婚約破棄
「婚約を破棄しよう。君よりも優秀な、隣国の王女と結婚することにしたんだ」
ある日突然城に呼び出された、幼少期からの婚約者である第一王子ユラディアントの言葉に、淑女の鑑と謳われたアリーアがポカンと口をはしたなく開いてしまったとしても、仕方ないと言われるだろう。
「隣国王女とおっしゃいますと、あのミレリアーゼ様……でしょうか?」
内々に、あくまで内密にだが、大陸のほとんどを統一したとされるユセイグ帝国の第一皇子との婚約が囁かれていたはずだが……と一瞬思い悩んだアリーアに、ユラディアントが胸を張った。
「あぁ。帝国皇子に言い寄られて困っていたが、彼女が僕の美しさに惚れてしまったようで、結婚を約束したんだよ。先日の交流会でね」
先日の交流会というと、すでに成人済みのユラディアントのみで出席したものだろう。まだ学生のみであるアリーアは、学業優先という国の方針で欠席したのだった。
その優秀さと妖精のような美貌で有名なミレリアーゼが、生きる絵画とまで謳われた美貌と大陸統一を成し遂げると噂される優秀さを併せ持つユセイグ帝国の第一皇子よりも、このユラディアントを選んだ……? そんな疑問を抱きながらも、今ここを逃しては婚約者の座から逃れられないと判断したアリーアが、城まで連れてきていた執事に声をかけて婚約破棄の書類を整えた。
「では、こちらにサインを。正式な婚約破棄の書類ですわ。こちらで教会に提出しておきますから。破棄理由は、殿下が別の方と結婚することにしたから、でお間違いありませんね?」
「あぁ……やけに準備がいいな」
そう言って殿下がサインを終えると同時に、あくまで優雅に、しかしひったくるように回収した書類は、アリーアの目の合図を受けた執事が優雅に、しかしありえないほどの早足で退出し、教会に提出しにいった。教会に持ち込んでさえしまえば、二度と婚約が結ばれることはないだろう。
「さて、殿下。婚約者として最後のひととき、少しお茶に付き合っていただいてもよろしいでしょうか?」
「あぁ。僕は優しい男だからな」
執事が教会に提出を終え、教会前で空に向かって色のついた魔力を打ち上げるまで、アリーアは淑女の鑑の姿を崩さず、お茶の時間を過ごしたのだった。
「……終わったようですわ。では、殿下。御前失礼致します。今まで婚約者として至らぬ点もございましたが、長い間、ありがとうございました」
美しく礼をしてユラディアントの部屋から出たアリーアは、いつの間にか戻ってきていた執事に小声で指示を飛ばす。
「……早急にお父様とお母様、お兄様に家に戻るようにお伝えして?」
「すでに手配済みです」
「さすがね」
淑女の鑑と言われるアリーアが歓喜を表情に表して、スキップのような足取りで城から帰る姿を見た、城の使用人が噂した。
「見て、アリーア様よ。今日も美しいわね」
「……嘘。アリーア様がスキップしていらっしゃるわ!?」
「私の目の錯覚じゃなかったのね……え、もしかして、何かいいことでも合ったのかしら?」
「確か、今日のアリーア様は殿下に呼び出されていたわ。殿下から素敵な贈り物でももらったのかしら?」
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「ただいま戻ったぞ、アリーア! 火急の用とはなんだ?」
アリーアの手を取り、腰を支えながらエスコートする男の姿に、アリーアの父である公爵が目を剥いた。
「あ、アリーア! まだ殿下の婚約者の身なのに、何をやっている!? ライマーも早くそこから手を離せ!」
ぎゅっと、より一層身体を密着させたライマーと呼ばれた少年が、にっこりと笑って公爵に向かって口を開いた。
「先ほど、アリーアから連絡をもらったのですよ。やっと婚約が破棄されたとね」
アリーアの髪に口付けを落としながら、ライマーがアリーアに愛を囁いた。
「早くこの手に取り戻したかったよ、アリーア」
「もう! ライマー兄様ったら!」
くすくす笑うアリーアに、公爵が目を白黒させながら、ライマーに問うた。
「ライマーは隣国にいたはずだろう!? アリーアが別の男と婚約者として振る舞っているのを見ると、父の残したこの国を破壊してしまいそうだから、と。いつ戻った?!」
「……先ほど、ですけど?」
