『白い結婚』を申し込まれたので好き放題していたら、旦那様だけ『黒い結婚』と騒いでいます
初夜の寝台で、アドリアンは冷たく宣言した。
「君を愛することはない」
言葉にした途端、花嫁――セラフィナは目を見開いた。
大人二人が悠々眠れる巨大な寝台。
辺りには赤いバラの花が撒かれ、甘くなやましい香りが漂っている。
広間ではまだ祝宴が続いているらしく、楽団の音がかすかに届いてきた。
誰もが今夜、この伯爵夫妻が睦まじく結ばれるものと思っていることだろう。
だが、それはない。
「君との結婚は、あくまで家と家の結びつき。それ以上でもそれ以下でもない」
突き放すように、告げる。
ことさらに演じるまでもなく、それは自然にできた。
アドリアンはもともと愛想のない男だった。
彫像のように整った美貌のせいで、社交界では『氷の貴公子』と評されている。
「君に夫婦としての務めを求めるつもりもない。
その代わり、君は好きなように暮らすといい。立場と生活は保証する。
不自由のないようにしよう」
――いわゆる、白い結婚だ。
アドリアンは花嫁を見下ろした。
「何か不満は?」
あるはずもない、とアドリアンは心の片隅で決めつける。
なにしろ、セラフィナの実家は貧乏伯爵家。
セラフィナは持参金が用意できずに嫁き遅れていた三女である。
茶色髪に茶色目の平凡な容姿をしていることもあり、結婚は夢というような境遇だったのだ。
感謝されこそすれ、愛のない結婚程度で文句を言われる筋合いはない。
礼儀として、泣き言の一つくらいは聞くが――そう考えていたら。
花嫁は突然、寝台の上で勢いよく両手を挙げた。
「――やったぁぁぁぁっ!!」
アドリアンはぎょっとした。
思わず半歩下がるほどの歓喜ぶりだった。
淑女らしい慎みなどどこへやら。
セラフィナは膝立ちになり、きらきらと目を輝かせる。
「まあ、まあ、まあ! なんて情け深い方なのでしょう!
夫婦の恐ろしいあれこれは一切なし! 平和! 安全! 安眠!」
「……恐ろしいあれこれ?」
アドリアンは眉をひそめたが、はしゃぐ新妻はそんなことはちっとも聞いていなかった。
「白い結婚だなんて、むしろ感謝いたしますわ。
しかも、その代わり自由にしていいなんて。本当によろしいのですか?」
「あ、ああ。そういっている」
「法律に詳しい友人がおりますの。後日、この件に関する契約書をお持ちしてもよろしいですか?」
「……構わないが」
「ありがとうございますっ!」
アドリアンは鼻白んだ。
ごねてウジウジされるよりは、よほど良い。
だが、こうも白い結婚を歓迎されると、拍子抜けを通り越して調子が狂う。
「実はわたくしも、できればそうしていただきたいと思っておりましたので。願ったり叶ったりです」
「……君にも、他に想い人がいるのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
そこでセラフィナは、わずかに視線をそらした。
「その……夫婦の務めがどうしても必要なら、友人のエスメちゃんに頼んで、錬金術で跡継ぎを用意するしかないのかしら、と悩んでおりました」
「錬金術で跡継ぎ……?」
「何でもありませんわ! どうぞお忘れになって!」
セラフィナは慌てて話題を変えた。
「ええと、旦那様には、他に深く想う方がいらっしゃるのですね」
「……ああ。気の毒な身の上なんだ。僕が支えてやらなければ、彼女は生きていけない」
短く答えながら、アドリアンはわずかに視線を伏せた。
本当は、彼女と結婚したかった。
だが、それは許されなかった。
家からは強く反対され、代わりに用意された縁談の中から選べと告げられた。
その中で、最も波風が立たなそうだったのが、セラフィナだったのだ。
「まあ……それはぜひ、一生をかけて支えてあげてください。応援しております」
きゅっと両手を握られた。
名目上とはいえ妻に応援されるとは、妙な話だった。
しかも皮肉や強がりではなく、本心から言っているらしい。
アドリアンはなんとも落ち着かない気分にさせられた。
「では、寝ましょう。今日は疲れましたし」
「そうだな」
「お互いの領分は、ここからこちら、ということで」
セラフィナは辺りに散らされている薔薇の花を拾い集め、せっせと並べはじめる。
夫婦の接触を断固として拒みたいことが、如実に表れていた。
「そうそう、旦那様。さっそく、友人たちをこの屋敷に招いてパーティーを開いてもよろしいですか?」
薔薇の境界線をきっちり整え終えたセラフィナが、ぱっと顔を上げた。
「もちろんだ。いちいち僕の許可を取る必要はない。この別荘は君の好きに使え」
「まあ……ここは別荘なのですね。さすがモンフォール家。とても立派ですわね」
セラフィナは感心したようにあたりを見回し、遠慮がちに言葉を続けた。
「実はわたくし……お菓子作りが趣味でして。
招く友人たちに、たくさんお菓子をふるまいたいのですけれど」
「菓子くらい、いくらでも用意すればいいだろう」
アドリアンはあっさり承諾した。
セラフィナの実家ではそうでなかったのだろうが、砂糖やバター、上質な小麦や果実程度、この家にとっては取るに足らない出費だ。
「材料も人手も、必要なだけ使えばいい」
「ありがとうございます! 心ゆくまでお菓子作りができるなんて……夢のようです」
頬をほころばせる様子は、いかにも慎ましい伯爵令嬢といった風情だった。
アドリアンは内心、そっと胸をなで下ろす。
素直で従順、派手好きでも贅沢好きでもなく、素朴で平凡そのもの。
見込んだ通りの令嬢だ。
「どういう友人なんだ? 郷里の友人か?」
「甘いもの好きで繋がっている『甘味礼讃クラブ』の皆さまです」
「……なるほど?」
ネーミングは大それているが、実態は他愛なさそうだ。
菓子を好む娘たちが集まって、茶を飲み、おしゃべりに花を咲かせる、といった会だろう。
「その……皆さま少しばかり個性的ですので、旦那様は驚かれるかもしれませんけれど」
「気にしない」
セラフィナのような大人しい娘が「個性的」と評する相手など、大したことあるまい。
声が大きいとか、笑い方が豪快だとか、おそらく程度。
アドリアンは完全に興味を失い、広々とした寝台に身を横たえた。
「好きなだけ菓子を並べて、お茶を飲んで、おしゃべりを楽しんでくれ」
「はい。皆さま、きっと喜んでくださいますわ」
――思った以上に、この白い結婚は穏便に進みそうだ。
アドリアンは満足げにまぶたを閉じた。
まさか数日後、屋敷が七色に輝き、奇人変人の乱痴気騒ぎがはじまるなんて、夢にも思わなかった。
*
結婚式から一週間。
アドリアンは婚礼の翌日には王都へ戻っていたが、週末くらいは静かに過ごそうと別荘へ向かっていた。
人家のまばらな道を、馬車に急がせる。
外はすでに夕闇に沈みつつあった。
(――なんだ?)
