9:後援という鎖
居間の明かりは落とされていた。食後の時間、テレビもラジオもつけられていない。妻の美保は台所で、静かに皿を洗っている。窓の外では、海からの風がゆるやかに松の枝を揺らしていた。
根津は書斎にこもり、ノートパソコンと膨らんだクリアファイルを机に広げていた。手元には、市の選挙管理委員会が公開している政治資金収支報告書。紙媒体の控えに加え、オンライン公開されている数年分のデータを一つひとつ丁寧に読み込んでいく。
発見は、早かった。
《坂井環境開発株式会社 政治献金額:年間200万円》
献金の名目は「後援活動支援費」「選挙協力費」「地域振興費」など、文言を変えながら、実質的な資金提供が断続的に続いていた。
根津の指がページの余白をなぞった。そのすべての金額が、現・川原市長の後援会「鎮波未来の会」に流れていた。
さらに、別のファイル。前回の市長選のパンフレット。コピー紙に印刷された粗末なものだが、そこに記された川原のスローガンが目を射る。
《持続可能な都市整備を。地元企業と共に歩むまちづくり》
印象的な言葉の下には、笑顔の市長とともに、地元の複数企業が紹介されている。そのなかに、坂井環境開発の代表・坂井智久の写真もあった。作業着姿で、市長と握手を交わしていた。
「……町ごと、売っていたのか」
根津は唇を結び、息を詰めた。
都市整備、循環型経済、再資源化──そのすべての裏側で、地中に埋められていたのは「毒」だった。地元企業との共生とは、行政と企業の共犯の名ではなかったか。
そのとき、背後から声がした。
「お茶、飲む?」
振り返ると、美保が湯呑みを二つ持って立っていた。根津は無言で頷き、机の脇にスペースを作る。
根津はしばしの沈黙ののち、言った。
「水は……もう自然じゃないんだ。誰かが、意図して汚し、誰もそれを認めようとしない。見て見ぬふりをすることで、町は静かさを保っている。その静けさの底に、腐った配管が横たわっているとも知らずに」
美保は小さく目を伏せ、湯呑みの湯気を見つめていた。
根津は机の上のノートパソコンを開いた。ブラウザにはSNSの投稿画面が表示されている。
「#なんば市」「#水の異常」「#旧浄水場」──いくつかのタグを打ちかけて、指が止まった。
投稿欄の上に浮かぶカーソル。
白い空白の中に、まだ言葉はない。
夜の静寂のなかで、台所の水道から、わずかに水滴の落ちる音がした。
ポタ……ポタ……と、何かの終わりのように。
***
午前十時、なんば市議会の定例会が開かれた。
市役所の公式サイトではライブ中継が行われ、根津は自宅の書斎で、古びたノートパソコンを開いて画面を眺めていた。画質は粗く、音声もところどころ歪む。それでも、登壇者の顔と言葉は、確かにそこにある。
壇上に立ったのは、川原圭一市長。
グレーのスーツに淡い青のネクタイを締め、涼しげな顔でマイクを握る。表情には動揺も疲労もなく、朗読するような調子で淡々と語り出した。
「本市の水道水に関する一連のご懸念につきまして、市としては再三の調査を行っております。その結果、現時点において、飲料水としての安全性には一切の問題がないことが確認されております」
議場の空気は、静かだった。
だが、その静寂は「納得」ではなく、「予定調和」という名の無関心に近かった。
川原は続けた。
「近隣住民の皆さま、特に高齢者・小さなお子さまを抱えるご家庭におかれましては、不安が高まっていることと思います。しかしながら、昨今SNSを中心に流布している水の異常と称する情報の多くは、根拠のない風評であり、無用な混乱を招くものであると、強く遺憾の意を表します」
画面の端に映る議員席で、何人かの与党系議員が頷いているのが見えた。
議長の合図で、討議が進む。次々と与党系議員たちが発言を求め、川原市長の発言に同調する言葉が並ぶ。
「この町のインフラは安全です。いたずらに疑いの目を向けることこそ、地域社会の結束を壊すことになる」
「今こそ行政と市民が一丸となって、デマに立ち向かうべきです」
「水道を疑うこと」は、いつの間にか「市を裏切ること」にすり替えられていた。
やがて、野党側の一人が発言を求めた。中年の女性議員。
彼女は、机の上に数枚の紙を広げるように置きながら、やや慎重な口調で話し始めた。
「市長、いくつかの医療機関や保育施設から、集団症状の報告が上がっていることをご存知かと思いますが、それと水道の関連性について……」
だが、彼女の発言はすぐに遮られた。
「その件につきましては、関係部署より『因果関係なし』との報告を受けております」
「未確認の資料に基づく発言は、議場の混乱を招きかねません」
議長の鶴の一声で、議題は次項へと移された。
真実ではなく、波風の大小が議会を動かしていた。
根津は、息を吐いた。
怒り、という感情は既に削ぎ落されていた。ただ、乾いた感情の底で、胸の奥に鈍い空洞が残る。虚しさ。
彼が画面越しに見ていたのは、「市民の代表」ではなかった。ただ、形式と保身によって構成された儀式のようなやり取りに過ぎなかった。
「何も言わない、という言葉が、一番強いんだよな……」
根津は、画面を閉じた。
室内は静かだった。
台所では美保が湯を沸かしていた。かすかな沸騰音が、耳の奥に染みてゆく。
彼は立ち上がり、食卓に戻る前に一度だけ蛇口を見やった。
そこから流れる水に、言葉はなかった。