「ギフト」
「ギフト」
昼下がり。
ザッ、ザッという、木炭が紙をえぐる音だけが響いている。
蓮はもう3時間近く丸椅子に座り、小さな石膏像のデッサンを続けている。
アパートの、窓に面した8畳間から差し込む光で、やや俯いた首像の右顎から首あたりに深い影が落ちている。
拓也は持ってきた文庫本から顔をあげた。デッサンをする蓮の背中が見える。やはり、右側に傾いている。タクトのように木炭の端を軽く握り、滑らすように描いていく。初めはばらばらの点に見えたものが、蓮の振るタクトで繋がり、少しずつ大きなひとつの形へと成っていく。それを暫く眺め、また文庫本へ目を落とした。
チッ!とストップウォッチを止める音がして、蓮が振り向く。
「拓也さん、退屈じゃないですか? やっぱりせっかくのお休みだし、午後からどこか行きます?」
不安そうな顔。
「いいよ。描いてるとこ見たいって頼んだのは俺だし。蓮は何も気にしないで」
「そうですけど・・・。面白いですか?デッサンなんか見てて・・・」
拓也は小さく笑うと言った。
「蓮、それは何?」
「これは、ヘルメスです。結構、有名な石膏像です」
「いや、そうじゃなくて、そっち」
拓也はイーゼルに紐で掛けられた、ストップウォッチを指す。
「あ、これですか・・・。時間、計っているんです。癖で・・・」
「癖?」
「はい。あの、美大の試験はデッサンがあって、時間が決まっているんです。だから、いつも練習のときから時間を計って描いていたんです。その時の癖が抜けなくて」
そこで何か思い出したように蓮は笑った。
「どうした?」
「いや、わたし、絵の予備校みたいなとこに行っていたんですけど、デッサンの授業がおじいちゃん先生で、腰も曲がっていて、よちよち歩いているんですけど、手に、木炭いくつも持ってて。形が取れてなかったり、描くのが遅かったりすると、わりゃ!ってそれ投げつけてくるんです。ごめんなさい、なんかそれ、急に思い出しちゃって」
「チョークみたいに?」
「そうです、そうです。そんなの、漫画の世界だけだろって思っていたら、実際にいて。で、授業が終わると、ひとりで投げた木炭拾い集めてて。みんなが帰ろうとすると、こんの薄情もんが!手伝え!ってまた怒鳴るんです」
蓮はそう言うと、拓也に木炭を投げつけるふりをして笑う。
「強烈だね」
蓮はまだ、ふふふふ笑っている。
「でも、それはどのくらいの時間で描かなきゃいけないの?」
「わたしが受験したところは、午前と午後に試験が分かれていまして。6時間くらいだったと思います。だから、予備校ではそれよりも1時間くらい短く設定してやっていました。過去問みたいな感じで、よく出る石膏像とかもありますから、そういうのは色んな角度から何度も描いて、自分なりの必勝パターンを作っておくんです」
「そっか。蓮はそういう訓練を、ずっとやってきたんだね」
その言葉に蓮は手元の木炭へ視線を落とす。
「わたし、高校の時、学校が毎日つまらなくて。勉強も出来なかったし」
「ふーん。あ、でもさぁ、付き合ってた人とか、いなかったの? 蓮はかわいいしもてたでしょ?」
身を乗り出してきた拓也を避けるように、蓮は俯いてしまう。
「うー拓也さん、いつもそういうこと言いますけど、かわいくないし、全然もてなかったです。なんか、今思い出したんですけど、わたし、学校にいる時、ほとんど美術室に居たから、クラスで名前、覚えてもらえてなかったんだと思うんですけど、一度、男子に、おい、そこの貞子をブスにしたような奴、って言われたことあって。なんかもう逆にむしろ、お前うまいこと言うな、みたいな気もして・・・。えっと、そんな感じです」
「どんな感じやねん!」
蓮は拓也に泣きながら電話したあの日から、また少しずつ絵を描きはじめていた。自分がどれほどのものか、これから先、描き続けてどうなるか。でも、迷いは迷いのまま、もう少し描いてみよう、そう思っていた。
「拓也さん、どこか、お昼に行きましょう。何か食べたいものあります?」
「んーカレー?」
その答えに蓮は笑い出す。
「拓也さん、だいたい、カレーって言いますよね」