アドリアンは秀麗な眉をひそめた。
行く手の空が、妙に明るい。
月明かりではない。色が多い。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫――七色の光が明滅しながら、夜の闇をけばけばしく染めている。
そしてその光は、目的地の別荘が近づくにつれてどんどん強くなってくる。
「――なんだこれは!?」
別荘に到着し、アドリアンは目を剥いた。
召使がドアを開けるのも待たずに、馬車から飛び出る。
品のよいはずの石造りの別荘は、光の帯でぐるぐる巻きにされていた。
窓枠も柱も屋根の縁も、きらきらと発光している。
庭木にまで小さな光球が吊るされ、ピカピカと光りながら風に揺れていた。
厳かな伯爵家の別荘というより、まるで見世物小屋だ。
「いったい何をして――ぶっ!」
顔面に何かが直撃した。
やわらかく、冷たく、べっとりと甘い。
クリームパイだ。
「ぎゃははははは! 大ー命ー中ー!」
腹を抱えて笑っているのは、赤毛をぼさぼさに跳ねさせた、小柄で少年じみた格好の娘だった。
そばかすだらけの顔に、猫のような大きな吊り目。
片手には、次弾のパイまで構えている。
「なんだ貴様は!」
「え? ボク? 大天才錬金術師エスメ様だよ、ノロマちゃん!」
言うなり、二枚目のパイが飛んできた。
アドリアンはとっさに半身を引いたが避けきれず、肩口に命中する。
(錬金術師エスメだと?)
知っている。
幼少にして卑金属から黄金を錬成したと噂される、稀代の天才。
――ただし、性格は最悪。倫理観は壊滅的。王立学院ですら持て余したと言われる問題児だ。
「なんでおまえがここにいる……?」
「なんでって。セラっちの友達だからだよ」
セラっち。おそらくセラフィナのことだろう。
「『甘味礼讃クラブ』のメンバーとして、お祝いに駆けつけたワケ。
なにせボクは会員ナンバー一番! 『飴は食べるものでなく、噛み砕くもの』がモットーの会長だからね!」
エスメはさっそく懐からひとつかみ、飴玉を取り出した。
口に放り込み、ぼりぼりと豪快に噛み砕く。
「……ひょっとして、このけばけばしい飾りつけは」
「そう、ボクの最新発明!」
エスメは得意げに両腕を広げた。
背丈の低い身体を、ビカビカと七色の光が彩る。
「魔力の波長を七系統に分けて、一定間隔で反射率を変えてる『七光星彩灯式』!
低燃費、長時間稼働、ついでに虫も寄りにくい。完璧すぎる仕事でしょ? 褒め称えていいよ?」
言っている意味は半分もわからない。
だが、とにかくこの悪趣味な発光が彼女の仕業ということだけは理解した。
「あっちの自動演奏器もボク様の発明だよ!」
庭の隅では、台に取り付けられたラッパのようなものがやかましく音を発していた。
見たこともない品だ。どういう原理なのかもさっぱりわからない。
「確かにすごい、が――」
目立つ。
そして、うるさい。
ここが王都から離れた別荘で良かったと心の底から思った。
「やったわねー!」
「お返しだ!」
自動演奏器以上に、やかましい怒号が上がる。
使用人も客も関係ない。美しく整えられた庭園では、そこらじゅうでクリームパイが飛び交っていた。
侍女がスーツの紳士に反撃し、貴婦人が若い従僕に追いかけられている。噴水の女神像は、顔にクリームパイを被っていた。
甘ったるい香りが夜気に満ち、木々も芝生も石段もべたべた。
ひどいありさまだ。
「あ! お帰りなさいませ、アドリアン様!」
セラフィナが駆け寄って来た。
にこにこしながら、挨拶、とばかりにパイを投げてきた。
一流のテーラーが仕立てた高級スーツは、さらにクリームに塗れた。
「……」
アドリアンはもう、一言文句をいう気も失せた。
「セラフィナ……これが、君が開くと言っていたパーティーか?」
「はい! 『白い結婚万歳パーティー』です!」
はきはきと答える新妻に、アドリアンはこめかみを押さえた。
(いや、祝うものじゃないだろう……)
普通は隠す。もっとひっそり扱う話題だ。
少なくとも、堂々と『白い結婚万歳パーティー』の幕まで掛けて祝うことではない。
「おめでとう、セラフィナ!」
「義務のない自由な生活、万歳!」
祝福の声と共に、セラフィナにパイがぶつけられる。
いじめじゃないのかと思う光景だが、祝う方は屈託のない笑顔。
本人もいたって楽しそうに、手を振って応えている。
アドリアンはこの会場の常識の所在が気がかりになってきた。
「良かったねえ、セラっち。お金持ちに玉の輿できて」
クリームをなめつつ、エスメがセラフィナの肩を叩く。
「本物のクリームを使ったクリームパイで、盛大にパイ投げパーティーやるのが夢って言っていたもんね」
「はい。我が人生に一片の悔いなし、といった心境です。この家に嫁いで良かったです」
由緒も資産もある我が家の価値が『本当のパイ投げパーティーができる家』なのは嫌だな、とアドリアンは思った。
「ってかさー、これならアレもできるんじゃない?
