わりした。その分、後に所有した人間の寿命を奪うって言われたかもしれない」

「そういった考えも……できなくもないけど、ちょっと無理ない?」


 伯父を見る。どこかいつもより楽しげに見えた。


「そういう解釈もあるってこと。もしかしたら実際はワシが言ったとおりでみゆきみたいに無理があると思った人間が逸話を改竄したって可能性もあるだろ」

「娘の魂が死後絵に吸い込まれて、その人が所有権を主張して持つ者の命を奪うってヤツに?」

「ああ」


 あり得ないことではない。世の中にはよりおもしろく――この場合はよりミステリアス――にするために事実をあえて改竄する場合もある。この手の都市伝説は事実はさほど問題ではないのだから。


「それにみゆきが言ったのだけじゃなくて違う話があることも知ってるか?」

「……? それって『悠久の櫻』には違う逸話があるってこと?」

「そうさ」

「えー、それ知らない」


 カムイの報告書ではそれしか書かれていなかった。


「まぁ知らなくても無理はないさ。それが一番有名なやつだからな」


 冷めかけたコーヒーを一気にあおり、ノドを潤す。ちなみにケーキ――こちらはスペシャルマロンでなくチーズケーキ――は手をつけていない。初めから自分は食べる気がなくみゆきに持って帰らせるように数種類買ってきたのだ。


「こんなバージョンもある。男が色を塗っていたときに赤色の絵の具がなくなった。買いに行く時間も惜しいし、また金もなかった。だから血で代用することにした」

「血? って自分の?」

「そりゃあそうさ。で男は画家である以上さすがに指だの手だのに傷をつけるわけにはいかない。だから足にナイフを突き刺してバケツに血をため、それで色を塗った」

「うわぁー」

 想像してちょっと気持ち悪くなったのか顔をしかめる。

「『悠久の櫻』の桜の色がなぜあんなに鮮やかなのか? 画家の血を使い描かれたから。その後に画家の魂がこもった。悪い意味でな。彼女のために美しい桜を描いていたはずが目的ではなく手段だけがこもった」

「手段?」

「そう。美しい桜を描くって言う手段。そしてその後、絵はいつまでも、それこそ悠久に浮くしく咲き誇るために、その時々の所有者の血を吸って赤色を足しているってな。そういうバージョンもある」

「へぇー。……その話は知らなかった」


 感心する。カムイに逸話をすべて調べるように指示出していないせいもあるが、何となく自分の力で情報を得た気になった。


「他にも結構あるんだぞ。『悠久の櫻』は逸話の宝庫でな。……解釈の違いなのかもしれんが他にもいくつか」

「そうなの?」

「ああ、これは有名なヤツと話が少しかぶるんだけどな。元々画家は彼女を生かすためにあの絵を描いた。その生かす方法ってのが生物的に生かす方法じゃなかった。彼女の魂をあの絵に移すという方法」

「へ?」

「昔は長く使った物には魂が宿るって考えが一般的で、その画家はそこから一歩進んだことを考えた。無理矢理魂を宿らせようと。彼女の魂を絵に宿らせようと」

「何それ? そんなことが可能なの?」

「さぁ」


 みゆきのもっともな意見に総一郎は――こちらもこの場合、ある意味もっともな行動――肩をすくめる。


「できたかどうかなんてのは本人の気持ちひとつなんじゃないか? 自分と彼女が出会った絆でもある桜を忠実に描くことで触媒となり彼女の魂は絵に宿る。そうなれば彼は永遠に彼女と一緒にいられるってね」

