夢の中だけの隣人
株式会社Hセレモニーの社宅は、同じデザインの庭付き戸建て住宅が生活道路に面した一区画に建っている。
月に一度の親睦会は、区画内の奥様方が料理を持ち寄り、ランチを楽しむ。
「本当、ご一緒が皆さんで良かったわ」
五十代のイノウエさんが、今朝焼いたというパンを皆に勧める。今日は、イノウエ宅でのランチだ。
「他の社宅では結構、色々トラブルがあるそうよ」
ウエムラさんが、持って来た鶏の唐揚げのタッパーの蓋を開ける。ウエムラさんは、小三の女の子と幼稚園年中組の男の子の母親だ。
「ホントねぇ。子供が同じ幼稚園に通うウエムラさんがいて下さって、心強いわぁ」
幼稚園年中組に双子の女の子を通わせるレンゲジさんは、持参した2リットルの紅茶とリンゴジュースのペットボトルを、テーブルに置いた。
「新婚で、しかも、社宅初めてで。引っ越しが決まった時、ヤバイと思っちゃいましたが、良い方ばかりで、ホッとしました」
二十代のユイさんは、「レパートリー少なくて、すみません」と言いながら、茹で卵とサラダの盛り合わせの大きなボールのラップを外した。
「ねぇ、うちの隣りのアオキさんのことなんだけどぉ」
レンゲジさんが、視線を東側の窓に走らせ、口火を切る。
「顔を合わせば、ご挨拶してくれるけど、何だか陰気な感じ。声が遠くて。いつも夜中にお会いするからぁ?」
「西隣のアオキさんは、西日を遮ってくれて良いけど、犬がうるさいの。夢の中まで聴こえる」
ウエムラさんは、「うちの子も騒がしいけど、夜は静かよ」と続け、皆の笑いを誘う。
「南隣に、アオキさんのお宅が出来て、日が薄くなってさぁ」
レンゲジさんが、アオキさんにあまり良い感情を持っていないのは日当たりが悪くなったせいなのかなと、イノウエさんは思った。
「アオキさんって、ユイさんちと前後して引っ越して来たんだよね」
ウエムラさんが唐揚げに箸を伸ばす。
「そうね。今年の春だったかしら。『お隣に越してきました』って、夜、ご挨拶に来てくださったわよ。ご主人はお仕事だからって、お一人で」
イノウエさんの言葉に、ユイさんは、思わず「えっ」と眉根を寄せた。紅茶のグラスを持つ手に力が入る。
「うちには来なかったです。お隣なのに。若いからって馬鹿にされている感じ?」
「それは、ないんじゃないかしら」
イノウエさんは、皆を見回す。
「それより、アオキさんのお宅の臭い。気になりません? 私、ずっと臭いが鼻について、社宅の管理業者に言おうか、どうしようか迷っておりますの。眠っている間も臭くって」
「やっぱ、臭いよねぇ」
「そうそう、変な臭いがするのは、アオキさんが越して来てからだった」
「気のせいじゃなかったってこと?」
「臭いと騒音って、典型的なご近所トラブルよねぇ」
レンゲジさんは、夕食時、アオキさんの話を夫にした。
すると、夫は変な顔をして黙ってしまった。
ここは社宅。もしかしたら、アオキさんの旦那さんは、上司だったのだろうか。
ウエムラさんも、帰宅した夫にアオキさんの話をした。
「あの臭いって、アオキさんのお宅からしているんだって」
「臭いって何だ?」
「やだ、あなた鼻が馬鹿になってるの?」
夫は、一瞬口を開きかけてから、言葉を選ぶように「早く寝た方が良い」と言った。
新婚のユイさんは、会社帰りの夫と外で待ち合わせして、ファミリーレストランにいる。
「私達の後に越してきたアオキさんって、色々ご近所迷惑な人だったみたい」
「アオキさん?」
「うん。北隣の」
「北隣って」
夫は目を泳がせる。
「私やっぱり、管理業者に連絡してみるわ」
残業で深夜に帰宅した夫にイノウエさんが伝えると、夫は「何を?」と訊き返してきた。
夫が自分の話を、ちゃんと聞いていないのは今に始まったことではない。再三、東隣のアオキさんの家から、変な臭いがすると訴えていたのに。イノウエさんは溜息をついて、今日のランチでの話を夫にした。
「皆、管理業者に相談した方が良いって仰るの。だから、私が代表でしようかと思って」
「アオキさんって、誰?」
「何言ってんの、うちの東隣の」
「おいおい、東隣は空き地だよな。四軒の家に囲まれた中庭みたいな感じで、ぽっかり空いてる」
「ええ?」
東側の窓のカーテンを開けると、黒い壁のような闇で、正面のウエムラさんの家が見えない。灯りが点いていないのは、もう寝てしまったからなのか。それにしても、左のレンゲジさんの家も、右側のユイさんの家も全く見えないのに違和感を覚えた。
「……あのさ、今日会社で聞いたんだけど、あの空き地に古い井戸があって、昔、社宅の奥さんが飛び込んだんだと。以後、空き地を取り囲む家の苗字がある言葉になると、夢に出るんだって」
夫の声が震えている。
「……何が?」
訊き返しながら背筋を冷たいものが走る。
「ユイさん、ウエムラさん、レンゲジさん、そして、うちが、イノウエ」
「ユイ、ウエムラ、レンゲジ、イノウエ?」
「苗字の最初の文字を読んでみ」
了




