6、だがしかし、お前もお前も頭が悪かろう
荒く呼吸を繰り返し、体温を調整しつつ私は答えた。
「理由はある。どこの誰とも分からん若い奴に大怪我させられるか殺される目には逢えない、それなら潔く引き下がるさ」
私の言葉をその鍛えられてなさそうな脳で反芻し、奴は答えた。
「要は俺にびびったって事か?」
「理由は好きに取っていい、とにかく俺はこれ以上ここで争うつもりはない」
私はなるべく早くこの場を収める必要があった、争いたくないのは本心だ。
奴の殺気が、風船から空気が漏れるように少しづつ萎むのを感じた。ただし、漏れる穴は小さくまだ気は抜けない。
油断なく目を光らせ奴は尋ねる。
「あんた……もうちょい骨のある奴だと思ったけどな……俺が言うのもあれだが、結構強かったぜ。さっきまでの勢いはどうしちまったんだ」
強かったと言った――そうか、奴の中ではもう過去形にしてくれたようだ。
私も奴に対しては完全に気を許した訳ではない。
だが、不要な負傷は避けたい筈だと、自分の接し方と体勢を低くし、斜め後ろにゆっくりと下がりながら話しかけた。
「私は臆病なんだよ、もう立ち去ってもいいか?」
「あ、ああ、気に喰わないが俺の勝ちってなるのなら」
奴はどうやら不完全燃焼しているのだろうか。闘争心が心臓に溢れている、いずれ興奮し過ぎて脳の血管が切れなければいいが。
立ち去る前に私は一つ質問をした。
「ところで、名前はあるのか?」
「はぁ? あるに決まっているだろう」
奴は当然の事を聞かれ、あからさまに舐めきった態度で答えた。灰色の細面が余計に気障で皮肉たらしく見える、それはもてないから止めろと教えてやりたかった。
「俺はホワイトウルフ、そう呼ばれていた」
いかにも名は体を現すそのものだ、純白ではないが狼よりは白い、本気で狼の血が混ざっているのではなかろうか。先ほどの戦法といい、噛み千切り損ねた後ろ足の五本目の爪といい、野生を色濃く感じさせる要素がありありと滲んでいる。
やっかいな奴が来た。俺は改めて運の悪さを後悔せず――何かに呪った。
「名前を覚えておく。ああ、ゴミ場は好きにしていいが……今日は喰えそうな物はない」
一応、無駄に荒らされないよう忠告をしてその場を去ろうとした。
ホワイトウルフは私の物言いに見下されたと感じたのか、軽い唸りを上げた。
「うるせえ! 何が言いたいのかさっぱりだ!」
「日によって人間の捨てるゴミは違うからだ」
既に漁って小魚一匹はおろか残飯すら摂れなかったのだろう、ホワイトウルフは納得したようなしていないような態度で、小声で文句を言いながら離れた。
「偉そうに……そうかい、ありがと、お利口そうなボス!」
「礼には及ばない」
ホワイトウルフのどこかに無数に存在する怒りのスイッチを入れたらしい、一声吠えた奴を尻目に私はさっさと退散した。
強いだけで生きていける世の中だったらいいと思っているだろう、私も大賛成だ。それならば我々愚かな犬など、綺麗さっぱりとっくに駆逐され全て解決だ。だが、消える順番は思った通りにならないだろう。
お節介な私は心の中で親切に年上からの忠告をしてやった。
二匹が争った後の道路を、何も知らない小学生達が騒ぎながら通り過る。時間制限には間に合ったようだ。
ホワイトウルフとの一戦を終えた私は疲労困憊し、塒へと帰った。
町外れを流れる川には鋳根川という立派な名前を携えている。
ここは川の中流よりやや上だ、中途半端に舗装された河川敷の小さな橋の下に、我が塒はある。
昔々には神様が住んでいて、有難い道具を作るのに使った由緒ある川だったと、川縁に住む自称人間界のボスと名乗るマツさん(年齢不詳)から私は何度も聞かされた。
私はその話を聞き、だからこの川は澄んでいるようでどこか澄みきれないのかと妙に納得した。人間も、その神様とやらもろくでもない事を好んでするようだ。お陰で飲めなくはないが、自然の水のくせに味がいまいちだ。
ひょっとすると、頭に変な布を巻いて髭が編めるほどの時間を生きているマツさんは神様で、同類には打ち明けられない罪を、犬である私にこっそり白状したのかもしれない。正直迷惑だ。
マツさんと似た材質だが、かなり小さく組み立てられた私の四角い塒に頭から潜り込む。暗闇の中で嗅ぎなれた臭いに囲まれ、体を丸めて腰を下ろす。尻尾の上に顎を乗せると、高ぶっていた気持ちが徐々に落ち着いた。
冷静になり今日の出来事を振り返る。
私は姑息だ。だが、生き延びた者が強いのだ。強いにも色々と種類がある、犬の種類だけ強さと生き方はあってもいいだろう。
考えに耽っている私の塒の壁を、隣で寝ていたマツさんが軽く叩く。
「おい、どうした、怪我してなかったか?」
びっこを引きながら歩くのを見られたのだろう、鈍いようで時に人間は意外と目が良く驚かされる。
「大丈夫だ、休めば治る」
私は塒から鼻面だけ出し、犬の言語を理解できないとは知っているが、礼節をわきまえている私は鼻を鳴らすようにして、塒の前にしゃがんでこちらを伺うマツさんに丁寧に答えた。