5、争いと殺意
奴は弾みをつけ口を離し、熱い涎にまみれているであろう牙が私の柔らかい部分を狙う。
噛みつかれては勝負が決してしまう――そうなる前に、私は奴のゴミ臭い太ももに牙を立てた。
足の付け根は太い血管が通る急所で、片足でも負傷すれば戦闘どころか生活もままならない。太ももを噛まれた奴が驚きと怒りで唸り声を発した。
私の牙が奴の筋を捉えると同時に、奴は全身をバネのように縮めると私を突き飛ばすように後ろに跳んだ。
横向きによろめいた私は短い咆哮を発し、自らの叫びに奮起され立ち上がった。
私の口から熱い湯気が立ち上る。
発せられる熱は心臓が燃やす炎で熱せられた漏れる湯気のように、喉の奥から舌の上を通過してもくもくと立ち上る。
奴の口からも火事場の煙ような湯気が漏れ、流れて私の吐く息と混ざり合う。
あぁ、あれに噛まれたら熱くて燃えそうだと私は思った。
奴は喉の奥から低く長い長い唸り声を発し、揃えた四足を前後に開き、頭を低く血走った眼で私を正面から捉える。
両肩が一層狭まり体つきがスリムになり、一直線に私の喉を狙っていた。牙を覗かせ振るえる口蓋はそのままに、表情が固まり次第に呼吸が速くなる。
私は血管が滾るように脈打つ舌をぺロリと舐めた、奴の毛の切れ端が歯に絡まり吐き出す。不味い毛の感触よりも不気味な気配を奴は発していた。
まさか――殺る気か?
これは同類の争いで用いる体勢と殺気と表情ではない。
獲物を襲い一撃必殺で狩るつもりだ。初撃を防がれても、前方へ集中した突進力でさらに攻撃をしかけ、喉元を噛み千切るまで何度でも牙を立てるのだろう。
奴が足で砂を掻いた、飛び掛るタイミングを計っている。無駄に吠えないのは力を溜めているからだ。
不意打ちをくらったが、そんな小細工無しでも奴は充分に強い。正面からやりあっても勝てるかどうか……。
「馬鹿者が!」
私は常識を知らない相手に本気の怒りを覚え、当然のように身構える。力を込めた右後ろ足に痛みが走るが今はどうでもいい。
奴は私の変化した気配に押されたのか、狙いを定めたまま動かない。しかし、その体に込められた殺気はいまにも爆発しそうな状態で押さえ込まれている。
私も覚悟を決めた。狂ったように脳内で殺気がプチプチと湧き上がった。
二匹の間にざらりとして飢えた風、殺気がぶつかり合いお互いに押され弾ける。
極限にまで高められた緊張は、私の脳内時間をゆっくりと進ませる。私が殺されたら今後この町はどうなるのか、奴を殺せばその後の対応をどうするのか、呼吸が一つ終わる前に予測と想像が頭を巡った。
両方の可能性に思考を巡らせた私は、ある予測に辿り付いた。奴が他から来た、無鉄砲で暴虐無尽な若い雄であることを考慮すれば間違いないだろう。
不意に力を緩めた。
激しくぶつけられていた緊張感のバランスが崩れ、一方の支えが無くなり、奴の殺気はあらぬ方向へ散った。
虚を突かれた奴の眼を見据えて、私は油断せずに呟くように話しかけた。
「……私の負けだ」
案の定、奴は怪訝な表情を浮かべた。
犬がそのような表情をするのは極めて珍しく、生死が関わっている状況の下で、敵の間抜けな顔は私の頭を冷やすのに役立った。
「なんだと?」
初めて奴が声を発した。やや高く通る声だ、やはり若い。
私はさらに説得を続けた。
「殺し合いまでするつもりはない、私には今そこまで無理して勝負する必要もない」
私が放つ言葉の真意が信じられないのだろう、奴は歯を打ち鳴らし私の意志とは逆に警戒を強めたようだ。
「この勝負はお前の勝ちでいいと言っている。それとも何だ、お前は負けを認めた相手でさえ、殺さないと安心できないのか?」
奴は隙を突かれ反撃されるのではと疑っているのだろう、不意打ちを喰らわせた身としては疑心暗鬼になるのも当然か。
やっと奴が頭を軽く振って聞く態度になった、私が少し前から警戒を解いているのも功を奏したのだろう。
「俺が臆病だと言うのか! だが――信じられん、お前はここのボスだろう?」
「どこで聞いたのか知らないが確かに私はボスだ、ボスに向かってくる奴が臆病者とは思えない」
ある意味、無謀な奴だとは付け加えなかった。