第一話 小春日和の午後
第一話 小春日和の午後
「ジューッ……!」
熱した銅の玉子焼き器に、特製の卵液をまずは三分の一ほど流し込んだ瞬間、小気味いい音が静かな台所に弾けた。
卵は贅沢に五個。そこへ牛乳、出汁醤油、それにお砂糖。しっかり甘めに仕立てた特製の卵液だ。
五十年近くもの間、毎日のように手入れをして使い込んできた、さゆりさんお気に入りの玉子焼き器。長年の熱と油によって、銅の肌は飴色を通り越して深い風格を帯びている。
熱伝導が抜群に良い銅だからこそ、火力の調節にはいっそう神経を使う。強火のままでは一気に焦げ付いてしまうし、弱すぎればお出汁のジューシーさが逃げてしまう。
絶妙な火加減を保ちながら焦げ付かないよう慎重に見守るが、それでも出汁醤油とお砂糖が熱され、表面にほんのりと香ばしい茶色い焦げ目が浮かび上がっていく。これこそが、育ちきった相棒だけが表現できる絶妙な焼き色だった。
お弁当に入れる時は傷まないようによくよく火を通すものだが、今日はこのあと、焼き上がりをすぐ食べてくれる人が待っている。だからこそ、お出汁の瑞々しさをギリギリまで残した、絶妙な柔らかさに焼き上げていく。
お出汁をたっぷり含み、熱い油と触れ合った縁が、またたく間にぷくぷくと膨らんでいく。
「ジュワ、シュワワ……、トントン」
お箸で気泡を優しくつつき、奥から手前へと、黄金色の膜をきれいに巻き上げていく。焦げたお醤油とお砂糖の甘い匂い、そして牛乳のまろやかな香りが、開け放した窓から秋の澄んだ空気へと溶け出していった。
浅田さゆりは、割烹着の胸元を優しく撫でて、おっとりと微笑んだ。
「終わりましたよ、さゆりさん。……あ、やっぱり。もの凄く良い匂いがしてたので、急いで終わらせちゃいました」
入ってきたのは、一ノ瀬蓮。武蔵野台地の最も強固な地盤に大邸宅を構え、現代日本の政財界を裏で牛耳る黒幕・一ノ瀬巌を祖父に持つ、二十四歳の青年だ。
普段は仕立ての良いスーツを完璧に着こなす彼だが、さゆりさんの家へお手伝いに来るときは、決まって動きやすいラフな服装になる。今日も頼まれていた雨樋と側溝の掃除をするために、長袖のTシャツにジーンズ姿。ポケットからは軍手が覗いている。
「さゆりさんが卵焼きを焼いてるんだと思ったら、ウキウキしちゃって」
他国の政府高官や巨大企業のトップが平伏するような冷徹な瞳は影を潜め、今の蓮はただの年の離れた甘えん坊の弟のようだった。蓮は手慣れた様子で手を洗い、居間の座卓にいつものように腰を下ろした。
さゆりさんは、焼き上がったばかりの卵焼きを大皿に並べ、さらに炊きたてのご飯をふんわりと結んだ梅おにぎり、お庭のカブを葉も使って一緒に漬けた色鮮やかなお手製のお漬物と、温かいお茶を蓮の前へと運ぶ。
「蓮君、お外で一生懸命お掃除してくれたから、お腹が空いたでしょう?」
「あはは、すみません。さゆりさんの卵焼きの匂いがしてきたら、お腹がグーグー鳴っちゃいました」
蓮は嬉そうに頭を掻きながら、水切りかごにあるミルサーのガラスに目を留めた。
雨樋を掃除する手をふと止め、蓮は外で耳を澄ませていたのだ。風の音に混じる微かな振動音――普通の人間なら聞き流してしまうようなミルサーの静音設計の駆動音を捉えてしまうのは、一ノ瀬の人間として、実業の場で張り詰めた環境で育った彼の悲しい習性でもあった。
だが、今日のその音は、彼をただただウキウキさせた。
「ええ、煎茶を細かくして粉茶にしていたの。茶葉そのままだとね、お茶に含まれるビタミンEや食物繊維みたいな体に良い成分が、水に溶けずに茶殻に残ってほとんど捨てられちゃうでしょう? こうすればお茶の栄養、丸ごと召し上がれね」
蓮は、さゆりさんお気に入りの青い花かご型の萬古焼の急須から注がれた、少し濃い緑色のお茶を一口すすった。
萬古焼の紫泥に含まれる鉄分が、お茶の余分な渋みを吸着し、驚くほど味をまろやかにしてくれるのだ。手間を惜しまず、ミルサーでひいた粉茶をこの急須で丁寧に淹れるのが、さゆりさんのこだわりだった。
「やっぱり、さゆりさんのお茶は世界一美味しいです。……あぁ、五臓六腑に染み渡る」
熱いお茶を一口すすり、蓮は心底幸せそうに、ふにゃりと表情を緩めた。それから、愛おしそうにおにぎりを頬張る。
「……うん、この梅干しも最高。やっぱり自分たちで漬けたお梅さんは格別ですね」
