2話「迷いの森の美女」
――話は一ヶ月前にさかのぼる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
寝起きの直後に記憶が混濁することはたまにある。特に大量のお酒を飲んだ翌日なんかはその傾向が現れやすい。
見知らぬ場所で目を覚ましたりすると混乱はさらに大きくなる。ごみ捨て場で横になっていた時は流石に驚いた。
目の前には舗装のなされていない自然なままの地面と立派な木立が無造作に並んでいる。
……どうやら今日も記憶の混濁が発生しているようだった。
「……ここ、どこだ?」
上空からは木々の隙間を縫って地上に降りてきた太陽の光が明るく照らす。鳥もチュンチュン鳴いていて、自然に溢れた場所で良い朝を迎えられたことだけは理解出来た。
だがそれ以外は疑問符を浮かべることしか出来ない。何故自分は森の中にいるんだろう?
昨日のことを思い出そうとする。確かに友人と酒を飲んでいた。けど、泥酔するほど飲んではいなかったはずだ。あれから更に飲んで、気づかぬ内に寝てしまったのだろうか。
まあいい。とにかく今は自分の居場所を把握するのが先決だ。
傷ついたジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。電源を付けて愕然とした。圏外だったからだ。地図アプリを起動してみても当然位置情報は読み取れない。
「参ったな」
自分は一体どこまで来てしまったんだろう。たった一晩で電波の繋がらない森の中まで……それも酔った状態でたどり着いた、と。
そんなことありえるだろうか。あまり現実的な考えではない。
なら他の可能性を考えてみよう。
その一、何者かに誘拐されたという可能性。何故、どうして俺を狙ったのか。誘拐されたのにどうして放り出されているんだろう。これもあまり良い案じゃなさそうだ。
その二、異世界にやってきた。それなら説明がつく。やはり現実的ではないけれど。
「とにかく森を出て人里を目指すか」
ここで立ち止まっていても仕方ない。ユウトは一度体をうーんと伸ばして歩き出す。
しばらく歩いて、巨木の傍を通り過ぎようとしたところだった。突然、人が木の陰から飛び出してきた。
ギョッとして、そのままかわすことが出来ずにおでことおでこをぶつけ合う。二人して間抜けにでこを抑えながらしゃがみ込む。
「いてて、だ、大丈夫ですか?」
よろよろと立ち上がって事故を起こした相手を見る。
美しい少女だった。日本では漫画やアニメでしか見かけない完璧過ぎる金髪碧眼。ウェーブがかった髪は肩の上まで伸びたセミロング。小さな鼻はしかし外国人のような高い鼻だ。ぱっちりした瞳に可愛らしい赤い唇。肌は雪のように白く、溶けて消えてしまいそうな儚さを感じる華奢な体躯。西洋のお人形に魂を宿したような少女だった。
「だ、大丈夫です。そちらの方こそお怪我はありませんか?」
可愛らしい姿だが意外と凛とした声音だった。
「……あの、どうかされましたか?」
彼女はこちらの顔を覗き込んでくる。
そこでようやくユウトの氷結が解けた。
「あ、い、いえ、ちょっと驚いちゃって」
見惚れていた、なんて言えるわけがない。
「お怪我はされてないんですね?」
「ええ、まあ」
喋り方もかなり丁寧だ。よく見れば身に纏っている衣装も高そうなドレスを着ている。お嬢様なのかもしれない。
「すいません。私が急いでたせいで飛んだご迷惑を……」
「自分も不注意でしたからお互い様です」
まだ中学生ぐらいの容姿だが、丁寧でハキハキとした口調は年不相応だ。ユウトもつられて丁寧口調になってしまう。
「それよりもどうしてそんなに急いでたんですか? 何か大切な用事でも?」
「いえ、それは……あら、そういえば私の顔を見ても驚かないんですね」
彼女は不思議そうに見つめていた。その姿だけで絵になるような美しさだ。
「どういうことです?」
「分からないのでしたら、わざわざ自分から申し上げる必要はありません。私のことはアリゼとお呼び下さい」
「じゃあ自分は……ユウトと呼んで下さい」
一瞬悩んだが下の名前を名乗ることにした。こんな美少女に名前を呼んでもらうチャンスだ。少しむず痒くなりそうだけど。
