8話「王女の決意」
「お休みのところ、失礼いたします」
レイナが静かな声で言うと、部屋の奥のほうで誰かが動く気配があった。「ん……」と可愛らしい声を発している。
「その声は……レイナ? さっきから外が騒がしいようですが、それと何か関係が?」
「はい、ございます。実はアリゼ様とお会いしたいという方をつれてまいりました」
アリゼと思われる人物はきょとんとした顔で首を傾げる。
レイナはスカートの端をつまんで慎ましく頭を下げると、ユウトを手で促した。
「アリゼ、俺のこと、分かるか?」
ベッドの方に少し近づく。アリゼが驚きに支配された顔をしているのが分かった。
「その声……ユウトさん!?」
アリゼはユウトのことを凝視してくる。信じられないと言った様子で、目を見開いていた。
「どうしてユウトさんがここに……」
「どうしてもアリゼに会いたくてさ。衝動を抑えられなかったんだ」
「なんですか、それ……」
呆れたような言葉を出していたが、表情は嬉しそうだった。
アリゼはベッドから身を起こすとユウトの正面に立つ。
「その、元気でいらっしゃいましたか?」
「身体の方はピンピンしてたよ。精神的には微妙だったけど。アリゼの方は?」
「私は……もちろん元気でしたよ」
アリゼはえへへ、と笑ってみせる。だがすぐに気づく。これもまた虚勢から来る笑顔なのだと。
その様子を見て確信する。弱々しいその姿はアリゼ・ベルクシュトレーム本人だと。
「俺が無理してここに来たのも、ずっと引っかかることがあったからなんだ」
「引っかかること……ですか?」
「アリゼはどうしていつも笑うんだ?」
よく意味が分かっていないようで、アリゼは答えに困っていた。
「人間って嬉しいことや楽しいこと、あと面白いことがあった時に普通は笑うものなんだよ。常に笑ってる人間なんていない。けどアリゼはいつも無理して笑い続けてる。……違う?」
アリゼは困ったような顔をするが、すぐにまた微笑みかけてくる。
「本来ならそうだと思います。でも私はこの国の王女なんです。皆の前で悲しい顔や落ち込んでいる姿を見せたら大きな騒ぎになります。心配をかけないためにも私はいつでも笑っていなきゃならないんです」
「それぐらいは分かってるつもりだ。王女として振舞うときは取り繕う必要があるかもしれない。でも、それをいつまでもやり続けたら心が磨り減っていくだけだ。せめて身内や親しい人間しかいない場所では気を張る必要はないんじゃないか?」
近衛騎士団の隊長であるリーチェも、アリゼのことを気にかけていた。ついさっきまで話していたリオンも元気がないといって心配していた旨の発言をしていた。
これらはアリゼがどんな場面でも仮面を被り続けていることを裏付けている。
「……それが出来たら苦労はしないですよ」
アリゼは初めて弱音を覗かせる。けれど苦しそうに笑顔を作る。見てて胸が痛んだ。
「あの、失礼ですがユウトさんは何故私のことをそこまで気にするのですか? ユウトさんが心配してくれる気持ちも痛い程分かるのですが、わざわざ危険を冒してまで会いに来る動機が分からないんです。ただでさえ別世界から来てて、私の事は全然知らないはずですのに……」
切なげな目で訴えかけてくる。
ユウトはふう、と一息入れると改めてアリゼを正面から見る。
「アリゼは俺と同じなんだよ」
「私とユウトさんがですか? そんな、全然違います」
「そんなことないさ。何しろ同じ人間なんだから、一つや二つ共感できることはある。特にアリゼの笑顔に隠された感情とやらは、推測が正しければ俺と同じものを抱えているんだ」
心の奥底に隠していた不安。先行きの見えない未来への不安。それともう一つ。
「アリゼは未来に対して怯えてるんじゃないか?」
核心を突くと、アリゼは苦々しい顔を浮かべた。もはや笑顔で隠すことすら出来ていないようだった。だがそれが嬉しかった。
