9、決戦は生ゴミの日
私が一匹になるとマツさんが近寄ってきた、しかも酔っている。
「よっ」
犬に気を使い、よって言う。
『酔ってよっ』でどういう人間かの説明が終わる。まぁ、そういう分類の暇を持て余した人間という生物だ。
地球の資源を無駄使いする人間のせいで自然が減っているというのに、人間の一員として、どこかにその無駄なエネルギーと意味不明に大きな体という資源の使い道はないのだろうか。
無言なのも失礼なので、とりあえず私は言葉を返す。
「世界の生きとし生けるものに謝れ」
私の言葉が通じるはずもなく、マツさんは酒の瓶を持ち上げた。
「どうした、最近出歩かないじゃないか、何か悪さでもして追いかけられたのか、したのか? まぁまぁいいさ、とりあえず飲むか?」
「飲むか? 犬がそんな酒を飲むか! その酒を前の川に流せば、少しは濁った川も清められるだろう。その無意味な存在を身近に出来るとこから償えばどうだ」
「おおっ元気いいなー、よしよし」
マツさんは私の頭をなでなでする。
私は社交性を備えた常識ある犬だ、だから大人しく撫でられているが……このような生物が必要以上に馴れ馴れしく接するのに対し、屈辱的だと感じるプライドは持ち合わせてはある。
しかし、しかしだな、私が目を細めて撫でるままにさせているのは、決して心地よいからではないということを理解して貰えればいい。
「何だ飲まないの? 人がせっかく奢ってやるのによー、まあいいや、一人で飲む」
そう言って何故か私の前に座り込む。
しかも、赤い顔でニコニコしながら私の頭を撫で続ける。他にする事が本当にないのだろう。
「お前はいいよなー、あれ雌だろう? 彼女か? 心配事があるなら遠慮せず俺に相談しなさい」
そうか、言ってもいいのか。
「なら、お前が私の代わりにホワイトウルフをぶちのめしてくれないか、人間なら武器が使えるし楽勝だろう。まぁ、そうしたって私が負けた事実は変わらない、マツさんが怪我してもいけないし言ってみただけだ」
マツさんに私の話が通じないのは知っていたが、あろうことか勘違いしたマツさんは犬相手に愚痴り始めた。こいつは本当に昼間から餌も探さずに何をしているのだ、私の方がよっぽど物事を真剣に考えている。
「あのさー、俺って実は仕事しないか仲間から誘われてんのよ。でも働くの基本嫌いなんだよね、どうしよっかな、まいったなー」
「私相手に悩んだふりをするな、本気なら人間に相談して、とっくに働いているだろうが」
「そうか、お前にこんな難しい話されても困るよなー、はっはっはっ愉快愉快!」
話が通じているようで全く通じない、いつもこうだ。
だが、犬との無駄な会話を本気で相手するのはマツさんぐらいだろう。何せ塒を犬そっくりにしている、本当は犬に産まれたかったのかもしれない。
私はマツさんを馬鹿にしている、たまに早く神か人間の世界に帰れと思う。だが、その他の人間に比べれば無分類に平等に接するだけ随分ましだ。
面倒な事は何もしたくないのだろう、その意思を貫き人間界から離れて暮らしている。口だけで何もしない人間よりその意思は立派だが、実体は単なる群れの不適応者だ。
ここだけの話、マツさんの生き方は嫌いではない。
私は野良だ、この町が私の庭だ、嫌いなら隣に寝たりはしない。
次の日はいつも通りだった。
マツさんは得体の知れない酒を飲んで寝込み、自分で獲得してきた酒に文句を言う。
良くある事なので放っておいた。
次の日、再びパフが訪れた。
奴に気に入られたらしく追いかけられて怖かったと言っていた。別の事件ではマックスと吠え合い、一触即発の気配があるらしい。
マックスは由緒ある戦う犬の血が混じっているが、体格の割に気が弱く喧嘩になれば自分から謝って逃げる性格だ、察するに余程の事があったのだろう。
マックスならば自分の身は守れるだろうが、パフが無事で何よりだった。
「情報をありがとう、だが君を危険にさらしたくない、無理するな」
ホワイトウルフに接近したのだろう、礼を言うと同時に注意もしておいた。
「私を誰だと思っているの、パフよ」
怖かったくせに強がって言い返す、私は後一日だと言いたいのを必死に堪えた。
次の日、私は朝日が昇る前に塒を出た。
朝露で重たくなった雑草の生い茂る斜面を登る時に、斑模様の青黒い空にやたらと明るい星が輝くのが見えた。途中で数箇所マーキングしながら歩き、公園に辿りつくまでに覚えていたのはそれだけだ。
公園を一周し、五日前と変化がないか確認する。
事の発端となった証拠は、親切などこかの誰かが片付けたのか既に消えていた。
植え込み、鉄柱、大きな石等の数箇所で奴のマーキングを発見した、ここをうろついているのは間違いない。
「ふむ」
ブランコの後ろは人間があまり立ち入らず、草が伸び放題に生えている。
私はブランコと公園のフェンスの中間、生命力溢れる背の高い草が生い茂る叢に身を伏せた。
伏せると脚に何か当った、見ればマツさんの好きそうな雌の絵が載った雑誌が、湿って固まって状態で落ちていた。
いらぬタイミングでマツさんの姿を思い出し、私は雑誌を蹴って遠くに打ち捨てた。雑誌の下からは濃い草の臭いが立ち、隠れていた長い虫が慌てて逃げ惑う。
