黄緑空気な日常(2)
真っ黒に汚れた衣類を、汗だくになって洗濯する女性の後ろ姿があった。
天頂に昇った太陽は、肌がひりつくほどの光線を容赦なく彼女の首筋めがけて突き刺す。
「暑いわね……気が遠くなりそう……」
女性はふと自分のすぐ脇に積み上げられた衣類の山を見て、現実逃避をするかのように空を仰ぐ。
とがった顎の下を汗の雫が伝って落ちた。
夏間近のこの季節。洗濯に出される衣服は半端な量ではない。
加えて油や薬品、金属の粉末。アカデメイアで出される洗濯物には、頑固な汚れをつけた衣類が多く出される。
とても水だけで洗って落ちる汚れではない。
あまりの過酷な作業に、つい最近雇われたばかりの若い洗濯婦が暑気中りの末、あっさりと職を辞してしまった。
職を得るのも難しいこの御時勢に、せっかく見つけた仕事を自分から辞めてしまうのは、いかにここアカデメイアの職場環境が過酷であるかを物語っている。
懸命に洗濯をするセボン洗濯長もいい加減、忍耐の限界に来ていた。
忌々しげに空の太陽を睨むセボン洗濯長。洗濯物をからりと乾かしてくれる太陽の恩恵も、行き過ぎれば疎ましくもなる。ただでさえ洗濯は重労働の上に、強い日差しが体を焼いて体温を上げるのだ。こまめに休憩を入れながら作業をしなければ、いつか倒れてしまう。
だが、悠長にしていては洗濯物が溜まる一方だ。
セボン洗濯長は歯を食いしばって気合いを入れ直し、目の前の洗濯物の山に向き直る。
その視界の隅で、薄汚れた灰色の人影が陽気に揺れ動いていた。
「石鹸、石鹸~♪」
鼻歌を歌いながら石鹸で汚れた手を洗うグレイス。身につけている衣服もすっかり汚れてしまっている。
いったい、何の実験をしていたのか。作業用の前掛けは白いカンバスとなり、芸術的なまでの黒い油絵が描かれていた。
グレイスは手を泡だらけにしたまま、笑いながらセボン洗濯長の傍まで走ってくる。
「セボン洗濯長! また、汚しちゃいました。あは!」
グレイスが能天気な様子で洗濯物を出したとき、ついに洗濯長も堪忍袋の緒が切れた。
「こ……こここ、これは、なん、何の汚れっ、なのかしら……?」
手渡された前掛けに描かれる黒い油絵は、間近で見ると仄かに虹色の光沢を放っている。
この種類の汚れは水を弾き、手にも移って、最悪は他の衣類まで汚染することを洗濯長は経験的に知っていた。
意図せずして、洗濯長の表情は憤怒の形に歪んでいく。
……ようやくセボン洗濯長の怒気を察することができたのか、グレイスの笑顔は途端に凍りつき、血の気が引いていく。
青ざめた顔で口を慌ただしく開け閉めしながら、何か弁解の言葉を探しているようだった。
「あ……あああわわ……悪気はなかったんです、ごめんなさいセボン洗濯長……! こ、これは自分で洗います。洗いますからーっ!!」
◇◆◇◆◇
夏間近のある日、アカデメイア敷地の一角で真っ黒に汚れたシーツを旗に掲げた学院の洗濯婦達が、無言と不動の抗議を行っていた。
解雇も覚悟で一斉蜂起した彼女達の足元には、大きな木の板に機械油で描かれた抗議の言葉が。
『油汚れの洗濯には、石鹸を要求する!』
――石鹸。
それは頑固な油汚れも驚くほど綺麗に落としてしまう、化学の生み出した奇跡の石だ。
いささか大げさに聞こえるかもしれないが、石鹸が開発されるまで衣類の洗濯は水洗いが基本であり、油汚れなど一度付いたらまず落とすことはできなかった。あまりに強くこすってしまうと衣類の生地が痛んでしまうし、お気に入りの衣装を泣く泣く諦めた者達も多くいた。
石鹸の起源は、動物の肉を焼いた際、滴り落ちた油脂を木の灰が鹸化して、これが土にしみ込み、その土で手を洗ったら油汚れが綺麗に落ちると気がついた、というのが発祥と言われている。
製法には油脂鹸化法と脂肪酸中和法の二種類がある。
油脂鹸化法は、牛脂、椰子油、オリーブ油などの天然油脂と苛性ソーダを用いて鹸化し、多量の食塩を加え塩析させて分離する手法だ。苛性ソーダは海水や食塩水の電気分解などで精製可能である。
また脂肪酸中和法は、脂肪酸をアルカリで中和させて作る手法で、残留塩がなくなりお肌にも優しい石鹸が得られるのだ。
近年では苛性ソーダを用いた大量生産も可能になっていたが、わずか一欠けでも一スー銅貨(一フラン銀貨=二〇スー)に交換できるぐらいの価値があった。決して安いものではない。
ここアカデメイアにおいても石鹸は貴重品で、学生が実験の為に手の油汚れを徹底して落とす必要がある時以外は、滅多に使われることはなかった。それでも学生一人一人へ定期的に配給されているもので、一般の普及率から比べると学院内での使用率は高いと言える。
まれに勘違いした貴族の学生などは、全身を洗うのに使い切ってしまい、後で実験の際に必要となって泣きを見ることもあった。
さて、学生はそれで手を洗って汚れを落とすことができる。ところが、学生が汚した衣類に関しては、洗濯婦達が石鹸なしで水洗いしているのが常だった。当然、頑固な油汚れは完全に落とすことはできず、時折、学生から洗濯が手抜きだと実情を知らない文句が出される。
あるいはそんな無責任で心無い一言の積み重ねが、今回の一斉蜂起に繋がったのかもしれない。
――洗濯に十分な量の『石鹸』をアカデメイアが用意しない限り、洗濯物を洗わない――。
と言って、セボン洗濯長率いる洗濯婦達はアカデメイアに要求を突きつけ、仕事をサボタージュしてしまうのだった。




