7、ボスという名の素質
マツさんは私の頭をくしゃくしゃと撫でると、干して縮み上がったミイラのような小魚の干物を差し出した。
「おう、元気そうじゃないか。犬は気楽でいいよなー……これでも喰え」
この人間が思っている程に全く気楽ではないのだが、貰える物は貰っておく。
マツさんが毒を入れるような人間でないのは知っているが、一応臭いを嗅いでから口にした。
干物は細く、紐を噛んでいるようだった。良く噛まないと喉に引っかかる。
「俺も犬になりてえよ」
マツさんは割れた茶碗で何かを飲みながら呟く。茶碗から妙な匂いがするが、あれは腐っているのではなく醗酵した飲み物なのだろう、多分。
一方の私は眼を閉じて必死に口の中の干物と戦っていた。先ほどのホワイトウルフを思い出し、奴の血管を噛み切るつもりで牙を擦らせる。
マツさんは私の喉を指先で撫でながら、しきりに話しかける。彼が動くと、その体を覆う私の塒と同じ素材の外皮が、擦れて乾いた音を立てる。
人間は服を着る。マツさんはひらひらした薄い布の服の上に、軽くて固くて実用的な外皮を纏う。水に弱いのが難点で川に入るときは脱いでいる、防御に長けてどこでも寝られる便利な服らしい。
「あーあ、今日はいい天気だな」
ずっとしゃがんでいたマツさんが立ち上がり背を伸ばす。私は干物が噛み切れず、口から半分出して前足で抑えて角度を固定し斜めに噛んだ。
マツさんも野良だ、珍しい人間の野良だ。野生的で種族を超えて私と通じるものがある。
いや、今は犬の野良でさえ珍しい。自然が消え、人間が自分達の気に入った生物以外を駆除して廻っている。人が気に食わない生き物は野良だと呼ばれる。
マツさんは人なのにどうして野良なのだろうか?
犬でもボスと問題を起こしたり、あまりに集団行動が取れない奴は群れから逸れたりする。多分、その口だろう。強く暴力的でもいけないが、弱く利己的でもいけない。
弱くて暴力的で利己的、たまに強いのは最悪だ。
人間も大変だ……私も今まさにそうなりかけている、マツさんに同情を覚えた。干物は手強くまだ半分も胃に収まっていない、これを噛み切る人間の歯は侮れない。
「よっしゃ」
私の頭をポンと叩いてマツさんは出かける用意をする。
「ちょっくら仕事に行って来るわ、まあ、期待せず待ってな」
「獲物を取りに行くのか、頑張ってくれ」
今日の私は怪我をして疲れて果て、いつもの食い扶持にありつけないかもしれない。マツさんは獲物が多く獲れれば私に分けてくれる、今日は期待してもいいのか?
私は尻尾を振り軽く吠えて見送った。
一匹になった私は、流れる川の水音と時折忘れた頃に走る車のエンジン音を聞きながら考えに耽る。
私なら何日持つだろう――いや、奴はまだまだ未熟だから、私より体力があっても若干少なめに見積もっていいだろう。
「三日?」
どうだろうか、私ならもう少しいける気がする。
「では五日だ」
自分で問いかけ自分で答えて納得した。
夕方になってマツさんは戻って来た、出迎えた私に対し笑顔で空の両手を広げて見せた。
「ははは……てな感じだ」
私も他人のことを言えた口ではない、マツさんに獲物を分けた事などない。だからではないが、弱い人間の無力さに呆れ、罵倒する気にもなれなかった。
「駄目だろマツさん、私はともかく自分はどうするのだ」
僅かにでも期待した私が悪かったのか。
私がさっさと塒に戻ったのを見て何か感じ取ったのだろう、マツさんは言い訳するように呟いた。
「現金な奴だなあー」
私には程遠い比喩だ、もっとましな例えを考えたまえ現金を持たない人間よ。
翌日から私の行動範囲は狭まり、町に姿を現す時間も減少した。
生活に最低限必要な場所には立ち寄るが、いつもの習慣で思わず電柱にマーキングしそうになるのを必死で控える。
パフはもちろん、源太やマックス、クッキーと小豆も私の姿を見なくなり寂しがっているだろう。その気持ちを上塗りするように、私が負けたという噂が広まっている筈だ。
その日は快晴だった。
空気が澄み渡り、渡り鳥が空を舞う。それはそれとして、私は本日の食料をどのようにして調達するかに思考を集中していた。
私の予想よりも早く、我が住処を訪れた者がいた。
その時私は塒の箱に寝そべり、伸ばした前足に頭を乗せてくつろいでいた。
高性能かつ反応が優れ多種多様な音を聞き分ける私のトライアングルが、聞きなれた軽快な足音を捉える。川縁の道路から雑草の生い茂る斜面を一気に駆け下りた足音が、私のすぐ近くで止まった。
走ってきた彼女の荒い息を心地よく聞きながら、私は顔を上げずに声をかけた。
「やあ、どうしたんだいパフ」
私の顔の横にちんまりとした白い脚が見えた。
息を荒げていたパフは、返事をする前に私の水入れに口を付けた。何口か水を飲んでから、長い毛に滴る水滴を飛ばし彼女は一気にまくしたてる。
「どうしたんじゃないわよ。突然姿を見せなくなったらホワイトウルフって雄があなたを追い払ったて言うじゃない、町の犬界ではその話題でもちきりよ。どういうことか説明して欲しいわ、ボスを譲る気なの? あなたからボスを取ったら単なる名無しだわ」
そこまで言うと、パフは舌を湿らすために再び水に口を付ける。彼女がピチャピチャと水を飲む音が聞こえる。
彼女の言葉が気に入った。
名前までは考えていなかった、確かにボスではなくなるのにボスと呼ばれるのはおかしいかもしれない。いつも私の気が付かないことを指摘してくれる。
「ならば君は……私の新しい名前を聞きたくて尋ねて来たのか?」
「皮肉っぽいのがあなたの持ち味よ、だけど今は止して」
私の意地が悪くスパイスを混ぜた返答に、パフが憤慨してその場で脚を踏み鳴らし、驚いた丸っこい羽虫が草の中から慌てて避難した。
私は身の上を案じて訪れたパフに、今の言葉は失礼だったと反省した。
「済まない。君の言葉があまりにもユーモアに溢れていたから、つい捻って返してしまった。怒らないで欲しい」
首を上げていかにも済まなさそうに上目使いで謝る。
困ったように納得したパフが、私の横に伏せて同じ高さで話しかけてきた。
「これはものすごく真面目な相談よ。私達はどうしたらいいの?」
「うむ……私に君達がどうするか決めろと?」