池いっぱいのゼリーを作るの!」
「あっ、そうですわね! コレットさんが熱望していた、ゼリー池!」
盛り上がるエスメとセラフィナに、アドリアンは慌てた。
「お、おい、たしかに自由にしていいとは言ったが――」
「今さら、いけない、などとは仰いませんよね、伯爵」
すっと、一人の女性が話に割って入って来た。
地味な濃紺のドレス。無駄なくまとめられた髪。細縁の眼鏡。
祝宴の中、一人だけ裁判所から抜け出してきたような女だった。
「一週間前。四月四日二十時三十分、伯は寝室において妻セラフィナにこう仰られましたよね。
『君に夫婦としての務めを求めるつもりもない。その代わり、君は好きなように暮らすといい。立場と生活は保証する。不自由のないようにしよう』――と」
「言ったが。それはあくまで常識の範囲で……」
「これが常識でないと? 『口頭による包括的裁量権の効力』が争点となった、ラヴァン侯爵家別荘使用権事件はご存じで?」
アドリアンは言葉に詰まった。
そんなもの、知るわけがない。
なんなんだ、この女は――そう思っていると、セラフィナが補足した。
「アドリアン様、こちらは会員ナンバー二番のコレットさん。
モットーは『どうせ死ぬならゼリーで窒息死』。
弁護士レニエ氏のお姉様です」
「レニエというと――あの、百戦百勝と有名な敏腕弁護士の!?」
「まあ、あの愚弟も、私の前では百戦百敗ですがね」
コレットは腕を組み、フッと笑った。
クリームパイを頭に被っていさえしなければ、なかなか様になっただろう。
「ああ、そうだ。モンフォール伯、こちらをご確認の上、署名をお願いします」
コレットが差し出したのは、『白い結婚』に関する正式な書面だった。
夫婦の義務を強制しないことにはじまり、夫婦の形だけは保つこと、私生活に口を出さないこと、セラフィナの暮らしと立場はきちんと守ること――それらの取り決めが、整然と書き並べられていた。
最後には、証人の名前を書く欄まである。
「……本当に作ったのか」
「もちろんです。口約束は、後々の争いの元ですから」
コレットは涼しい顔で言った。
「署名を。今、この場で」
有無を言わせぬ口調に押され、アドリアンは署名した。
「写しは作ってありますが。セラフィナさん、こちらは大事に保管しておいてくださいね」
「ありがとうございます、コレットさん」
「もし何か難癖を付けられたら、私に一報を」
コレットは眼鏡を押し上げた。
ぎらりと、レンズが光る。
「『歩く律法全書』の異名にかけて、必ずや勝訴して見せますよ」
「ふふふ。コレットさん、負けず嫌いですしね。頼もしいです」
「ええ、謝るのが死ぬほど嫌いなので。謝らないためには勝つしかありません」
挑戦的な目を向けられて、アドリアンは早くも目線を逸らした。
絶対戦いたくなかった。
*
「ところで。なぜ白い結婚を?」
ミントゼリーと、体についたクリームを交互に食べながら、コレットが聞いてきた。
パイ投げ大会は終わり、今は喫茶の時間になっている。
「旦那様には、他に深く想う方がいるからですわ」
焼き立てスコーンを運びながら、セラフィナ。
その後ろに控えている執事は、さすがに渋い顔をしたが、この場の面々は誰一人気にしていない。
「ほほう、愛に生きるタイプか」
「若いねえ」
むしろ面白がっている気配すらある。
普通はもう少し気まずくならないか、とアドリアンの方が気兼ねした。
セラフィナに至っては、さらに深堀りしてくる。
「どのような方なのです? 差し支えなければ、教えてくださいな」
「……クレマンスというんだ」
妻の前で別の女を語るなど、本来なら褒められたことではないが。
妻本人が聞きたそうにしているので、アドリアンは口を開いた。
「慎み深く、心優しい女性だ。
高貴な血を引いているが、複雑な事情があって、表立って名乗れずにいる」
クレマンスのことを語ると、それだけで胸の奥がじわりと熱を帯びた。
アドリアンは割ったスコーンにクリームを塗りたくる。
「体も弱い。生まれつき心臓が悪いそうだ。
頼れる身内もなく……僕が支えてやらなければ、彼女は一人で生きていけないんだ」
語るうち、自然と声音に熱がこもる。
夢中になりすぎているという自覚はあるが、止まらない。
手元のスコーンにジャムを載せながら、続ける。
「ずいぶん苦労を重ねてきたようだが、どんな目にあっても人を恨まず、ただ静かに耐えている。
あんなに気の毒な身の上の女性を、僕は他に知らない」
言い終えて、勢いのままスコーンを頬張った。
甘い。ジャムを盛りすぎた。
「お可哀想に……」
ぽつりと、セラフィナがつぶやいた。
「お体が弱くて、頼れる方もいらっしゃらないなんて……。
さぞ心細いことでしょう」
それから何か思い当たったらしく、きょろきょろとあたりを見回す。
「確か今日は、あの方が参加なさっていたはず。