「うん。なんかさ、カレーって外れがないじゃない」
「で、辛いのが好きで、具が全部溶けちゃっているのは嫌なんですよね」
「そうそう。何かおめー、煮込みすぎだろって思うんだよね。カレーはね、視覚の食べ物だから。具がね、ごろっと見えてて、なんていうの?見た目の立体感?ボリューム?そういうの、大事なわけよ」
「カレーは視覚・・・。拓也さん、たまに凄いどうでもいいこと、凄い格好よく言いますね」
「それ、褒めてる?」
「あ、褒めてます褒めてます」
「いや、絶対バカにしてるでしょ」
笑って拓也は立ち上がる。蓮はそのあとを追う。拓也の膝から滑り落ちた文庫本にかかったカバーがめくれ、一瞬タイトルが見える。『(ポケット版)炎の画家 ゴッホ画集』。
左手に持ったガーゼで木炭紙を軽くこすりながら、白井は描きながら、同時進行でぼかしを入れていく。
白井の木炭の構え方は独特だ。肩を上げ、紙に対して垂直に近い角度で線を入れていく。本来なら線に厚みの出ない描き方だ。しかし、紙に当てながら、木炭を捻っているのか、実際に描き出される線は複雑な、白井ならではとしかいいようのない線になる。剥離しそうな木炭の粉を時に、指でこすりつけながら、強引に陰影をつけていく。荒々しいタッチだが、パースは正確だし、何より・・・。
速いっ。
後ろから眺めていて、蓮は驚く。スピードと正確さを併せ持っている。白井のデッサン力は本物だ。
「やー立花さんに見られてるから、緊張してダメっすわ。顎のライン、ずれました」
白井は振り返ると、照れ隠しのように笑った。
「凄いよ」
蓮は素直に言う。いやいやと、白井は軽くかぶりを振ると、腕時計を見た。
「もうすぐ、榊も戻ってくると思います。あいつには、立花さんが来ること、俺から話してあります。・・・あいつも、あの日のこと、謝りたいって言ってました」
蓮は、この日、白井に連れられ、白井達が共同で借りている、プレハブのアトリエへ、初めて来ていた。
べべべべと、やかましいエンジン音がして、それが止まると、榊が背中に大きなリュックを背負って入ってきた。
「おめぇのベスパ、もう限界っしょ。しまいにゃエンジン焼きつくぜ」
「そんなん、気合だよ」
白井に言い返して、榊は蓮を見ると、小さく頭を下げた。
「先日は、失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい」
「いえ、いいんです。本当、その通りだと思いましたし」
榊はそこでニッと笑うと、
「じゃあ、仲直りってことで、改めて、ようこそ、わたしたちのアトリエへ!」
そう言って手を広げた。
「って言っても、ただのプレハブだけどね」
榊が笑って、蓮もようやく肩の力が抜けた。
「で、どうだったよ?蝉外画廊は。あそこで出来れば場所もいいし、人も沢山来るんだけどな」
白井が、お茶を載せた盆を持ちながら、榊に尋ねる。
「作品見せたけどね、やっぱりわたし達だと、実績がね。あそこはベテランの企画展がメインだし、今日話した感じだと、厳しいと思う」
「じゃあ、また探し直しか。どーすんだ、時間ねーぞ」
「わーってるよ」
榊が白井から湯飲みを受け取りながら言う。
「立花さんも飲んで飲んで。修、お茶だけは淹れるの上手いから。料理とか、全然出来ないけどね」
「それ、わたしもです。お茶すらわたしが淹れると、何故か全部抹茶みたくなります。しかもそれ、凄い苦いらしくて。飲むと今までしゃべってた人が黙るんです」
それを聞いて榊が笑い出したところで、蓮はあっと思う。
「あの、今の話って、白井さんからさっき聞いたんですけど、春に行う、グループ展の会場探しのことですか?」
榊は途中で買ってきたらしい、本屋の紙袋を破って雑誌を取り出しながら言う。
「そう。なかなかいいところがなくて」
「あの、わたし、知り合いに画廊のオーナーがいるんですけど。小さい画廊ですが、おそらく、そこなら貸してもらえると思います」
「凄いね、それ。どういう関係っていうか、つて?」
少し考えて蓮は言った。
「わたしの抹茶もどきの、最初の被害者です」
白井と榊が、顔を見合す。