「俺はさ、ずっと怯えてたんだ。決まりきった未来を歩むことに。流され続けて、自分で選択しないまま一生を終えて……。そんなの操り人形と同じだ。だらだらと学生生活を過ごして、興味もない職業に就いて、適当な異性と結婚して子供を産む。退職したら孫と戯れて一生を終える。……悪くない人生だ。けど、それは誰もが考える幸せな人生であって、自分にとって幸せであるかどうかって聞かれたら、必ずしもそうじゃないなんだ。もっと面白い専門分野を学んで、本気で夢見た職業に就いて、本気で愛した女性と結婚して。老後については、まだ漠然とした思いしかないんだけどさ。とにかく、大きな流れに逆らいたいわけじゃない。予定調和の未来じゃなくて選択した未来を歩みたいんだ。けどこれまでの人生は前者だった。今も流されたままだ。このままだとつまらない人生を送ってしまう。そんな予感がするんだ。それが怖くて怖くて仕方ない。俺はそんな未来に怯えているんだよ……」
アルコールが頭に回っているわけでもないのに、一度心情を吐き出すともう止まらなかった。壊れた蛇口のように奥底に溜まっていた感情が溢れ出す。
「この感情を色んな経験を積んでいくうちに完璧に隠す術を身につけた。俺も仮面を被って生きているんだ。いや、俺だけじゃなくて多くの人間が仮面を被って生きてるんだ。アリゼだってそうだ。ただちょっと隠すのが下手なだけなんじゃないかな。そして偶然にも、仮面の下の素顔は俺と同じだった。それだけの話だ」
そしてだからこそアリゼに興味を持ち、話をしてみたいと思った。自分と違って不器用な少女を何とかしてやりたいと思ったのだ。
「教えて欲しいんだ。アリゼはどうしてそこまで無理をし続けるんだ。いくら王女だからって、限度はある。臆病になってる理由を知りたいんだ」
アリゼの肩を掴んで懇願する。
彼女は視線を彷徨わせて困惑していた。ブリジット王子にプロポーズを受けたときに似ている。
「分かりました」
「……アリゼ?」
「私の胸中をユウトさんに晒します」
一度覚悟を決めたアリゼの顔は芯の通った力強い顔をしていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それなりに長い話になるとのことで、ユウトとアリゼは席についた。レイナがお茶を汲んでくれて、二人の前に綺麗なカップが差し出される。アリゼはカップに口を付ける。一口飲んだところで落ち着いたのだろう、長い息を吐いてカップを置く。
「レイナがここにいるということは、リオンのことは知っていますね」
頷き返すと、アリゼは下に目線を落とした。口を開いて滔々と語りだす。
「私は父様……現国王の血を受け継ぐ正式な王女です。故に小さい頃から英才教育を受けていました。しかし出来はあまりよくありませんでした。必死にやっているのですが、中々身につかないのです。私には王女の才がまるでなかったのです」
胸に当てた手に力が入るのが見えた。
アリゼの自身のなさはもしかしたら、自分の才能のなさを嘆いているからではないかと想像する。
「幼い頃は中々出来ないことに嫌気が差していました。ですから、馬車に乗った時に外から見えた同年代の無邪気な姿に憧れました。厳しい勉強をする必要もなく、分け隔てない関係で笑い合う姿が羨ましかったのです。その思いは今でも残っています。市民の方達からしたら、何を贅沢言ってるんだ、と思われるかもしれません。ですが内に流れる血筋を気にすることなく一生懸命生き抜く彼らは私なんかより輝いて見えました」
王家というからには、かなり徹底した生活を送っていたのだろう。特に出来が悪いときたら、それだけ窮屈な時間を過ごすことになる。それらの要因が重なれば自由な市民に憧れるのも無理はない。
「転機が訪れたのはリオンが一族になった時です。最初は驚きました。鏡に姿を映したように私とそっくりでしたから。私とリオンは複雑な関係ながらもどんどん親しくなっていきました。リオンが私と同じ教育を受けていたから共感できたというのもあるかもしれません」
影武者であるリオンは必然的に王女と並ぶ立ち振る舞いが必要とされる。だから彼女もアリゼと同じ道を歩んだ。
「しかし、しばらく経つと私とリオンの違いはハッキリと表れます。リオンは私と違って優秀でした。私が何回やっても覚えられない事をリオンはたった数回で習得するのです。姿勢や態度だけで言えば、リオンの方が立派な王女でした」
ユウトも同じような感想を持った。離宮で出会ったリオンと目の前のアリゼは口調も容姿も似ているのに、覇気は圧倒的にリオンの方が上だ。これが初見だったなら間違いなくリオンを王女だと勘違いしていたはずだ。
「以降、リオンは私に代わって民衆の前に立つ機会が多くなりました。私は裏舞台に引っ込んで、リオンを越せるよう精進するフリをしていたのです」