会員ナンバー、十三番。モットーは『焼き菓子はグリッグの森に住むキツネ色が最上』のメアリーさん。とても腕のいい治療師と聞いたことが」
「メアリー……まさか『聖手のメアリー』か!?」
のけぞるアドリアンを置いて、セラフィナは少し離れたテーブルへと駆けていった。
パウンドケーキ一本を、かじってはクリームをつけ、かじってはクリームをつけと、豪快な食べ方をしていた女性を連れてくる。
「メアリーさん、お願いですわ。気の毒な女性を治して差し上げてほしいのです」
「えー……メアリー、人間は嫌いなんだけど……」
連れて来られた女を見て、アドリアンは息をのんだ。
緑の髪を無造作に垂らした、垂れ目の女。
間違いない。『聖手のメアリー』――どんな傷も病も癒やすと評判の治療師だ。
どんな時でも動物を連れているという噂通り、首にはテンが巻きつき、頭の上には小鳥がのっている。
「頼む、診てくれ! 報酬は望むだけ払う!」
アドリアンは思わず立ち上がった。
王侯貴族ですら一目置く治療師に、こんなところで会えるとは思わなかった。
だが、向こうは露骨に顔をしかめる。
「嫌。メアリー、森を削り、川を濁し、空気を腐らせる害獣なんて、半分くらい減っても困らないって思ってるし」
けんもほろろの応対。
これまた、噂に違わぬ偏屈ぶりだ。
王族の依頼すら蹴って、密猟者に傷つけられた動物を治しに行ったという逸話は、どうやら誇張でないらしい。
「そこを、どうにか……!」
アドリアンが必死に食い下がっていると、セラフィナが身を乗り出した。
「メアリーさん、以前から食べたがっていた例のタルト、お作りしますから」
メアリーの耳が、ぴくりと動いた。
「あの……『ダラスの気まぐれタルト』?」
「はい。メアリーさんが食べた時のもの、材料を揃えるのが難しくて再現できないでいましたが、今なら揃えられますので」
「じゃあ、やる」
あっさりうなずくメアリー。
アドリアンはほっと肩の力を抜いたものの、不安げに眉根を寄せた。
「『ダラスの気まぐれタルト』というと、その名の通り、毎度材料が適当というタルトだろう? 再現なんて、できるのか?」
小声で尋ねる。
セラフィナはきょとんとした後、ああ、とはにかんだ。
「実はわたくし……魔法はからきしですけれど、お菓子に関してだけは、なぜか分かってしまうのです」
「分かる?」
「はい。口にしたことのあるお菓子なら、使われている材料も、混ぜる順番も、焼き加減も、だいたい見当がつきますの」
思いもよらない特技だ。アドリアンは目を丸くした。
「たまに、作っている場面まで頭に浮かぶことがありますわ」
「占術師が使う『過去視』のようなものか?」
「たぶん。お菓子限定の、おかしな力です」
エスメが横から口を挟んだ。
「セラっちのそれ、ほんと便利なんだよね。
始まりは、ボクが一時期ハマった『廃液味キャンディ』を再現してもらったことでさ」
「ええ。エスメちゃんが方々でそれを話すもので『あの味を再現してほしい』と仰る方が来るようになって」
「『甘味礼讃クラブ』が発足したんだよねー」
にゃはは、とエスメが八重歯をのぞかせて笑う。
「とはいえ、再現するの大変だから。『甘味に命捧げてる人』って条件つけたら、なんか個性的なやつばっかり集まったね」
エスメにつられて、アドリアンも周囲を見回す。
チョコソース入りのジョッキを持った上半身裸の男。
潰れたクリーパイにクリームを足して食べている、鉄仮面の貴婦人。
会場を歩き回っては、でっぷり肥った巨漢が落ちているクリームパイを幸せそうに頬張っている。
(……あれは、王弟殿下では?)
見間違いであってほしい。
いや、見間違いだ。そういうことにしておこう。
深く考えるのはやめた。心臓に悪い。
甘味好きの娘たちが集まって、穏やかに茶を飲み、おしゃべりに花を咲かせる――そんな平和な会を想像していた、数日前の自分を殴りたい。
ここは茶会の皮をかぶった魔窟だ。
それにしても、とアドリアンは改めてセラフィナへ視線を戻した。
「クレマンスのこと……なぜここまで協力してくれるんだ?」
「なぜって。たぶんその方が、わたくしに変わって跡継ぎを生んでくださるのですよね?」
アドリアンは口ごもった。
その通りなのだが、仮にも正妻に向かって肯定はしづらい。
「そこまで分かっているなら、なおさら不思議なんだが……」
「出産って、とても痛そうではありません?」
「は?」
セラフィナは、はあ、と憂鬱そうにため息を吐く。
「わたくし、本当に痛いのが苦手でして。
擦り傷でも大騒ぎしますし、熱いお鍋にうっかり触れた日は、半日くらい落ち込みますの」
「ボクの飴作るのにヤケドしたとき、人生の終わり、みたいな顔してたよね」
ぼりぼり飴をかみながらエスメ。
「ですから、別の方が跡継ぎを産んでくださるのでしたら、それはもう、感謝しかありません!