結局、個展会場の話は、蓮が六朗に話をしてみることで落ち着いた。代わりに、会場が押さえられたら、蓮も一点、作品を出させてもらえることになった。
「榊、それ、画楽の今月号?」
白井は榊が読み始めた雑誌を見て言う。
「いや、違う。なんか、新しい雑誌なんだって。美術系の。試しに買ってきた」
「へー。そうだ、立花さんもせっかく来たし、何か描いてく?」
「わたし、今日、デッサン、持ってきたんです。白井さんも、榊さんも、上手いから、見てもらおうと思って」
「おー見たい見たい」
榊が雑誌を放り投げてはしゃぐ。
「何描いたの?」
「ヘルメスの首像です」
「おー結構古典なとこきたね」
蓮はデッサンをケースから出してカルトンで留めるとイーゼルへ立掛けた。
じっと眺めたあと、ひゅうっと、榊が短く口を鳴らす。
「パース完璧」
「これ、どのくらいで描いたんすか?」
白井が渋い顔で尋ねる。
「5時間くらいです」
「5時間ですか・・・立花さん、失礼っすけど、あんま手は速くないっすね」
「充分でしょ」
榊が言う。
「バッカ、榊。立花さんは、美大出てんだからよ、そんでこんくらい描けるのは当たり前なの。俺は、その上の話をしてるわけ」
「はいはい、どーせ独学です。悪かったわね」
蓮は驚いて榊を見る。
「え・・・。榊さん、絵、習ったことないんですか?」
「んー美術学校とかはないね。わたしには、そんなとこ入れる才能もなかったし、努力もしてなかったから。でも、ちょっとだけ近所の絵画教室、みたいなとこ通ってたこともあるんだ。でもわたし、こういう性格だからさ、なんか、周りと上手くやれなくて。先生に色々言われるのも嫌だったし。結局やめちゃって。そん時かな、修と出会ったの。それで、修が、わたしに色々教えてくれるようになって。だから、習ったって言えば、修がわたしの先生なんだ」
榊は、嬉しそうに白井を見る。
「俺はなんもしてねーよ。上手くなったとしたら、それはおめーの努力だろうが」
そう言って白井は横を向く。
いいなぁ、この2人。そう思って蓮が見ていると、榊が言った。
「だから、あんなこと、言ってしまいましたけど、わたし、修もだけど、立花さんのことも、凄いなって思っているんです。わたしみたいに、独学なんかじゃなく、美大っていう試験に挑んで、そこを突破している。わたしには、出来なかったことです」
「おめ、だから美大出の奴なんかには死んでも負けたくねーとか言ってたくせに」
「酔っ払ってた時の話をすんなーバカ修!」
榊が投げつけた雑誌を、ひらりと白井は避けた。
テレビゲームのマリオのジャンプのように、蓮が切った人参は、まな板の上でぴょんっと軽快にはねて、床へ転がった。それを見て早紀が言う。
「いい加減、真面目にやれや、おめーは」
「や、あの、真面目にはやってるんですけど、どうも人参が元気みたいで」
「もうそのセリフが真面目じゃねーわ。あのね、蓮ちゃん、あんたがどこのどういう風の吹き回しか、カレー作れるようになりたいなんて言うから、天変地異でも起きるんじゃないかと内心、戦々恐々としつつも、心優しき友人であるところの、このわたしは休みを返上し、あんたの部屋の台所はキャンバス置き場になってるからキッチンまで貸して、教えようとしてるわけ。しかも朝の10時から。なのに、人参とじゃがいも切るだけで、既に12時なわけ。ここまでオーケー?」
早紀は腰に手を当ててまくし立てる。ピンク色のエプロン姿が似合っていて、かわいい。料理も上手だし、恋人がいないのが不思議なくらいだ。あ、でも、しゃべるとこれだもんなー。そんなことを考えていると、また叱られた。
「なーににやけてんのよ。さっさと切る。違う違う。もっとちゃんと押さえて。また飛ぶよ」
それから5分後、ようやく人参を切り終えた蓮に早紀は醒めた目で言う。
「なんで、人参切るだけで息があがってんのよ。あのさ、思ったんだけど、野菜の皮剥いたり、いい大きさに切って、しかもいい硬さに煮込んだりって、料理ど素人のあんたにはレベル高くない?いっそ、全部煮込んじゃえばいいんじゃない?」