初夏に二人でヘタを取り、梅雨明けの夏の強い日差しの中で三日三晩、大ザルに並べて天日干しした梅干しだ。じっくり時間をかけたあの梅仕事の結晶が、こうして秋の味覚として食卓を彩っている。
「蓮君が一生懸命に手伝ってくれたから、今年も美味しく漬かったのよ。カブのお漬物も召し上がれ。お庭で採れたから、瑞々しくて美味しいわよ」
白い実の甘みと、刻んだ緑の葉の程よい塩気が、おにぎりの美味しさをさらに引き立てる。若い人なら唐揚げのような油ものを好みそうなものなのに、蓮にはこれが一番いいらしい。
以前、急にお昼を用意することになった際、あり合わせの冷凍の卵焼きを温め、おにぎりとお茶を出したことがあった。それがどうやら一番のお気に入りになったらしく、今日のように頼み事をする日のお昼は、決まって「卵焼きがいい」とねだるようになったのだ。
(うちの子供たちも大好きだったけれどねぇ……)
子供たちが中学・高校生の頃は、お弁当とは別に、友達に配る用の卵焼きをタッパーにいっぱい詰めて持たせていたものだ。当時は週に二度、卵が1パック百円で売り出される日があった。
「おひとりさま1パックまで」だからと、健一さんや子供たちを総出で、スーパーへ買いに走ったものだった。みんなで協力して手に入れた卵だからこそ、子供たちの友達の分まで、気持ちよく大盤振る舞いができたのだ。
そうして毎朝十個も卵を使っていたあの賑やかな日々を、さゆりさんは懐かしく思い出す。
ここ、伊丹の高台に建つ一軒家は、かつて最愛の夫・健一が、何の前触れもなく『家、買っといたから』と一言だけのメールをよこして贈ってくれたものだ。古くから強固な地盤として知られる伊丹台地の上、大地震や大水害からも毅然と家族を守るために建てられた、それはそれは頑丈な建物だった。
地盤にこだわり抜く不器用な健一の背後で、巌が日本の不動産網を裏から操作し、この完璧な安全地帯を用意させたことなど、おっとりとしたさゆりは知る由もない。精度高く管理されたインフラや、巌が伊丹空港の片隅に一般人が立ち入れない隠された拠点を構え、そこをハブにして蓮のヘリを往復させていることも、彼女にとっては「蓮君はいつも足が早くて、びっくりね」という微笑ましい日常の一コマでしかなかった。
その窓の向こう、十一月の空には、驚くほど低く分厚い雲が急速に広がりつつあった。テレビの天気予報は、明後日には近畿地方で『木枯らし一号』が吹く見込みだと、暦の訪れをのんびりと告げている。
だが、さゆりさんはおっとりとした声のまま、窓の外を見つめた。その瞳の奥には、常人には見えない大気の巨大な「うねり」が、黒い龍のようになって街へ迫る光景が映っていた。異世界で死線を潜り抜けた、もう一人の大魔法使いとしての視界が、世界の真の危機を捉えている。
「……蓮君」
さゆりさんは静かに振り返り、座卓のお茶をすする青年を見つめた。
「あさってね、とても強い風が吹きそうな気配なの。おじいさんの巌さんに伝えて、対処をお願いしておいてくれる?」
「わかりました。巌おじいさんに伝えておきますね」
蓮は何でもないことのように、いつもの穏やかな笑顔で頷いた。
蓮の祖父である一ノ瀬巌は、現代日本の政財界を裏で牛耳る最高権力者にして、異世界で最強の「形を成す力」を掴んだ男だ。
だが、さゆりが「強い風が吹く」と言えば、それがどれほど突拍子もない予言であっても、国家規模の防災体制と魔法の結界を即座に敷いて国を動かす。それは二人の間で、これまで何度も繰り返されてきた、いつものやり取りだった。
「ええ。『強く強く外に出ちゃダメ』って、街やテレビで大きくアナウンスしてほしいの。
風速がたった一メートル上がるだけで、私たちの体感温度は一度も下がってしまうでしょう?
そして あさっての暴風が吹き抜けた次の日は、日本中が恐ろしく冷え込むわ。
前の台風の時、どうしても田んぼが気になって様子を見に行って、亡くなってしまった方がいたでしょう?
何か異変があれば、自分の大事なもの、育ててきたものほど、気になって見に行きたくなってしまう気持ちは痛いほど分かるのだけど……。だからこそ今回は、巌さんの厳しいアナウンスを聞いて、何があっても絶対に外に出ないでほしいのよ」
これだけ言えば、武蔵野にいるあの頼もしい同志なら、すぐにすべてを察して完璧な安全網を敷いてくれる。
さゆりさんはそっと息を吐き、祈るように目を閉じた。
「どうか、木枯らし一号――おとなしいものでありますように」