体を何度かずらし、草で体が隠れるようにして落ち着いた。
あの日から五日が経過した。
今日は月曜日、生ゴミ燃えるゴミの日だ。狩場を知らぬ奴が朝方に来る確立はかなり高い。
既に確認済みだが、ゴミ置き場にはゴミの袋が置かれていた。雑多な匂いに私の体の臭いも紛れるだろう。
ゴミ置き場で物音が聞こえた。
ペタンペタンという地面に張り付くような足音はビニール製のスリッパを履いた人間だ。網を持ち上げゴミ袋を落とすと、両手を叩きながら立ち去った。
人通りが多くなる前に現われて欲しいのだが、奴はまだ姿を現さない。制限時間が迫ればこちらから北側へ打って出る必要が発生するかもしれない。
私は心配性だ、待つ間にあれやこれやと考えてしまう。
その時、私の年季が入り渋さを演出する高級木材にも負けない毛で覆われたトライアングルが、忘れもしない微かな足音を捉えた。地面を蹴る爪の音、時折短く吐き出される呼吸音。
どのような差異も嗅ぎ分ける自信を持つ臭いセンサーが発動し、私の鼻が勝手にピクリと動いた。瞬時に私の脳に命令が下る。
間違いなく奴だ、敵発見、構えろ。
私は音を立てないように、体を地面からそっと持ち上げ、腹を少しだけ浮かせた低い姿勢で待機する。
薄暗い公園の入り口、フェンスの間に鉄の棒が二本突き出している。
長い舌を垂らしたホワイトウルフが、棒の間から弾かれたように姿を見せた。元々細かった顔と体型は、痩せて締りさらに細く伸ばされたようだ。奴は無人で無犬の公園内を一通り見渡すと、頭を下げてその場で一周くるりと回った。
ここ数日で何かあったのだろう、思ったよりも警戒心が強くなっているようだ。
奴はそれから暫くの間臭いを嗅いでいた。それから耳をパタパタと動かす、音を探っているようなので私は思わず息を殺した。
最後に周囲を二、三度見回すと奴は小走りにゴミ捨て場へと駆け寄る。どうやら誰もいないと判断して、ゴミを漁り始めたようだ。
網の端を咥えて何度も引っ張り隙間を開けようとしていた。
網が引かれるたびに重石の木材がカランカランと軽い音を響かせて、早く済ませたい奴の焦りを誘う。
叢の中で姿勢を低くしたまま、私は奴から見えない方向へ足音を立てずに進む。
猫と違い爪が出たままの我々は、どうしても地面を爪で引っ掻く音を立ててしまう。
静かに進もうとすれば、自然とそれだけ一歩をゆっくりとソフトに出さなければならない。例えるなら、柔らかいパンの上に足跡を付けないつもりで一歩を出すのだ。
十メートル程度まで接近したところで、奴が何かに驚いたように顔を上げた。私は片足を上げたまま彫像のように固まり、音を立てず微動だにせず待った。
「フッ」
鼻息を飛ばした奴が、私に気付かず再びゴミに向かう。
ほっと胸を撫で下ろしたい気分の私は、より一層慎重に歩を進める。残りの距離が五メートルを切ったであろう地点で、私は大きく息を吸い込んだ。
「くおぉぉら!!!」
大音量で叫ぶと同時に吠え、暴走する車のように奴に飛び掛る。
驚いた奴はゴミ捨て場から顔を上げ、両の前足をゴミの袋に乗せたまま、まるで芸をしこまれた犬のような姿で眼を丸くした。
奴の口が開き、吠え返す前に私は無防備な胴体に喰らい付いた。
「や! なんだってめえ!」
奴らしからぬ悲鳴のような声を発し、脚をばたつかせてホワイトウルフはあっさりと後ろに倒れる。
計算通りだ。
前回よりも体重が減り弱っている。予測よりも手ごたえが少なく、奴を突き飛ばすような攻撃になってしまい、地面に転がったホワイトウルフが体を捻って立ち上がろうともがいた。
そんな隙は与えない、私は奴の腹を跨ぐと上から喉元に喰らいついた。滅多に使わぬ必殺の犬歯が奴の喉に食い込み、牙に細い骨のような筋と太い血管が当る。
犬のどこかにある野生の血が騒ぎ、噛み切れ牙を突き立てろ血を噴出させて引き千切れと騒ぎ唆す。
鼻尻に皺を寄せて深く噛み付いた私は、逃れようとする奴に対しさらに上から力を加えて地面に押し付ける。
『やっちまえ!』
どこかで叫ぶ野生の声を抑え、私は本気だが殺さない程度で喰らいついたまま離れなかった。
道路の上を回転するように身を捩じらせてホワイトウルフは抵抗し、必死で力を振り絞り私ごと道路の中央まで這い逃げる。何度も鼻を地面で打つが、興奮した私は痛覚を感じなかった、後できっと泣きたくなるほど痛くなるのだろう。
奴の脚が私を何度も蹴り上げ、捉えられた魚のように跳ねる。
逃れようと死に物狂いで暴れていたが、全体重を掛けて喉元から離れない私の攻撃に観念したのか、ふいにぐったりとして抵抗を諦めた。
道路に投げ出された奴の舌がだらんと垂れ、煙突の煙のような湯気が口の端から溢れていた。
泡が浮いた口の端から、ようやくといった感じで、か細い声を途切れ途切れ発した。
「……俺の負けだ……勘弁してくれ……」
私は奴の喉に噛み付いたまま、じっと奴の眼を見た。
四肢を力なく折り曲げ、空を見上げた瞳には凶暴な輝きが失せていた。
私はさら頭を振って深く噛み付いた、奴が喉の奥で悲鳴を発する。
納得した私はようやく離れ、空を見上げ喉を伸ばし、全身の空気を吐き出すように長く響き渡る遠吠えをした。
「ウオオオオォォォォ――――ォォォォオン」