8、それぞれの思惑
冷やかされたと感じたのか、パフがぷいっと横を向いて鼻面に皺を寄せた。
「違うの。さっきから冗談交じりに返すけれど、真面目に質問するからちゃんと答えて欲しいの。この会話でもしかすればあなたを傷つけるかもしれないけれど……ボスの座を譲るか譲らないかはっきりしないから、私達はどう行動すればいいか迷っているのよ」
そうだな、例え野良犬の小さな群れのリーダーでも、仲間もいれば縄張りもある。
ひょっと出の坊やに負けた私が、今でもボスとして振舞うのか。
いや、振舞えるのか疑問視されているのだろう。
「そうか、ここははっきりさせておこう」
私は見得を張らず嘘もつかずに答えた。
上手い生き方だとは思えないが、小細工をする気はなかった。
「あの日、君と別れてすぐに奴と争い、私は負けた。奴にボスを譲るとは言っていないが、負けた私がそのまま大きな顔をしてボスでいるのは厚かましいだろう。奴がボスをやりたいと言うのなら、その権利はある。同様に私の尻尾が憎いと言えば、私を追い掛け回す理由もある」
パフは私の顔を見つめ、鼻と鼻をくっつけて呟いた。
「ああーもぉ……あいつの嘘って言って欲しかったわ」
「残念だが、力及ばなかった」
「変なところで正直なのね」
「完璧な嘘をつき通す自信がないだけだ」
「そうなの? 何とも言えないわ」
パフが私の横に並んで伏せる。
しばらくの間、私と彼女は無言で地面に伏せていた。魚をひらいてマツさんが作成するミイラのように並んでいた。
塒から顔だけ出して寝転がる私を、まるで干物の出来具合を伺うように眺めていたパフが尋ねた。
「動かないけれど、どうかしたの?」
「奴との争いで負傷したと思ったのか? いいや、二つに裂かれて干されなかったし、毛皮も取られなかった。少し脚が痛かったが、もう治った」
「あなたの毛皮にそこまでの価値があるのかしら。何も取られていなくて痛くもないのに、どうしてここでずっと寝ているの?」
「私の毛皮ならマツさんのひざ掛けくらいの役に立つと思うが……寝ている理由だが、私は急にすべきことが変わったからだ。良く寝る犬になったのだよ」
「マツさんって見た事がないけど、隣の人間よね。それはさておき、することがなくなって、ダラダラしていると解釈してもいいかしら?」
「どうぞお好きなように」
パフは私に対してやれやれといった態度で鼻面を押し付けてきた。
私の我がまま小僧のような態度に呆れつつも、離れないのは何か用事があるのだろう。彼女は我慢強く会話を続けた。
「あのね、ホワイウルフのことだけど」
そう考えていたらパフから切り出してきた、私はヒゲをピクピクさせて反応を示し、話を聞いていると態度で答えた。
パフは私の毛皮に鼻を突っ込んでさらに話す。そこまで近づかなくても私には聞こえるのだが、話しやすいようにさせていた。
「かなり態度が横暴なのよ、それで皆がとっても怒っている。マナーも悪いわ、いずれ人間とトラブルを起こすのじゃないかと冷や冷やさせられる」
皆には悪いが、私の想像に近い行動を奴はしているようだ。私は仔細な情報を求めた。
「その態度が悪いというのは具体的には?」
「あなたに勝ったって自慢して言いふらしている、あなたがとっても臆病で牙にも引っかからなかったって。俺は強いんだって自慢したいのよ」
「それはそれは」
「ボスがそんな臆病で腰抜けだとは誰も思ってないわ、まずそこで苛々するの」
悪口を言ったのが粗暴なホワイトウルフで良かった。
この頭脳明晰で口が達者なパフならば、山あり谷ありのストーリーを組み立てインパクトのある語彙を多用し、さも面白おかしくまるで真実のように話を組み上げ、今頃はちょっとした昔話のように皆の間に流布していただろう。
私も聞いてみたい。