むしろありがとうございますっ!」
手放しで喜ばれて、アドリアンはしばし沈黙した。
この女は本当に、自分の想定を軽々と飛び越えてくる。
「それで、クレマンス様はどちらに?
メアリーさんの気が変わらないうちに連れてきて欲しいのですが」
「そう遠くないところにいるから、すぐ連れてこさせる」
クリームまみれのアドリアンは、召使いを使いに出した。
*
使いを出してから、それほど待たずに馬車の音が聞こえてきた。
やがて、薄手のショールをしっかりと体に巻きつけた金髪の美女が、庭へと現れる。
夜闇の中でも浮かび上がるほど白い肌。
華奢な体は、風が吹けば飛ばされてしまいそうだ。
アドリアンはたまらず、クレマンスへと駆け寄った。
「急に呼び立ててすまない。無理をさせてしまったか」
「いいえ、アドリアン様がお呼びでしたもの」
クレマンスは微笑み――それから、細く整った眉をわずかにひそめた。
クリームパイまみれの庭に、戸惑いの色を浮かべる。
「あの……これは一体?」
「話すと長くなる。周りのことは気にしないでくれ」
アドリアンは愛しい人へ、そっと手を差し伸べた。
「足元に気をつけて。そこらじゅう滑りやすい」
「ええ――きゃっ!」
言ったそばから、クレマンスが足を滑らせる。
アドリアンは即座にその細い身体を抱きとめた。
「大丈夫か?」
「は、はい……申し訳ございません」
クレマンスが、きゅっと彼の腕にすがりつく。
その小さな仕草ひとつで、アドリアンの胸は熱くなった。
守りたい、と強く思う。
風からも、世間からも。いや、すべてから。
「まあ……なんて麗しい。まるで絵画のような光景ですわね」
振り向くと、セラフィナがいた。
うっとりと、二人を見つめている。
「……あちらのお嬢様は?」
「はじめまして、クレマンス様! 先ごろアドリアン様の妻となりました、セラフィナと申します」
正妻との突然の対面に、クレマンスの表情が強ばる。
セラフィナは慌てて言葉を続けた。
「わたくし、旦那様のお気持ちがクレマンス様にあることは承知のうえで、この結婚を維持しております。争うつもりは一切ございませんの」
「いいえ、奥様。私のような者が奥様と相対するなど、失礼にあたります。どうかこれで失礼させてください」
身を引くクレマンスを、セラフィナが引き止めた。
「お願いですから、どうかお待ちになって!」
「そうだ、クレマンス。居づらいのは分かるが、まだ帰らないでくれ」
アドリアンも重ねて引き止めた。
「君に『聖手のメアリー』の治療を受けさせるために呼んだんだ。こんな機会、二度とない」
「『聖手のメアリー』!? あなた、そんなツテが……?」
「いや、妻のツテなんだ。君の話をしたら、放っておけないと頼み込んでくれて」
「まあ……」
クレマンスは、碧い瞳を見開いた。
「奥様、なんてお優しい……」
「ねー、セラちゃん。治療するヒト科のメスって、それ?」
三人のやり取りに、治療師メアリーがずかずかと割って入ってきた。
いかにも面倒くさそうに、二匹の蛇が巻きついた長杖を肩に担いでいる。
「はい、メアリーさん。よろしくお願いいたします」
「じゃあ、ちょっと見るね」
メアリーは軽く杖を振った。
淡い光がクレマンスの全身をなぞるように走る。
「……どうですか、メアリーさん。治せそうです?」
セラフィナがおずおずと尋ねると、メアリーは難しい顔をした。
「これは……ムリだね」
「『聖手のメアリー』でも手の施しようがないほど悪いのか!?」
アドリアンが真っ青になると、メアリーは手を左右に振った。
「いや、ちがくて。病気なんてどこにもないから、治しようがないだけ」
「……は?」
意味を理解しかね、アドリアンは聞き返す。
「……どこも悪くない?」
「心臓が悪いって言ってたけど、異常なし。他も一応見たけど、全部正常。健康そのもの」
メアリーは「んー」と人差し指をアゴに当てる。
「あえて病名つけるなら、仮病?」
名医はあっさり診察を終え、踵を返した。
テーブルへ戻り、何事もなかったかのようにカップケーキを頬張りはじめる。
「仮病……?」
アドリアンは、腕の中の愛しい人を見下ろした。
「違います!」
クレマンスは青ざめた顔で首を振る。
「大人になり、心臓の調子は良くなったと感じております。
しかし、それでも体調の優れない日はございます。具体的にどこが悪いのかと問われれば、はっきりとは言い表せませんけれど……
演技だなんて、あまりですわ」
細い手指ですがられて、アドリアンは反射的にうなずいた。
「分かっているさ。君が苦しんでいるところを、僕は何度も見てきた」
「はて……ご婦人。そのお顔、どこかで」
コレットが眼鏡を押し上げながら、近づいてきた。