「分かりました。ユウトさんと呼ばせて頂きますね。それでユウトさんはどうしてここにおられたんですか?」
「あー……えっと、実は迷ってしまって。途方に暮れててとりあえず人里を目指してた所です」
それらしい理由を適当にでっち上げる。
アリゼは一瞬逡巡した顔を見せるがすぐに笑い咲いた。
「でしたら私が途中までご案内いたしましょう」
「いいんですか?」
「お安い御用です」
ニコニコ笑う少女にユウトもつられて微笑んでしまう。
人気のない森で優しそうな子に出会えて良かった。彼女なら質問すれば色々答えてくれるはずだ。
ユウトは既にある確信に至っていた。
見知らぬ土地に、ファンタジーの物語に登場しそうなお嬢様。それに完璧すぎる外国人の造形。
これら全てが当てはまるのは一つだけ。可能性その二、異世界にやって来たしかあるまい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
並んで歩きながらアリゼと色んな話をした。
まずこの世界の情報を簡単に聞き出した。
どうやらこの世界はファンタジー世界お馴染みの中世ヨーロッパ風の街並みが広がっているようだ。
またご丁寧に剣と魔法が存在し、人間と敵対する魔族やらもいるらしい。そこに人間の国同士との対立もあり、王道ファンタジーのテンプレを全て踏襲していると言って差し支えない。
「他にも王族、貴族、平民、奴隷といった階級も存在しています。……奴隷については色々思う所があるのですが……」
アリゼは基本的に笑顔で説明してくれる。けれど時たまこのように陰がさす時がある。
「アリゼさんが気にやむことはないですよ。古今東西、奴隷問題は存在するんですから」
「ユウトさんはお優しいですね」
彼女がまた微笑む。でも儚い笑顔だ。
「あの、一つお願いがあるんですけど聞いてもらっていいですか?」
「構わないですよ」
「硬い口調を崩して自然なユウトさんのまま接して貰えませんか?」
「それはつまり敬語をやめてタメ口で話してほしいということですか?」
「はい。見た限りだとユウトさんの方が年も上のようですし」
「と言われましても……」
この少女を相手にすると自然と敬語になってしまうのだ。なんというか、神秘的な雰囲気を彼女は纏っている。
「私の周りの人達は真面目で丁寧で、相手を敬う気持ちを持っています。けど、決して対等ではないのです。私はもっと楽に接してほしいのにみな畏まってしまう。ユウトさんとは普通のお友達のように話してみたいのです」
彼女の背景はまだ完全には見えてこない。けれど彼女は普通の関係とやらを切望しているのは痛い程伝わってきた。
ユウトはふう、と気持ちをリセットするために息をつく。
「じゃあ、これからはこんな感じで話すけどいいんだな?」
「は、はい! 名前もアリゼと親しげに呼んで下さると嬉しいです!」
とても喜んでくれた。普段の口調になっただけなのに。アリゼはどれほど丁重に扱われたお嬢様だったんだろう。
「アリゼの方も楽に話してもいいんだぞ?」
「あはは、私はこの話し方が自然なんですよ」
そんなのありだろうか。まあ、満面の笑みが見れたから良いとしよう。
「そういえばユウトはどこから来たのですか? あまり見かけない格好をしていますけど……」
「東の島国からやって来たって言えばいいのかな、この場合」
このように言えば相手は大体納得してくれる。東の島国という言葉の利便性よ。
しかしアリゼ相手にはそうはいかなかった。
「ここからさらに東は魔族が治める地域で人が住める場所じゃないと学びましたが……」
「マジか」
アリゼの瞳に疑惑の色が混じる。
困った。ここで彼女に疑いを持たれたらやりにくくなる。
ここは真実を伝えた方がいいかもしれない。
「ごめん。東の島国っていうのは嘘だ。アリゼは別世界の存在を信じてる?」
「別世界ですか? 魔族のみが暮らす魔界があるのは存じています」
「人間が別世界からやって来たって例はやっぱりない?」
「いえ、聞いたことは……というより、その言い方、まさかユウトは……」
「俺はどうやら別世界からやって来たみたいなんだ。簡単に信じられないと思うけど」
これは賭けだ。失敗したらアリゼとの交流はここで諦めるしかないだろう。
