第8話 忘れさせた、罪
ノアは目を覚ました。
冷たい床。
石造りの、独房。
手首が鉄の枷で繋がれていた。
灯火が一つだけ、揺れていた。
クラウスが椅子に座っていた。
ノアの、向かいに。
長く、ノアを見ていた。
「ノア」
クラウスが言った。
「お前の、過去を、話す」
ノアの中で何かが動き始めた。
封じられていた、何か。
長く、長く封じられていた何か。
ノアの記憶が戻り始めた。
地下室の、冷たい床。
誰かの、温かい身体。
しかし、その温もりはゆっくりと、消えていった。
誰かがノアを見上げていた。
黒髪の、小さな子供。
灰色の瞳。
血で汚れていた。
「お兄ちゃん」
子供が言った。
「いっしょに、いて」
五歳の、妹だった。
アンナ。
ノアの、妹。
ノアは答えた。
「いっしょにいるよ」
「アンナ、いっしょにいる」
アンナは微笑んだ。
そして、目を閉じた。
アンナの身体がゆっくり、冷たくなった。
最初は指先。
次に頬。
やがて、胸の真ん中まで。
抱きしめていた腕の中で温もりが抜けていった。
ノアは抱きしめる力を強めた。
強めれば、温もりが戻ると、思った。
戻らなかった。
ノアは長い時間、動けなかった。
やがて、ノアは泣いた。
強く、強く、願った。
「妹を、返してほしい」
「家族を、返してほしい」
「こんな、悲しみは、いらない」
「いっそ、すべて、消えてしまえ」
願いは混乱していた。
光が視界を満たした。
黒い、光だった。
妹の亡骸も両親の亡骸も家も領地も──すべて、消えた。
ノアは震えていた。
涙が頬を伝っていた。
クラウスが口を開いた。
「ノア」
クラウスが言った。
「お前は、勘違いを、している」
「お前は、妹を、消したのでは、ない」
「妹は、お前が世界改変を、発動する、前に、息を、引き取っていた」
「お前が、抱きしめていた、温もりが、消えるまで、お前は、動けなかった」
「お前は、その、後で、泣いた」
「お前の、世界改変が、消したのは──」
「妹の、亡骸だ」
「家族の、亡骸だ」
「惨劇の、痕跡だ」
「お前は、妹を、殺したのでは、ない」
「だが、お前の、世界改変は」
「妹の、存在の、証拠を、消した」
「アンナが、いた、という、証拠が、世界から、消えた」
「お前だけが、アンナを、覚えている」
ノアは息を呑んだ。
「俺は」
ノアが呟いた。
「俺は、妹を、殺していなかった」
「ああ」
クラウスが頷いた。
「だが、忘れさせた」
ノアが続けた。
「アンナが、いた、という、ことを、世界から、消した」
「そうだ」
クラウスが答えた。
「お前だけが、アンナを、覚えている」
「だから、お前は、忘れたくない、と、願う」
「すべてのものを」
「お前の追放は、表向きの理由ではなかった」
「お前と、少女の出会いも」
「シエルの存在も」
「すべて、観察していた」
「お前は、国家の計画通りに、動いていた」
「お前の能力には、法則がある」
クラウスが続けた。
「世界を書き換えるたび、お前自身の、何かが、削られる」
「俺たちは、五年間、それを、観察してきた」
「八歳の時、お前は、家族の亡骸と、惨劇を、消した」
「同時に、八歳より前の記憶を、すべて、失った」
「お前は、両親の顔も、家の間取りも、覚えていない」
「家族が、いた、という事実だけを、知っている」
「奴隷市場の時も、そうだ」
「お前は、市場を、消した」
「同時に、旅の記憶の、一部を、失った」
「お前は、気づいて、いなかった」
「これが、お前の能力の、代償だ」
「使うたびに、お前は、お前を、失う」
「だから──」
クラウスがノアを見た。
「もし、お前が、シエルを救うために、世界を書き換えれば」
「お前は、シエルとの記憶を、失う」
「お前は、目の前の少女を、忘れる」
ノアは息を呑んだ。
「だが」
クラウスが言った。
「お前が、あの少女に、本気で、恋を、するとは、思わなかった」
「シエルは」
クラウスが続けた。
「お前の、共鳴体だ」
「お前の世界改変を、増幅する、媒介だ」
「シエルを、生かして、おくと、お前の能力は、制御不能になる」
「シエルを、処刑する」
「させない」
ノアが言った。
ノアは鉄枷を引いた。
動かなかった。
「お前に、止める力は、ない」
クラウスが答えた。
クラウスが立ち上がった。
扉に向かった。
振り返らずに言った。
「明日の、朝だ」
「夜明けと共に、シエルは、処刑される」
「お前は、ここで、見ているしかない」
扉が閉まった。
鍵がかかった。
灯火が揺れた。
しかし、消えなかった。
「諦めない」
ノアが呟いた。
灯火は消えなかった。