隣国とこの国の王都まで馬車で十日はかかる。移動のための転移門を使ったとしても、国同士の間には結界が存在するため、数日はかかるだろう。
「アリーアはいつライマーに連絡した?!」
「先ほど、ですわ?」
二人合わせて首を傾げる様子に、公爵は自分の気が狂ったのかと思った。
「どうやって帰ってきた!?」
「はぁ……。まず、アリーアからの手紙はできるだけ早く受け取りたいといつも思っていたので、転移する手紙を作りました。こちらはアリーアに渡していましたが、あれの婚約者であったアリーアからは季節の挨拶くらいしか届きませんでしたがね」
そう言ってアリーアの髪を撫でるライマーに、ごめんなさいと謝意を述べるアリーア。そのしゅんとした姿にライマーは破顔して、おでこに口付けを落とした。
「そして、アリーアからついに婚約が破棄されたという連絡を受けて、開発したばかりの転移魔法を使って、この家のアリーアの部屋に現れたってことです」
「おま!? 何を!?」
混乱する公爵に、アリーアは微笑みを浮かべて言った。
「お父様。ライマー兄様ですもの」
「左様でございます、旦那様。ライマーディアント様でいらっしゃいますから」
娘と執事の言葉に疑問を飲み込んだ公爵が、やっと立て直したタイミングで、アリーアの兄と母が帰宅した。
「あら、ライマー? 大きくなったわね?」
「おぅ、ライマーか。どうやって帰ってきたんだ?」
「転移魔法で」
ライマーディアントのその言葉に納得した二人に、なぜそんなすぐに納得できる!? と、公爵が頭を抱えて、公爵夫人がくすくすと笑った。
「アリーアに関することでライマーが手を抜くなんて考えられませんもの」
「アリーアとあれの婚約は、兄君に意表を突かれた形だからな」
そう言って、二度と離さないよとアリーアを抱き止めるライマーディアントに苦言を呈するものはもういなかった。
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「……ミレリアーゼ様と結婚、だと?」
無事婚約を破棄した祝杯をあげた後、どのように婚約破棄になったのか説明するアリーアに、公爵は顔を顰めた。
「ミレ様がユセイグ帝国の第一皇子ではなく、ユラディアント様を選ぶなんて……考えられませんわ」
「もしかして、あれは、隣国の貴族言葉を知らないんじゃないか?」
アリーアにあれこれと食事を取り分けていたライマーディアントが口を開くと、そう問いかける。
「……さすがに、それはないだろう」
「あぁ、アリーアに王子教育も全て負担させていたといえども、流石に外交問題になりかねない部分については教育を施したと聞いている」
公爵とアリーアの兄がそう言うと、公爵夫人が首を傾げた。
「でも、あのミレリアーゼ様がうちの王子を選ぶなんて……」
「では、ミレリアーゼ様に事実をお伺いする手紙を書こう」
そう言って、ライマーディアントが懐から紙を取り出し、手紙を書いていく。
「いや、しかし、ライマー。手紙が届くまで時間がかかるぞ」
そう言った公爵に、ライマーディアントは笑って言った。
「この手紙は一日でミラリアーゼ様に届きますよ」
「あら? わたくしにくれた手紙の魔術具よりも時間がかかるの?」
「あれは、アリーアのためだけに作り上げたものだからね。あれは転移魔法の応用だったけど、これは単に速度をいじってあるだけなんだよ?」
そうライマーディアントがアリーアに微笑み、その瞬間執事が窓を勢いよく開け放った。
「何を、」
公爵が口を開く前に、ライマーディアントが封をし終えた手紙に羽が生え、音もなく周囲に爆風を巻き起こして窓から飛び立っていった。
「……ライマー。あれの着陸はどうなっている?」
公爵が青ざめた顔でライマーディアントに問いかけると、にこりと笑って言った。
「大丈夫ですよ。あちらも慣れてますから。それに、速度が早くとも雨が降ろうと、手紙は無事ですから」
着陸用の場所を作ってくれましたと言いながら、アリーアの髪を撫でるライマーディアントに公爵の怒声が飛んだ。
「すでにやらかした後なのか!?」
国を跨がない場合の手紙の速度の理論値と、今回の手紙の速度の理論値を計算させられたライマーディアントは、その間アリーアに触れられず、不満げで、今回の数値を見た公爵は隣国から手紙が返ってくるまで胃に穴が開きそうなほど不安に苛まれていたという。