「いや、それだとダメなんです。カレーは視覚なんです」
「何よ、それ、聞いたことないよ。入っているものは一緒だからいいでしょ」
「や、あの・・・わたしはいいんですけど」
蓮が言い淀んでいると、早紀はその顔を見て何か感づいたようだった。
「あ! もしかしてあんた、拓也?」
小さく頷いた蓮を見て、早紀は大げさに上を向いて頭を抱える仕草をする。
「ッカー。あんた、自分の男への手料理、覚える為に、このわたしに休日返上させるなんて、なかなかいい度胸してるじゃない。金、もらうよ」
蓮を睨む。
「や、や。あの、そんなつもりは。早紀さん料理上手だし、あの、でも、すいません。恥ずかしくて、言えませんでした」
俯く蓮の肩に手をやると早紀は言った。
「ばーか。冗談だよ。でも、そういうことなら、もっと気合入れて覚えること。これ、最初に野菜煮込む時ね、水の分量が大切だから。圧力鍋じゃないなら、こまめにチェックしてね。蒸発してきたら、足して」
蒸気で強化ガラスの鍋蓋が曇り、くつくつと野菜が煮立っていた。いいなぁ、こんなの、絵に描きたいなぁ。絵なら、おいしく描けるのに。そう思いながら、蓮は早口で話す早紀の言葉を必死でメモに取りながら、携帯で写真を取っていった。
・・・・。
呼び出した、店の裏。
午後から降り出した雨の中、蓮は傘も差さず待っていた。
面相筆で引いた墨線のように頬へ、すうと垂れた前髪を、雨の雫が伝わっていく。その小さな水球に、冬の弱く澄んだ黄昏の光が反射する。
綺麗だ。息をのんで白井は思う。
「あの夜の、答えを聞かせてください」
アルバイトの終わりに、白井に呼び出されたのは、蓮が磯崎に、羅願堂を辞めることを伝えた翌日だった。
白井は、蓮の目をしっかりと見て言った。
「立花さんのことが、好きです」
言葉はあの夜と同じ。でもその目は揺れていなかった。言葉はもう、あの日のように震えていなかった。
まっすぐだな。白井さん、まるであなたが描く線のよう。蓮はそう思う。そうならば、こちらもまっすぐな答えで返すべきだ。理屈も、理由もいらない。そんな言葉は、白井だって欲しくないだろう。
「ごめんなさい」
それだけ言って、蓮は頭を下げた。白井がくれた、誠意に敬意を込めて。そうしたら、心がしんと静まった。
思えば白井と出会って、彼に頭を下げたのはこれが初めてではないか。いつも呆れて、怒ってばかりいた気がする。
しかし、なおも白井は言う。
「俺と、俺と。一緒に絵を描いて下さい。俺となら、立花さんは上を目指せる」
蓮は、顔を上げて白井を見つめる。降り続く雨の中、白井の瞳は乾いて、光っていた。いい目だな、そう思う。
「白井さんの絵は素敵です。わたしは、これからも描き続けます。白井さんも、描いて下さい。そうすれば、きっとまたどこかで会えます。お気持ちに、答えられなくて、ごめんなさい」
もう一度、頭を下げて蓮は白井に背中を向けた。
・・・。
早紀とこたつで向き合って、完成したカレーを食べていた。早紀がじゃがいもを齧りながら言う。
「少し硬かったなー。蓮ちゃん作る時は、もうちょい余熱で煮込みな」
「はい。でも、美味しいです」
「大丈夫だよ、このくらい、あんたでも作れる。拓也のこと、驚かせてやんな」
そう言って早紀は笑う。
「ありがとうございます。せっかくのお休み、つき合わせてごめんなさい」
「それはいいよ。それよりさ、あんた羅願堂辞めるって本当?辞めてどうすんの?次の仕事のあてはあるわけ?」
早紀は声の調子を変えて、聞いてきた。
「いえ・・・。あてとかはないんですけれど、わたし、実家に戻ろうと思っていて」
その言葉に、早紀がのけぞる。
「えー!! あんた、両親との仲、最悪じゃなかった? まぁ、わたしが言うのもなんだけど。戻ってどうするわけ?ていうか、何で戻るの? つーか、会いにくくなるじゃん」
「早紀さん、その当時、付き合ってた彼氏と実家飛び出してきた時、お父さんが包丁持って追いかけてきたんですよね」