レンズの奥の瞳は、鋭い。獲物を捕らえ猟犬のようだ。
「――ラグラン男爵をご存じで?」
「いいえ? どなたですか?」
「弟のもとへ相談に来た方なのですがね。
亡国の高貴な血筋を名乗る、病弱で孤独な美しい女性の面倒を見ていたそうなのですが――ある日、彼女が姿を消しましてね。
その際、彼の屋敷からいくつかの宝飾品がなくなっていたそうです」
コレットはクレマンスの美しい顔を、下からのぞきこむ。
「男爵が語っていた女性と、貴女は非常によく似ていらっしゃる」
「――!」
アドリアンは、腕の中のクレマンスの身体が強張るのを感じた。
「やめろ、コレット。彼女はそんな女性ではない」
「ええ、私もそう思いたいところです」
静かな応酬。場の空気が冷えていく。
マイペースを体現したような『甘味礼讃クラブ』の面々も、さすがに異変を察してこちらに注意を向けていた。
「彼女は本物だ。王家の指輪を持っているんだ」
「ええ、そうですわ。これがなによりの証拠です」
クレマンスはゆったりとした仕草で、首元に手をやった。
首にかけている細い鎖を手繰り寄せる。
ドレスの下から現れたのは、金色の古びた指輪だ。
「ご覧ください。この通り、ボーモン王家の紋章が刻まれております。
わが一族に代々伝わる印章指輪ですわ」
「――ふうん?」
ぬっと首を突っ込んできたのはエスメ。
目を輝かせて指輪をのぞきこむ。
「ねえ、それって純金製?」
「もちろん」
「本当かなあ?」
言うが早いか、エスメはクレマンスの手から指輪をひったくった。
重みを確かめるように二、三度、手のひらの中で跳ねさせたかと思うと、どこからともなくハンマーを取り出した。
止める間もない。それを思い切り振り上げる。
「おいっ! 何をする!」
「検査だよ、検査」
がんっ、と大きな音が響いた。
「そんなことをしたら歪――」
「歪まないよお」
エスメが八重歯を見せて、にいっと笑う。
彼女の言う通り、軟らかな純金製であるはずの指輪の形は変わっていない。
代わりに、表面の金色が剥げ、その下から鈍い灰色の地のぞいていた。
「ほーらね。純金じゃない。
たぶん真鍮かな? それに金メッキしただけの安物だよ」
「なっ……!?」
「インチキ指輪だ。王家の末裔なんて、嘘っぱちだね。あははははっ!」
遠慮のない笑い声が、アドリアンの胸をえぐった。
「クレマンス……」
信じたい気持ちと、信じきれなくなりつつある気持ちがせめぎ合う。
アドリアンは無意識に半歩、愛しい人から距離を取っていた。
「……ええ、そうよ」
クレマンスは、ふっとため息をつくように言った。
さっきまでの儚げな女が嘘のように、背筋を伸ばす。
尊大な仕草で、長い横髪を払った。
「ボーモン王家の末裔なんて、真っ赤な嘘。その家の厨房で下働きをしていただけよ」
「なん――っ!?」
怒りと動揺で、アドリアンは満足に言葉が出てこない。
クレマンスはその前で、悪びれることもなく肩をすくめる。
「びっくりするわ。少しばかり身なりを整えて、身の上話をそれらしく作っただけで、みんなころっと信じるんだもの。バカみたい」
「貴様……!」
「怒らないでよ」
クレマンスはくすりと笑った。
か弱さのかけらもない、ふてぶてしい笑いだった。
「あなたも楽しかったでしょう? かわいそうな女を守る、頼れる男の役ができて」
「――っ!」
絶句するアドリアンに構わず、クレマンスは広い庭と立派な別荘を見回した。
「ただ貴族に生まれたってだけで、こんなに贅沢な暮らしができるんですもの。少しくらい、おこぼれに預かったっていいじゃない」
「……何が、少しだ」
アドリアンは奥歯を噛んだ。
怒りと恥辱で、全身の血が沸騰しそうだった。
「僕の情けも、信頼も、すべて踏みにじっておいて――少しで済むと思うのか」
乱暴に、クレマンスの細腕をつかむ。
「身分詐称に詐欺未遂。詰所へ引き渡せ!」
力任せに、召使たちの方へ詐欺師の身を投げつける。
「ちょっ、離しなさいよ! 触らないで!」
クレマンスは数人の男に引きずられなら、庭を出ていった。
あとに残ったのは、なんとも言えない沈黙。
奇人変人の集まりであるこの場ですら、さすがに今の一幕は予想外だったらしい。
七色の灯りだけが、静かな会場で場違いに明るく瞬いている。
「――失礼する」
アドリアンは踵を返した。
これほどいたたまれない気持ちになったのは初めてだった。
ただただ自分が情けなかった。
「ア……アドリアン様!」
「今は一人にしてくれ」
追ってくるセラフィナを無視して、屋敷へ向かう。
だが、足音はまだ付いてきた。
「一つだけ言わせてください。わたくしは、安心しました!」
階段の途中で、アドリアンは足を止めた。
安心?