「フリ?」
「はい、フリです。実際の私は諦観を抱いていて、このままリオンに任せてしまった方が楽であると心のどこかで思っていました。そのまま過ごしていればブリジット王子と結婚することになるのに、それさえもリオンがかばってくれると思い、考えることを放棄しました。けど、そんな甘い考えは通用しません。もしかしたらこれは私に対する罰なのかもしれませんね」
アリゼは自嘲する。
ここまで来るとなんとなく先は読めていた。
「一ヶ月前、リオンが病で倒れました。それを機に、今まで表に出なかった私が強制的に立たされることになりました。また、運命とは意地悪なもので、マイアルズ王国から婚約の話も持ち上がりました。リオンが倒れたことから回答は保留状態ですが、この前のパレードの王子を見るに、既に退路は塞がれているんです」
「急に訪れた王女としての重責がアリゼを襲った。同時に考えてもいなかった未来の話をされてどうしたらいいのか分からなくなってる。そういうことか?」
「その通りです」
真相は問いたださなかったが、アリゼが迷いの森にやってきたのは度重なる責任の重さに耐え切れず、思わず脱走を謀ってしまったからなのだと思う。
まだ中学生ぐらいの少女が国全体の注目を浴びて、かつ隣国の国交の事も考えた付き合いを強いられる。……その重荷がどれだけ重いのか想像も付かない。少なくともユウトの感じる不安なんかより遥かにでかい。
「ここまで来たら認めます。確かに私は無理して笑っています。でも笑わないといけないんです。これまではリオンに頼ってばかりでした。これからは私がこの国を支えていかないといけない。それなのに今、弱音を見せている時ではないんです。外見だけでも毅然とした態度で振る舞い、民衆はおろか、親しい者や身内にも私は大丈夫ってことをアピールしないといけないんです」
アリゼは拳をグッと握り締める。力の入った拳は震えている。アリゼ自身の心が震えているようだった。
「アリゼは……それでいいのか?」
不安になって訊ねる。アリゼはニコリと笑う。強がった笑みだ。彼女は分かった上で笑っている。
「元はといえば私が怠惰であり、傲慢であるから招いた事態です。今度こそ王女として国民を支えないといけないって感じているんです。なのでもう逃げたりしません。自分の立場としっかり向き合うつもりです」
それはつまり、王女として何もかも受け入れるということだ。となると、ブリジット王子のプロポーズを受け入れることも暗に示しているわけであり……。
「ユウトさんと最後に話せて良かったです。全て吐き出したら大分楽になりました」
えへへ、と彼女は笑った。
ユウトはその姿を見て、衝動的にアリゼを抱きしめた。
「ゆ、ユウトさん?」
「アリゼは……何もかも認めて、流れに全てを委ねるんだな?」
「……はい」
ここで離れたらアリゼは存在ごと消えてしまう。そんな風に感じて強く強く抱きしめる。
「アリゼは未来を選択したいとは思わないのか?」
「出来るならしたかったです。けれど私は王家の血を受け継ぐ者。一族は代々同じ道を歩んできました。私だけ抜け駆けするのは卑怯ですよ」
代々同じ道を歩んできた。先代のベルクシュトレーム家の人間はみな、このような思いを抱いて生きたというのか。
仕方ないことであるのは分かる。だってこれは個人の問題ではなく国の存続に関わる問題なのだから。
それでもあまりに可哀想だ。価値観の違うユウトには異世界の価値観を簡単に許容できるはずがなかった。
強く抱きしめるユウトに、アリゼは文句の一つも言わず逆に腕を回してくる。
「ユウトさんに今、元気を貰いました。心配しないで下さい。今度こそしっかりした私を見せますから。四日後にブリジット王子のプロポーズを受け入れる声明を出します。その時の私を見ていてください。ユウトさんの記憶に私を刻み込んでください」
囁きかける声は慈愛に満ちた天使のような声だった。
今ここで、慰めの言葉をもっと貰っていたらユウトの涙腺は決壊してしまっただろう。もうこれ以上、強がる力はユウトにも残されていないのだから。
「これで最後です、ユウトさん。またいつかお会いできることを心から願っています」
優しい音色で紡がれた言葉は別れの言葉だった。
身体を離して華奢で可憐な少女の姿を一望する。幼い見た目なのに、そのたたずまいは王女であることを感じさせてくれた。