だがアリゼは疑うどころかむしろ目を輝かせてユウトを見つめていた。
「や、やっぱりこの世界とはまるで違うんですか!?」
「聞いた限りでは」
「詳しくお聞かせください!」
彼女は今まで一番興奮していた。
今度はユウトが語る番だった。
一つの物事を上げると質問が十にも二十にもなって返ってきた。この世界にはない文化や技術を口にする度に感嘆の声を上げていた。
「で、これがスマートフォン。略してスマホだ」
スマホを取り出して実際に起動してみる。アリゼに手渡して操作方法を説明する。
「わー、凄い、凄いです! こんなものがニホンにはあるのですね!」
ここまで感動してもらえるとこちらとしても気持ちいい。
ユウトはアリゼとの異世界交流を楽しんでいた。アリゼがスマホを弄る姿を見てから、パッと画面の方を覗く。そこで気づいた。
「アリゼ、ちょっと携帯見せてくれる?」
「ケイタイ……? あ、これのことですね。すいません、みっともなくはしゃいじゃって」
「見てて微笑ましかったよ。けど今はそれよりも」
ユウトが見たのは携帯に表示された時刻だ。
この世界に来て初めて携帯を起動してからかなり時間が経っている。
アリゼと出会ったのも始動してから一時間も経っていないはずだ。
口を動かしながらだったけど足は常に前へ進めていた。なのに未だに風景が変わる気配はない。
「アリゼは森に入ってからどれぐらいで俺とぶつかったんだ?」
「そこまで長い時間は経っていなかったはずですが……そういえばまだ出口が見えませんね」
アリゼの顔に不安が現れる。
やはりそうか。どうやら俺たちは迷子になってしまったらしい。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
既に日が暮れ始めていた。
最初のピクニック気分はとうに消え、二人には焦りと不安しかなかった。
「くそ、どこまで行けば出られるんだよ!」
ユウトも余裕がなくなり、苛立ちの言葉を吐くようになっていた。
「ユウトさん、こちらに来て貰っていいですか?」
アリゼの声にユウトは振り向く。
そうだ、ここで苛々してる場合じゃない。アリゼがいるのだ。彼女を不安にさせてはいけない。
ユウトはアリゼを見ることで冷静さを取り戻していく。
「これを見てください」
アリゼのすぐ横に移動し、彼女が指し示す木の表面を覗く。
「これはさっき私が付けた印です。前を歩いていたはずなのに同じ地点に戻ってきています」
「ってことは何だ、俺たちはずっと同じ場所をぐるぐる回ってるってことか?」
「そういうことだと思います」
何てことだ。そんな典型的なイベントがここで発生するか? 解決する方法なんざまるでないぞ。
「どうにかすることは出来ないのか?」
「……すみません」
「ああ、いや、アリゼのせいじゃないんだから謝らないでくれ」
しゅんと落ち込む彼女の頭に手を乗せたくなる衝動が起こる。堪えるのが大変だった。
「この森は魔力が高まると人の方向感覚を惑わせるんです。通称迷いの森と呼ばれています」
「アリゼはそんな危険な場所に駆け込んできたのか?」
「普段は滅多に起こらない現象なんです。魔力が高まるのには一定の期間が必要で、次はまだまだ先のこと……と聞いていたのですが」
こうして魔法が発動してしまった、というわけだ。
「もしかしたら俺がこの世界にやって来たからかもしれないな」
「どういうことですか?」
「この世界に召喚の魔法はある?」
「魔物と契約を交わしたものが、ゲートを開いて呼び寄せるというのはあります。でも人間を別世界から召喚するという魔法は聞いたことがありません」
「もしかしたら何かの間違いで別世界の俺が召喚されたのかも。それならこの森に魔力が充満してもおかしくないわけだ」
これは予想だ。
召喚魔法には高い魔力が必要となる。召喚の際に開かれるゲートとやらが閉じる際、余った魔力が溢れ出して森を迷宮化させてしまった。
正解かどうかは分からないが辻馬は通る。
「ただ理由が分かったところで打開策が生まれるわけじゃないんだよな」
悔しげに呟く。
その直後だった。突然、獰猛な野獣の声が辺りに響き渡る。
「な、何だ?」
「た、大変ですユウトさん! 今のは魔獣の鳴き声です」
魔獣の鳴き声!?
どうしてこのタイミングで?