「ふーん。……怪奇的な逸話としては無い話じゃないかな」

「でもワシが知ってる話の中じゃこの話が一番好きだぞ」

「それは人それぞれ。だいたいおじさまは世間一般からはずれてるんだし」

「何をぉー!」


 大きな声で言って笑い出す。自覚はあるのだ。


「それにしてもおじさま、詳しいね」

「そりゃあお前の三倍以上生きてるんだ。長く生きてりゃあ色んなコトが耳に入る。中学生に比べれば物知りだ」


 知らないこととはいえ世界最高の情報収集家に向かって、自分が物知りだというのはピエロの衣装よろしく道化であった。


「と言いたいところだが『悠久の櫻』に関してはちょっと話が違う」

「…………?」

「ワシはな、昔からこういった話が好きなんだ。だからイロイロ調べてる」

「こういった話って都市伝説?」


 みゆきの質問に首を振る。


「ちょっと違う。ワシが好きなのは物に人の執念とか魂とかが宿る話だ」

「へっ?」


 総一郎の言葉にみゆきは思わず目を丸くする。


「意外か?」

 その様子を見て微笑みながら質問する。


「えっ、……あの、なんていうか……」


 ちょっと混乱して言葉が出てこない。何となく姿勢を正し、深く息をして気を静める。


「……そこはかとなく、そんな気がする」

「そうかなぁー」

「うん、あたし的には……そう思う」


 みゆきはこの世界に幽霊がいることを知っている。だから物に魂が宿ると言うこともあり得る話だと理解している。

 しかしそれを総一郎も信じているというのは彼女にとって違和感があった。総一郎は役職こそ会長であるがその本来の性分は技術者である。普段からピエロ姿になったりする少々ふざけたところもあるが日本を代表する、いや二十一世紀のコンピューター技師としてなお残すであろうと言われている人間だ。その彼が科学で証明されていないこと好むというのは実に妙な話だ。

 どちらかというと先頭に立って否定するのではと思っていた。


「ワシ的にはそれが人生の根本にあると思うんだ」


 どこか遠くを見つめる目をする。


「物には魂が宿る。そう信じてる」

「…………」


 何と言っていいのか分からず、居心地が悪い気分になる。総一郎としても相づちを求めているわけでないのか言葉を続ける。


「ワシはな、こんなこと言ったら笑われるかもしれないけど魂を宿らせたいと思ってるんだよ」

「何に?」

「もちろん、コンピューターに!」


 その言葉にみゆきはビクッと肩をふるわせる。動悸が高まるのも感じる。


「どうした?」

「う、ううん! なんでもない!」 


 慌てて首を振る。心臓の音が伯父に聞こえるんではないかと言うくらいに自分の耳に届く。伯父のいきなりの発言はみゆきをここまで動揺させる効果があった。


「……? まぁいいか。でな、コンピューターに魂を宿らせたいというのがワシの人生の目標なんだよ」

「……そうだったの? 初めて聞いたけど……」

「……まぁそれしか能がないってコトも事実だけど、それでも何となく宿せるような気がするんだ、特に根拠はないけどな」


 総一郎は雄弁に語り出す。

 その様は子供が夢を語るかのように目を輝かせ、熱っぽく、動作を交えて。

 十四歳にも満たない少女が五十手前の男に思う感情ではないが、そんな伯父の姿を見てみゆきはかわいいと思った。



「そうね、あんたはそうかもしれないね」

 帰宅後みゆきは部屋のディスプレーに触れながらつぶやく。

 地下室にある本体は久遠社の機密の関係上セキュリティーがあり、たとえ持ち主のみゆきすら入ることができない。よってみゆきがカムイに触れる方法としてはディスプレーとキーボードとマウスくらいだ。


「おじさまの執念ね、……きっと」


 カムイに何故こんな能力があるのか、不思議で仕方なかった。今日、伯父の話を聞き、その謎が少し解けた気がした。


「……となるとやっぱりあんたのことはおじさまにも秘密にしとかなきゃね」


 今までは伯父にカムイの能力のことを話すわけにはいかないと思っていた。それは科学者であり技術者である人間にこんな非科学的なことは通じないと思っていたからだ。科学で説明不可能の現象を信じてもらえない、もしくは解明に躍起になるといった伯父の姿は見たくなかった。そして嫌われるのではないかという不安があった。その思いが絡み合い伯父に真相を打ち明けることはなかった。

 これからも伯父にカムイの能力のことを話すわけにはいかないと思った。コンピューターに魂を宿したいと考えている伯父がカムイを見たら狂喜乱舞するだろう。その姿を見てみたいという思いはある。そういう伯父が好きなのだから。長年の夢を叶えた伯父の顔はさぞかし見物だろう。

 しかしだからこそ話すわけにはいかない。彼が生涯の夢を叶えるには少々早すぎる。人生をかけるほどの夢ならば達成した後の反動が大きいからだ。その後の目標が無くなって急に老いてしまうということは伯父に限ってとは思うが100%否定はできない。新しいことをするには時間が足りないと隠居するかもしれない。――そんな伯父は見たくない。


「……それにね」


 今日の伯父を思い出してクスッと笑う。

 彼はまだ少年のようだった。大きな夢を持ち、必ず叶えられると信じて疑わない少年のような心の持ち主だった。それならばあえて教える必要もない。きっとカムイを創ったようにもう一度魂を宿すことができるだろう。

 もしも教えるとしたら彼が絶望したときだと考える。深く絶望したときに、立ち上がり前に進む力をなくしたときに教えてあげればいい。「夢はホントはとっくの昔に叶えてたよ」と。

――もっともそんな日はこないと確信している。

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