何がだ。まんまと騙されていた、滑稽で情けない夫だ。
不安になることはあっても、安心する要素などひとつもないだろうに。
「突然、白い結婚を申し渡されたとき、わたくし不安でした。
お噂の通り、氷のように冷たい方なのだと思って……」
アドリアンはそっと後ろを振り返った。
形ばかりの妻は、階段の下で両手を握り合わせていた。
「でも、クレマンスさんへの想いの深さを知って、安心したのです。
ああ、この方は表に感情をあまり出さないだけで、とても情け深い方なのだと」
「……違う。ただ、自分に酔っていただけだ」
クレマンスの言った通り。
哀れな女を救う自分に、勝手に満足していただけ。
こうして言葉にしてみると、ますます自分が情けない。
「アドリアン様。わたくし、悪いのは騙す方だと思っております」
セラフィナは言葉を探すように、目元に視線をさまよわす。
「ですから、その……ご自分の優しさまで、間違いだったとお思いにならないでくださいませ」
「……」
「人の付け入る隙もないような完璧な方より、お人好しな方のほうが、素敵だと思います」
薄茶色の目が、まっすぐにこちらを見上げた。
赤に青に紫に。虹の七色に彩られる顔。
平凡なはずのその顔が、なぜだかはっとするほど心に焼き付いた。
「あまりご自分を責めないでください」
自分の言葉に照れたらしい。
セラフィナは「では」と軽く頭を下げると、逃げるように去って行った。
のろのろと、アドリアンは階段を上がった。
酷い失態のせいで胸は痛む。
けれども、さっきまで感じていた息苦しさは、少しましになっていた。
*
それから二週間ほど、アドリアンは忙しかった。
普段の仕事に加え、詐欺の件で事情聴取を受ける日々が続いた。
そのたびに傷口をえぐられるようで、気分は散々だ。
せめてもの慰めは、自分以外にも騙されていた人間がいたことだろうか。中には、かなりの額を貢いでいた者もいたらしい。
「奥様が早く気づいてくださって、よかったですね」
最後の取り調べの際に、そう言われた。
(……そうだな)
素直に、そう思った。
ひと段落つくと、自然と足は別荘へ向かった。
(礼くらいは、言わないとな)
自分の不幸にばかり気を取られていて、助けられたことはすっかり頭から抜け落ちていた。
お礼の品として、菓子を用意した。
甘いものは苦手だから、詳しくない。知人にいくつか聞いて、その中から無難そうなものを選んだ。
(……これで大丈夫だろうか)
馬車に揺られながら、ふと手元の箱を見る。
好きなものを聞いてからの方がよかったかもしれない。
いや、そもそも菓子でよかったのか――
ただ礼を言うだけ。
そんなに気負うことではないはずなのに、アドリアンはずっと落ち着かなかった。
(今日は、大丈夫そうだな)
馬車を降りながら、アドリアンは屋敷の様子を確認した。
七色に光っていない――よし。
庭に、パイは飛んでいない――よし。
ひとまず安堵して歩みを進めた、そのとき。
「あら、お帰りなさい」
聞き覚えのある、甘く涼やかな声。
アドリアンは、ぴたりと足を止めた。
庭のテラスで、金髪碧眼の美女――クレマンスが、優雅に紅茶を口にしていた。
「なぜおまえがここにいる!?」
「なぜって。奥様に招待されたからよ」
「はあ!?」
度肝を抜かれる。
テラスに、セラフィナが揚げ菓子の入った籠を持ってやってきた。
「あら、旦那様。お帰りなさいませ」
「セラフィナ、どういうことだ!? なぜこの女がここにいる?」
「ああ、それは――わたくし、どうしても知りたいことがありまして」
「知りたいこと?」
「ボーモン王家のパーティーで必ず供されていたという揚げ菓子の製法です。
まぶされている秘密のパウダーが、それはもう、一度食べたらやめられない止まらない味と評判で」
「その家の厨房で下働きをしていたクレマンスなら、知っているかもしれないと……?」
「はい! 正確な分量までは分からないそうですが、材料と味は覚えていると仰っていましたので」
セラフィナは、にこやかにうなずいた。
相手が詐欺師であることなど、どうでもいいらしい。
「いや、でも、どうやって詰所から連れ出して」
「そこは私が手配しました」
セラフィナの後ろから現れたのは、コレットだった。
書類の束を抱えているあたり、嫌な予感しかしない。
「身元引受人として、いったんこちらで預かる手続きを取りました。
被害も限定的で、逃亡のおそれも低いと判断されましたので」
「その後の処分も、この人がなんとかしてくれるって言うから。取引に乗ったのよ」
クレマンスはそう言って、セラフィナが運んできた細いねじり揚げ菓子をつまんだ。
ひと口かじり、うん、とうなずく。
「だいぶ近いわ。でも、シナモンがもう少し効いていたかも」
「本当ですか! あの失われた味を再現できるなんて……甘味礼讃クラブの皆さまも、きっと喜びます」
「さらにシナモン追加、ね。〇・一グラム単位で詰めていこうか」
隣で、エスメが楽しそうにメモを取っている。
今日もこの屋敷は、常識が不在らしい。
「旦那様もいかがですか?」
「あ――ああ、いただこう」
にこにこと勧められると、甘いものが苦手だとは言えず、アドリアンは揚げ菓子をひとつ取った。
「ってか、アドちゃんなんかいい匂いさせてるー。その箱なに?」
「勝手な愛称をつけるな、無礼者。そして勝手に触るな!」
「いいじゃん。どうせ手土産でしょ?」
「……手土産というか」
セラフィナも、不思議そうにこちらを見ている。
アドリアンは咳払いをひとつして、ぶっきらぼうに口を開いた。
「この前は、そこの詐欺師のことで世話になったから。礼だ」
「殊勝な心がけだね、アドちゃん。騙されずに済んだのは、ボクらのおかげだもんね」
「ほう、王都で評判のプディングケーキではありませんか。気になっていた品です。遠慮なくいただきます」
コレットたちは当然のように箱を受け取り、開封にかかった。
セラフィナもナイフを取って、嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます、アドリアン様。さっそくいただきます」