「そうそう、で、彼氏がさ、刺すなら僕を刺して下さい、でも彼女は自由にしてやって下さい、とか言っちゃってさ、お前は、アシタカか!って感じだけど、そん時は、わたしもうるうるきて、もうわたし、この人に一生ついてく!とか思ってたのに、こっちきて同棲3ヶ月にして、よその女孕ませた挙句、とんずらこくとかね。やー若かったわ、あん時はわたしも…って、そんな話じゃないでしょ!」
「ナイス、のり突っ込み」
「うるさいわ。で、なんで実家、戻るのよ」
「あの、お金、貯めようと思って。一人暮らしで絵を描いてると、やっぱりどうしても貯まらないから」
早紀は腕を組む。
「ふーん、何?結婚資金?そんなん、拓也に出させればいいんだよ。あいつの方が年上なんだし、稼いでるんだし」
「いえ。そうではなくて・・・」
蓮は言い淀んで下を向く。ピンクのこたつカバー。本当に、早紀の部屋は女性らしくてかわいい。わたしとは、大違いだ。それを撫でながら、蓮は心に確かめる。何度も確かめたんだ、大丈夫。
「わたし、多分、拓也さんとも、別れると思います」
「はぁ!?」
蓮が言った瞬間、早紀はこたつを凄い勢いで叩いた。天板が浮き上がり、食器が滑る。
「どういうこと?説明して!」
あまりの剣幕に、蓮は慌てる。
「あの、わたし、実家に戻って働いて、お金を貯めようと思っているんです。両親とは確かにあまり仲は良くないですけど、実家なら、家賃もかからないし、我慢します」
「うん、それは分かるよ。で、それがどうして別れるのよ。あんたの家は外国にでもあるわけ?茨城だろ。関東だろ!」
「わたし、1年間で100万貯めます。そしたら、フランスへ行こうと思っています」
早紀は、黙って蓮を見返す。蓮も、早紀を見つめ返す。しばらく、沈黙の時間が流れた。やがて、早紀がひとつ、溜息をつく。
「・・・絵、か?」
「はい。向こうで、勉強したいです」
「結局あんたは、絵と心中する、ってことか」
早紀は腕を組んだまま、黙り込む
「で、こっちに帰ってくるつもりはあるの?」
「今は、わかりません」
重い。早紀の視線と、流れる時間が。
またしばらく早紀は黙っていたが、やがて言った。
「おかわり、まだあるよ。とりあえず、 食べるか?」
その声が優しすぎて、蓮はあやうく泣きそうになる。それを堪えて、皿を差し出す。
「まぁまだ1年あるしね。拓也とは、ちゃんと話し合いな。遠距離だけど、別れる理由にはならないんだから。あんたね、そんなことでわたしのこのカレー講座、無駄にしたらマジ、金取るかんね」
そう言って、ニッと笑った。
寺の、天井絵のようだ。墨絵の龍が八方睨みをきかせている。
「渋い、表紙だな。若手アーティストがターゲットなんだろ」
拓也は刷り上ったばかりの最新号の表紙を手で撫でる。いい紙だ。印刷が綺麗なわけだ。コストがかかっている。
「あら誰かと思えば。あなたの方から訪ねてくれるとは思ってなかったわ」
そう言って、机の両側に書類が積まれた編集部のデスクから聡子は顔をのぞかせた。
「まさかね。お前がこんな雑誌、作るとは思わなかったよ。このジャンルは画楽とか、老舗が多いだろ」
「その表紙も、京都にいる人でね。水墨画やっている人なの。なかなかいいでしょ。あなた今、若手をターゲットって言ったけれど、それは違うわ。確かに若い人がメインになるとは思うけれど、この雑誌のターゲットは若さは関係ない、無名の、でも才能あるアーティスト全てよ」
「才能、ね」
「ちょっと、付き合わない?」
聡子が煙草の箱を持って振る。もうやめたんだよ。あら、復活したんじゃなかったの?まぁいいじゃない、一本くらい。
結局、拓也は聡子のあとに続いて編集部のブースを出た。
「で、結局ここかよ」
手すりの先の空はこの前と違い、どんより曇っている。
「煙草はやっぱり、こういうとこで吸わないとね。あんなガラス張りの部屋。見世物じゃあるまいし」
「そりゃ同感だ」
拓也は手すりにひじをつく。聡子は隣りで、背中をもたれさせている。しばらく、何も話さず、煙草を吸った。風に、流れていく、煙が。
付き合えと言った割りに、何も話してこないのをみると、別に聡子も、特に話があったわけではないのだろう。ただ、時に、一本の煙草を吸う時間は、一人では長過ぎる時もある。かと言って、何かを話すには、あまりにも短すぎるのだが。
