第6話 青い結晶
ノアは雑貨屋の前に立っていた。
なぜ、ここに来たのか。
ノアは知らなかった。
ただ、足がそう、動いた。
ヤコブが店先に座っていた。
ノアを見た。
目に悲しみのようなものが、宿っていた。
「来たか」
ヤコブが言った。
「来ると、思った」
ノアは答えなかった。
「中へ、入りな」
ヤコブが言った。
雑貨屋の奥の部屋は薄暗かった。
古い茶器が棚に並んでいた。
ヤコブは茶を淹れた。
ノアの前に湯気の立つ茶碗を置いた。
「俺の妹は」
ヤコブが言った。
「五十年前に、死んだ」
ノアはヤコブを見た。
「妹の名は、エマ」
ヤコブが続けた。
「十六歳だった」
「ある日、不思議な力が、目覚めた」
「世界を、書き換える、力だった」
ノアの心臓が跳ねた。
「国家魔導院が、来た」
ヤコブが言った。
「『この子は、危険だ』と」
「『感情を、封じる必要がある』と」
「両親は、応じた」
「危険な力を、抑えるためなら、と」
「だが、施術中、エマは、死んだ」
「魔力暴走、と、説明された」
ヤコブは茶を口に運んだ。
手が震えていた。
「俺は、後で、知った」
「施術を、行ったのは、カルディアン家の、前々当主だった」
「クラウス・カルディアンの、祖父だ」
ノアは聞いていた。
言葉が見つからなかった。
「あれは、間違いだった」
ヤコブが言った。
「子供から、感情を、奪うこと」
「あれは、間違いだった」
「だが、今も、続いている」
ヤコブが続けた。
「今、施術を、行っているのは、クラウスだ」
「五年前に、就任した」
「あんたも、その施術を、受けたのか」
ヤコブが訊いた。
「分からない」
ノアが答えた。
「だが、おそらく、そうだ」
「俺は、八歳の時の記憶が、ない」
「家族の記憶が、ない」
「両親と、妹が、いた、ということしか、知らない」
「あんたは、エマに、似ている」
ヤコブが言った。
「目が、似ている」
「俺の妹も、こんな目を、していた」
「だから、俺は、知っている」
「あんたの中にも、世界を、書き換える力が、ある」
ヤコブは茶碗を見つめた。
湯気はもう、薄くなっていた。
「ただ、その力は、一人では、濁る」
「願いが、強すぎると、形を、間違える」
「誰かの涙が、その願いを、澄ませることが、ある」
ヤコブは湯気の消えた、茶碗を見つめた。
長く、見つめていた。
「だが、ただで、できることでは、ない」
ヤコブが続けた。
「世界を、書き換えるたび、何かが、消える」
「妹は──命を、消した」
「あんたは、何を、消すのか」
「俺には、分からない」
「だが、いずれ、知ることになる」
ノアは答えなかった。
胸の奥で何かが冷たくなった。
冷たさの正体をノアは説明できなかった。
ノアは顔を上げた。
「涙」
「ああ」
ヤコブが頷いた。
「悲しいから流れるものでは、ない」
「誰かを、生かしたいと願う時にも、涙は、流れる」
ノアはシエルの顔を思い出した。
檻の中で泣かずに笑っていた少女。
夜、眠りながら震えていた少女。
胸の奥で何かが熱くなった。
ノアは頷かなかった。
否定も、しなかった。
「シエルが、攫われた」
ノアが言った。
「帝都に、連れて行かれた」
ヤコブがノアを見た。
「行くのか」
ヤコブが訊いた。
「ああ」
ノアが答えた。
「迎えが、来ると、言っていた」
「待てば、楽だ」
「だが、待たない」
「シエルは、共鳴体、と呼ばれていた」
「共鳴体が、何かは、分からない」
「だが、シエルが、生きているとは、思えない」
ノアの中で何かが燃えていた。
その「何か」をノアは知らなかった。
「行くなら」
ヤコブが言った。
「これを、持って、行きな」
ヤコブは引き出しから、小さな袋を取り出した。
中に青白い、結晶が入っていた。
「俺の、妹の、遺品だ」
ヤコブが言った。
「妹が、死ぬ前に、握りしめていた」
「妹の、最後の、想いの、形だ」
ノアは結晶を受け取った。
手のひらの上で結晶はわずかに温かかった。
「五十年、冷たいままだった」
ヤコブが続けた。
「だが、あんたが、来た日から、温かくなった」
「妹が、あんたを、待っていたのか」
「それとも、あんたが、妹に、似ているのか」
「俺には、分からない」
「持って、行け」
「効くかどうかは、分からない」
「だが、あんたが、誰かのために、本当に、願う時」
「妹の、想いも、いっしょに、届くかもしれない」
ノアは頷いた。
「ありがとう」
ノアが言った。
「お礼は、いい」
ヤコブが笑った。
悲しい、笑顔だった。
「あんたが、生きて、戻れば、それでいい」
馬車に乗った。
二日かけて、東へ、向かった。
道中、ノアの中に断片が蘇った。
黒髪の、小さな子供。
灰色の瞳。
「お兄ちゃん」と、呼んでいた。
ノアはその子供の名を思い出せなかった。
だが、確かに誰かがいた。
ノアの、傍に。
帝都が見えてきた。
白い塔が夕日に染まっていた。
「シエル」
ノアは呟いた。
「お前を、取り戻す」
ノアは城門をくぐった。
中に入った。