「……あ、ああ」
本当は、セラフィナ一人に渡すつもりだったのに。
想定と違うなりゆきになってしまい、アドリアンは肩を落とす。
「……なんだ、詐欺師。その顔は」
「いーえ、なんでも?」
にやにや笑うクレマンスを、アドリアンは睨みつけた。
「しかし……クレマンスさんが旦那様と何でもなかったとなると、困りましたわ」
プディングケーキの表面をつつきながら、セラフィナが小さくため息をついた。
「跡継ぎを生んでくださる方が、いなくなってしまいました」
「やっぱり、当初の予定どおりホムンクルス計画やる?」
カラメルソースで口周りが汚れることも構わず、エスメはケーキをがぶりとかじる。
「まだ成功例はないけど、ボク様の頭脳をもってすれば絶対可能!」
「法的リスクが大きいので、お勧めしかねます。それならば、養子を迎える方がよろしいかと」
プディングとスポンジ層を分離させつつ、コレットが淡々と意見する。
「家名と財産の継承のみが問題であれば、法的整理で十分対応可能です」
甘ったるいケーキを口に押し込みながら、アドリアンはめまいを覚えた。
なんなんだ、こいつら。
倫理観の壊れた会話を、さも当然のように交わしている。
そして妻は、それを平然と受け入れている。怖い。
クレマンスがフォークを揺らしながら、呆れたように言った。
「というか、一番早いのは、奥様自身が産むことじゃないの?」
そう。その通りだ。
この場で一番まともなことを言っているのが詐欺師というのは複雑だが、少しほっとした。
「む、無理ですわ!」
セラフィナは激しく首を左右に振った。
「わたくし、痛いのが大の苦手なんです! 出産なんて、考えただけでも恐ろしい。
夫婦のあれこれも怖いですし……」
「……は?」
クレマンスがぽかんとした。
「出産はともかく、夫婦のあれこれって……あなた、何を想像してるの?」
「何って……ご、拷問のようなものなのでしょう!?」
セラフィナは顔を赤くしながら、必死の形相で訴える。
「みんな言っていましたわ! 毎晩死ぬような目に遭うとか、歩けなくなるほどだとか……。
エスメちゃんに教えて頂きましたけれど、これくらいの物体を体の中に入れるのですよね?」
そう言って、卓上にある筒状のペッパーミルを示す。
「そんな苦行、わたくし耐えられそうにありません!」
クレマンス同様、アドリアンも呆然とした。
「……奥様。そりゃ、最初は多少辛いこともあるでしょうけど、そんな死ぬような話じゃないわよ」
「え?」
「大げさすぎよ。そこまで怯えることじゃないわよ」
「ええっ!?」
セラフィナは勢いよくアドリアンの方を振り向いた。
「ほ、本当ですか……?」
「――」
アドリアンはすぐに言葉が出てこなかった。
分かっている。セラフィナに他意はない。子供のように純真に、ただ答えを欲しがっているだけだ。
しかし、内容のせいで妙に意識してしまう。
自分は、この女性の夫なのだということを。
白い結婚をした相手なのに。
何とも思っていなかったはずなのに。
夫婦という事実に心が乱れる。
「……あ、ああ」
アドリアンは声が上ずった。
頬が熱い。顔が赤くなっていなければいいが、と願う。
「少なくとも、君が聞かされているほど恐ろしいことじゃない。
皆が面白がって、あることないこと吹き込んだんだろう」
あの奇人変人ぞろいの集まりなら、あり得る話だ。
「わたくし……騙されておりましたの?」
「……た、確かめてみるか?」
ついこぼれ出てしまったセリフに、場が静まった。
アドリアンは言ったそばから後悔したが、もう遅い。
「確かめる?」
「い、いや、その……気になるなら、自分で確かめるのが一番だと、そう思って」
こんな人前で自分は何を言っているんだ、とアドリアンは焦った。
対して、セラフィナは真剣そのもの。
「……なるほど」
アゴに手を当て、難しい顔で悩みはじめる。
エスメが横から指摘した。
「でもセラっち。事実を確かめた先にあるのは、やっぱり最大の難関、出産だよ?」
「あっ、そうですわね」
コレットも淡々と追撃する。
「試行なさるのなら、契約書も変更した方が良いかと。後で難癖つけられては面倒ですし」
「うーん……手間ですわね」
セラフィナはあっさりと思考を打ち切った。
「やっぱり結構です。お気遣いいただき、ありがとうございます、旦那様」
「……そ、そうか」
アドリアンは茶をすすり、もそもそとケーキを口に運ぶ。
となりのクレマンスが、にやにや笑いながら囁いてきた。
「残念ねえ」
「何がだ」
「甘い物まで食べちゃって。本当は苦手なくせに」
何もかも見透かしたような顔で、肘でつついてくる。
アドリアンはその腕を払いのけた。
「さっさと帰れ、詐欺師が。おまえのいていい場所じゃない」
「あら、この屋敷は奥様の自由にしていい場所なんでしょ?」
ぐっと言葉に詰まる。
その通りだ。
「クレマンスさん、お茶のおかわりはいかがですか?」
「いただくわ」
悠然と二杯目を注いでもらうクレマンス。
腹立たしい。
「ねえ、奥様。跡継ぎの件だけど。
知り合いに頼んで、アドリアンを本気で口説き落としてもらいましょうか?
もちろん、健康で身元のしっかりした子を選ぶわよ」
「まあ、旦那様に新たな恋人を紹介してくださるのですか? 助かります!」
「やめろ!」
アドリアンは叫んだが、女たちはまるで聞いていない。
「培養槽で胎児を育てるのは?」
「いざとなれば分家筋から乳児を迎え、出生記録の管理が甘い地方で手続きを整える方法もありますね」
「隠し子ルートもありよねえ」
とんでもない案が飛び交う、穏やかな午後の茶会。
「白い結婚どころか……黒い結婚だ」
ケーキの最後のひとかけらを飲み下し、アドリアンはうめいた。
セラフィナのモットーは『多すぎるくらいがちょうどいい』ですが、パーティーのお菓子は投げたパイも含めすべて消費されておりますのでご安心ください。
SDGsに配慮しております。
お読みくださり、ありがとうございました!