「絵描きの彼女さん、頑張って描いてる?」
「あぁ」
短く、答える。それきり、また黙ったまま2人で煙草を吸った。
結局、まだ半分以上残った煙草を、ステンレスの携帯灰皿ケースへ押し込むと、聡子はそのままオフィスへ繋がる扉へと戻りだした。歩きながら言う。
「別に、敵に塩を送ったわけじゃないわよ」
その後姿を眺めて、拓也は苦笑する。煙に紛らわせて、曇天へ呟いた。
「わかってるよ、でも、ありがとな」
30年ぶりに日本へきた名作「ひまわり」の効果もあり、3ヶ月にわたって開催された「ゴッホ展」は、閉展まで2週間を切ったその日曜日も、大混雑だった。
人波を掻き分けるようにして、なんとか糸杉や、自画像など、有名どころを見て回った蓮と拓也は、美術館に併設されたカフェの席につくなり、ほぼ同時に溜息をついた。
「なんつーか、疲れたな、これでも朝イチで来たのにな」
「ですね。やっぱり凄い人気ですね。でも、わたし驚きました。拓也さん、わたしと同じくらい、ゴッホのこと詳しいから」
ふふんと拓也は笑う。
「いつ勉強したんですか?」
「それはいいだろ。でもさ、最初は確かに、蓮が好きな画家だし、せっかく行くのなら・・・くらいの気持ちだったけど、調べていくうちに、引き込まれたよ。すげぇなって。作品じゃないよ、生き方そのものがさ」
拓也の言葉に蓮は黙って頷く。あぁ、嬉しいな。
「印象派の合同展覧会に出品した時も、無視されてさ、だって、印象派って当時の前衛のはずだろ?そいつらが無視するって。俺さ、そのこと知った時、その時のゴッホの気持ち考えたら、泣けてきたよ」
知らなかったよ。絵のこと、わたしの好きなこと、わたしが拓也さんに話すより、拓也さんが、話してくれるのを聞く方が、聞いている方が、何倍も嬉しいこと。
「すげぇよ。誰からも認められなくても、描き続けて、そうしてさ、100年以上経った今、それは、その信念は間違ってなかったって、証明してみせた。だから俺、今日、「カラスのいる麦畑」見た時、本当、鳥肌たったよ」
「あの作品が、絶筆って、言われていますよね」
「そう、それとさ、今日見て少し意外だったことがあって」
「何ですか?」
「いや、画集とか見るとさ、まぁ、俺は蓮ほど見てないと思うけど、有名どころのやつ?油絵の作品が多いじゃない?でも、ゴッホって、水彩も描いてたんだなって。それも、すごい繊細で優しい作品」
あっ、と蓮は思う。ゴッホの水彩のタッチ、その雰囲気と、白井が示現展で出した水彩の女性の絵。
「現代の、天才ゴッホ、か。なかなかやるじゃない」
蓮は思わず呟いて、笑う。どうした?と聞く拓也に蓮は言った。
「いえ。何でもないです。それより、拓也さん、今日、うちに来ませんか?」
蓮は、串でじゃがいもを刺して、硬さを確認する。下ごしらえは、昨日のうちに済ませてある。大丈夫、早紀のマニュアル通りやれている。ちなみにガス台を占拠していたキャンバスは押入れの中に突っ込んだ。何があっても今夜は開けられない。蓮は「こくうまカレー」の箱からルーを取り出しながら思う。ちゃんと辛口買った。でも、何ていうか、本当にこんな何も捻りがないカレーで大丈夫なんだろうか。その不安を口にした時の早紀の言葉を思い出す。
「ルーに加える隠し味とか、人参まともに切れない奴が生意気言うんじゃありません。蓮ちゃん、絵で大事なのは何?いつもあんた力説してるじゃない、わたしに。わたし、絵なんて描かないのに」
「デッサン、ですか?」
「そう、デッサン。あのね、はい、箱、裏返して、ルーの箱。そう、そのちっこい字ね、説明ね。そこの、その説明通りまずは作れるようになること。それが料理で言うところの、デッサンなの。それをいきなり隠し味とか、応用を求めるなっちゅー話。大丈夫だよ、捻りなんかなくたって。気持ちを込めてつくれば美味しい。ついでに、あんたの笑顔もつけてやんな」
うっ、なんか、余計なところまで思い出しちゃったよ、恥ずかしくなる。笑顔とか、自信ないんですけど。いつも、もっと笑ってよって拓也さんに言われている側なんですけど?