いや……もしかしたらやつらは迷宮に迷い込んだ獲物を弱るところを見計らっていたのかもしれない。
再び獣の鳴き声が響く。それはさっきよりも近い場所から聞こえた。
「に、逃げましょうユウトさん」
「ああ、すぐにこの場を――」
声のした方角の反対側に体を向け、逃げ出そうとする。
だが遅かった。既にハンターはすぐ側まで迫っていたのだ。
闇が深くなった森の中から狼のような獣が現れる。目は奇妙に赤く光り、鋭い牙が口の隙間から見えた。
現れた狩人は三体。彼らは冷静に獲物の動きを観察している。
「アリゼ、俺の後ろに隠れて」
「は、はい」
ゆっくりと横に移動しながら狼達と睨み合う。そっとしゃがみ込み、手頃な木の棒を握る。
「心もとないけど……やるしかねえ」
このまま牽制しあっても精神は摩耗するだけで勝機は完全になくなってしまう。
なら、やられる前にやる。それしか方法はない。
ユウトがほんの少しの闘争心を見せた瞬間、三匹の獣は一斉に動いた。
真正面から突っ込んできた魔獣に木の棒を叩きつける。
すぐにもう一匹も突っ込んでくる。とっさに構えてどうにかガードに成功する。だが敵はかなりの力を有していて、ユウトは後ろへ吹っ飛ばされてしまう。
するとアリゼが無防備になる。最後の一匹は反撃の手段を持たない彼女に狙いを付けた。
「アリゼ!」
木の棒に食らいつく魔獣を蹴り飛ばし、急いで彼女の助けに入ろうとする。
けど、もう間に合わない。魔獣はアリゼの懐に入り――
――次の瞬間、眩い閃光と爆音がユウトを襲った。
「今度は何だ!?」
光に視界が奪われ、目を腕で覆う。耳鳴りが鼓膜で鳴り響く。
謎の衝撃から少しの時間を置いてユウトの感覚が回復する。
「アリゼ! 無事か!?」
「この魔法は……リーチェの……」
アリゼは地面に座り込んでいた。ドレスが泥で汚れてしまっていた。でもそれを着る彼女に怪我はない。目をパチクリさせて放心している。
無事な姿を確認してユウトは安堵のため息をつく。
「良かった。本当に、良かった……」
まだ出会ってから数時間しか経ってない。けれどユウトの中で彼女の存在はかなり大きなものになっていた。なぜかは分からない。けど、誰かが守ってやらないと消えてしまいそうな雰囲気を彼は感じ取ったのだ。
「貴様。アリゼ様に馴れ馴れしく近づくでない」
アリゼを見つめるユウトに鋭い声が飛んでくる。厳然とした声音だが、この甲高さは女性のものだ。
背後から声がしたので振り向こうとする。横目に鋼色の切っ先が映り、ピタリと動きを止める。レプリカなら何度か見たことがある。けれど本物を見るのは初めてだ。
ユウトは何者かに剣を突きつけられている。
「それ以上動くな。何かしようとしたら――容赦なく首を斬る」
背後の声――恐らく剣の所持者だろう――には殺意が篭っていた。
本能が危険を告げる。非常に不味い事態だ。もしかしたら魔物に襲われるよりも……。
「ま、待ってリーチェ! 彼は私を助けようとしてくれただけなんです!」
「今回ばかりはアリゼ様の命でも受け入れられません」
抵抗の意志がないことを示すために両手を挙げる。汲み取ってくれたのか、剣が引っ込められる音がした。
横目で後ろに立つ誰かの姿を確認しようとする。鎧を着た黒髪の女が馬に跨ってこちらを見下ろしている。
「とりあえず、抵抗の意志はないようだな」
「武器も持ってないし魔法だって使えない。アリゼとだって偶然出会っただけだ」
事実を説明しただけなのに今一度剣を突きつけられる。
「リーチェ!」
「甘えたことを考えないで下さい、アリゼ様。ご自分の立場をいい加減自覚してください」
リーチェと呼ばれた騎士の言葉にアリゼは言葉を返さなかった。沈痛な顔を浮かべながら悔しそうに体を引っ込める。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 一体どういうことなんだ?」
「まさか貴様……アリゼ様のことを知らないのか?」
リーチェは訝しげな声を上げる。
「貴様の前に立つ彼女はアリゼ・ベルクシュトレーム様だ。我がウルカト王国の王女その人であるぞ」
――これがユウトとアリゼ、二人の出会いだった。