「それにボス気取りで下らない命令を言うのよ。退屈で死にそうになる変な遊びを考えて、飽きたら餌を取ってこいだの……たった一日でうんざり、だから今日は奴の顔が見たくなくてこっちに来ちゃった」
「やれやれだな、しかし、退屈で死にそうになる遊びか、とても私の頭では思いつかない」
「一言で言うと下らない、聞くだけ時間の無駄よ、それに乱暴だし」
「誰か噛まれたりしたのか?」
「ほぼ全員」
「一体、奴は何がしたいのだろうか」
「ただ威張りたいだけだと思うわ、何も考えていないのよ。ボスを自称して自分の餌も取れないなんて、おかしすぎて笑いを通り越して哀れだわ」
そうだろうな。
私には向こうからおすそ分けをくれる時はあっても、自主的に偉そうに寄越せと命令した覚えはない。
「さらに困るのがあいつ、小学生に吠え掛かったのよ。何だか今朝は大人まで出てきて物々しくて、公園は避けて行かなかったの」
人間の子供を脅かしたらランドセルから宝物でも出ると思ったのか。
あの中には使い道の分からない宝物と、本とノートつまり紙の束、それに何故かどんぐりや小石やガラス玉やミルクの蓋が入っていたりはするが、私には無用の長物だ。
愚かな行動をするのは読めていたが奴の行動は予測不可能過ぎる、つまり私には理解できない。
「私も若い頃はさんざん無茶をしたものだ。だが、奴は無鉄砲な上に愚かだな。とにかく危害を加えられそうなら奴との接触は避けて、関わりあいにならないよう大人しくしているように。私の名前を出さず、それとなく皆にも忠告しておいてくれないかな」
私の指示がパフには物足りなかったのだろう。
町の犬界と仲間のピンチを聞かされ、血気盛んで勇猛な私が、悪敵に毅然と立ち向かうと思っていたのかもしれない。
残念だが私はヒーローではない、地べたに鼻を擦り付けて生き抜く野良犬だ。
パフはつまらなさそうに鼻面を空に向けて、鼻息でフッと鳴いた。
「あなたボスよね?」
「そうだ、今のところはだが、それがどうかしたか」
「一度負けただけで、そこまで腑抜けるとは思わなかった。今どんな気分なの」
「そうだな……素敵なお嬢さんに冷めた眼で見つめられ、とてもくすぐったくて辛いよ。それに、このままだと新しい餌場を探す必要がありそうで困った」
「私達の事はどうでもいいの?」
「いや、こうして奴の情報を運んでくれたのには感謝している。ところで奴は、いつもどの時間に公園に居るのかな、塒はどうしているのだろうか」
パフは私がつい数秒前までは堕落していたが、いよいよ反撃に移る気になったと勘違いして期待に満ちた瞳を向けた。
「ホワイトウルフは大体、お昼前になると公園の辺りをうろうろしているわ。塒はよく知らないけれど、北の方から来るからそちらじゃないかしら。とは言ってもまだ二日よ、たまたまかもしれない」
北か――公園より北なら神社と小さな雑木林がある、あの辺りなら寝泊りする場所がいくらでもあるだろう。そこを過ぎると本当の山の中だ、地理に疎いホワイトウルフが移動するなら町を拠点としてその辺りまでだろう。
「情報提供に感謝する。では、私はこれで奴とばったり出くわす不運な可能性を調節できるようになった。明後日の天気が良ければちょっと出かけようかと思っていたのでね、これで予定が立てられる」
「何か企んでいるわね」
私の心を察したパフは、眼を細めて牙をチラリと見せて、ニヤリと犬笑いをした。
ここで私は疑問に思うのだが……彼女の顔面筋はどのような造りになっているのだろうか。私には出来ない笑い方、というか、犬が笑う現象そのものがとても不思議だ。
そこで、好奇心と探究心が強く、知性を欲する私が恥ずかしがらず短直に訪ねると、パフはこう答えた。
「ちょっと! 失礼ね!」
怒ってどこかへ去ってしまった。
ふむ、どうやら軽はずみは発言をしてしまったようだ。生まれて何年も経つが、未だ雌の思考は難しく分らない。