蓮は慎重にルーの塊を鍋へ落とすと、ゆっくりかき混ぜ始める。
やがて、部屋に、カレーの匂いが漂いだす。
「まさかこの部屋で、絵具の臭いじゃなく、この匂いが嗅げるとは思わなかったよ」
拓也が笑う。そこへ、炊飯器が鳴り、ご飯が炊き上がる。よし、蒸らしの時間を入れて予定通りだ。
「なんか、すごい真剣」
拓也がエプロン姿の蓮の後ろへそっと立つ。
「拓也さん? あの、ちょっと・・・あ」
手元に集中していた蓮は、思わず声をあげた。
拓也は後ろから、蓮がかきまぜるヘラに手を添える。
「これな、もう少し底までやりな。意外と焦げ付くから」
そう言って、離れていく。
うう、ちょっと、心臓に悪過ぎる。お願いだから座っていて下さい。
拓也は、蓮が作ったカレーを一口食べて、美味しい!と言ってくれた。その一言が、嬉しかった。何より、安心した。
「ちゃんと、視覚カレーだね」
「そうです。煮込み過ぎないように、昨日から頑張りました」
蓮は胸を張る。
「蓮、ありがとう」
突然頭を下げられて、動揺する。
「いえ、そんな。あの、良かったです」
蓮は言いながら考える。嬉しいけれど、何か逆に、言い出しにくくなっちゃったな。アルバイト、辞めたこと、実家へ戻ること、そして・・・。
「蓮」
拓也が呼ぶ。
「はい」
顔をあげて、蓮は思わず噴き出した。
拓也は、顔に、いつか蓮が紙で描いた、面をしていた。そして、蓮の、口調を真似て言う。
「わたしはリリーです。蓮さん、何か話すこと、ありませんか?」
笑って、あぁ本当にこの人は。この人は、わたしのこと・・・。そう思ったら、大切で、苦しくて、でも、心が決まった。
「拓也さん、お話があります」
「うん」
拓也が面を取って、テーブルへ置く。
「わたし、実は羅願堂のアルバイト辞めたんです」
「らしいね。それは、早紀から聞いたよ」
「はい、それで、実家に帰ろうと思っているんです」
「実家に?実家って、茨城の?」
拓也が顔をしかめる。拓也も、蓮と、親との確執は知っている。
「はい、両親との仲はあんまりですけれど、実家に帰って、そっちで働いて、お金貯めようと思っていて」
なかなか、肝心なことが言えない。それに気づいているのか、拓也は何も言わず、先を促す。
「これは、あくまで目標なんですが、向こうに戻って、1年で、100万円貯めたら、わたし、わたし・・・」
「100万貯まったら・・・? どうするの?」
いつもと変らない、拓也の声。だからこそ、言葉が、詰まる。それを、無理やり喉から引き剥がすように、蓮は一気に言った。
「貯まったら、わたし、フランスへ行きます。1人で。あの、絵の勉強をしに。こっちでも全然なのに、向こうで何ができるかなんて分からないけれど、やっぱり全然ダメで終わるかもしれないけれど、それでも1人で精一杯あがいてあがいて、向こうで、絵を描きます。描いて描いて、描いて・・・それで・・・」
あれ?言葉が出ない。描いて、わたし、どうしたいんだろ?有名になりたい?お金持ちになりたい?認められたい?あれ、何だっけ。
急に黙り込んだ蓮を、拓也は見つめていた。
「そうか、蓮は、絵を描くの、好きだもんな。フランスは、ゴッホもいた場所。芸術の生まれる街だな」
そう言って、天井を見上げると、長く、息を吐いた。
拓也は、先週、雑誌編集部の上役から突然呼び出されていた。先月、創刊した美術雑誌。その編集部員としての、異例の抜擢の話だった。推薦者の名はぼかされたが、察しはつく。
借りはできたが、それでも、念願、叶う、ってやつだ。ようやく、望んだ場所へ行ける。俺にとってそれは、フランスではない。雑誌の編集部だ。そうだろ?どう考えても、そうだ。
拓也は目の前に座る蓮を見る。
初めて会ってから、そろそろ、2年か。いつも、そばにいて、その切れ長の目で俺を見ていてくれた。俺の、誰よりも大切な人。
「蓮」
「はい」
「それで、俺に、どうして欲しい」
蓮は、つばを、飲み込む。大丈夫、何度も心の中で繰り返して、リハーサルしてきた。その通り、言え。ここが、正念場だ。
「わたし、拓也さんに、待っていて下さいなんて、言えません。だから、だから・・・」
言え!自分の心に鞭を入れる。動け、口。そのまま言え。言うべき言葉は、それしかないはずだ。
「だから、別れて、下さい」
口にしたら、力が抜けた。腕の、先から。
このカレー最後に、拓也さんにご馳走できて、良かった。最初で最後になっちゃったけど、許してください。蓮は、心の中で言う。
涙は、出さない。こんな話、わたしに、泣く権利はない。
しばらく、拓也黙っていた。
「・・・確かに、いつ帰ってくるか分からない蓮を待つのは、しんどいな」
「はい・・・」
「ところで蓮、行くなら、早い方がいいんだろ?」
「それは・・・まぁそうですけど。お金貯めなきゃいけないですし」
「200万」
拓也は、いきなり言った。意を、決したように。
「はい?」
蓮は拓也を見る。
「まぁ・・・全然、少ないんだけど、一応俺なりに貯めていたんだ。こんなことを言うのは、もっと先にしたかったし、こんな場面で言うつもりもなかったんだが、蓮と、いつか、一緒になりたくて」
「拓也さん・・・」
フランスか、拓也は思う。全然、知らない場所だ。雑誌の仕事、あるだろうか。いや、そもそも、フランス語が分からない。
せっかく、望んだ場所へ行けると思ったが、これで、この言葉で、振り出しか。まぁ、それも面白い。
何より、蓮がそばにいない人生に、どれほどの面白さがある。
「フランス、俺と一緒に行かないか?」
「え・・・?でも拓也さん、お仕事も・・・それにお金、そんな、使わせられません、わたしの為に」
「いや、仕事はさ、どうせ、このままやっててもずっと雑誌の編集部員にはなれそうにないし、いいんだよ」
大丈夫だ、うまく、自然に笑って言えたはずだ。それでいい。蓮を、不安になんかさせるか。
「それに、わたしの為、じゃない。2人で行くならこの金は、俺たち2人の為、だ」
「拓也さん・・・それ、本気の、本気で言っていますか?」
蓮の、燃えるような眼差し。こちらの真剣さを、測りにきたか。蓮に、誤魔化しは通用しない。もとより、そのつもりもない。俺は、本気だ。拓也は笑って言った。
「今度こそ、リリーに誓うよ」
拓也さん、本当ですか。わたしの為に、大事なもの、犠牲にしていませんか。わたし、拓也さんに迷惑かけてまで、人生の邪魔してまで、自分の夢を追うつもりはないです。
「蓮」
「はい」
「才能って、なんだろうな」
「・・・分かりません」
「拓也さん、本当に、あの、本当に・・・わたしと一緒にフランスへ行くつもりですか?」
「忘れたか?蓮が、俺に言ったんだぜ」
(拓也さん、わたしのこと、ちゃんと見ててくださいね)
いつかの花火、屋上の、ビアガーデン。
「前も、言っただろう、蓮が行くなら、俺も行くって。それがフランスでも、同じことだ」
「でも・・・でもわたし、そこまでしてもらって、わたし、拓也さんに何もお返し出来ません」
「何言ってるんだ。蓮はもう、ギフト(贈り物)をくれているじゃない。いつも、見せてくれているじゃないか、全身全霊をかけて、ただひたすらに絵を描くという、かけがえない、ギフト(才能)を」
拓也さん、蓮は心の中で言う。なんでそんな事、言うんですか。言えるんですか。こんな、わたし、身勝手なのに。拓也さん、わたし、今日は、絶対に泣かないって決めてきたんです。ちゃんと、拓也さんに嫌われて、悪者になるって、心に誓ってきたんです。なのに、なんで、そんなこと、言うんですか。
蓮は、じっと、目を瞑っていた。
拓也さん、わたし、まだ、拓也さんの隣りを、歩いていいんですね? 隣りを、歩いてくれるんですか。
やがて、目をあけると、蓮は、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
色々思った言葉は全部出なくて、ただ、それだけ、その言葉だけ、口から漏れた。
蓮は、拓也に、深く深く、頭を下げて、しばらく、そのままでいた。
ようやく、顔をあげると、拓也の顔をがすぐそばにあった。
そのまま、髪を撫でられ、唇を奪われた。蓮は、それを落ちついて、受け入れた。もう、いつかの時みたく、怖くはなかった。この人がそばにいてくれるなら、わたしは描ける。全力で、どこまでだって、描いてみせる。
心の奥の方、身体を丸めていた極彩色の虎が、面倒くさそうに、1回、2回と、長くしなる尻尾を、振っていた。(完)
こんにちは、臨です。
『才能ないね』、最終話をお読み頂き、ありがとうございます。そして、このお話に、最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
この物語は、私にとっても、何かを表現する、ということの意味を改めて考えさせられるものでした。
蓮や拓也をはじめ、この物語に登場する彼らは、皆さんの目にはどのように映ったでしょうか。作者の私としては、誰一人、脇役のつもりで書いた者はいません。それぞれに、人生を背負わせたつもりです。
どうか、もし、宜しければ、この物語を完走し、さらにその先へと歩いていくであろう、彼らへ、エールでも、叱咤でも、なんでも構いません。一声、声をかけて頂ければ、幸いです。
では、また、次の物語で、お会いしましょう。




