8:痕跡
島村が軽トラックの荷台から黒いケースを引き出し、慎重な手つきで内部の装置を取り出した。工事用の細径ファイバースコープ──配管内の調査に用いる簡易型のカメラだ。
「旧管だからな。どこまで見えるか分からんが、やってみるさ」
膝をついて、根津が露出した旧式の点検口を保持する。その傍らで島津がカメラの挿入口を整え、ゆっくりとケーブルを押し込んでいく。モニターには暗い管内の像が映し出され、焦点の合わぬまま蠢く影が、かすかに画面を満たした。
数秒後、画面の隅にそれが現れた。
乳白色の膜──水面に薄く浮遊するゼリー状の物体。流れの中を揺れながら、時折カメラのレンズに貼りつくように滑った。光を反射するその膜は、均質ではなかった。微細な粒子が混じり、わずかに黄色味を帯びていた。
根津の視線が固まる。
それは──見覚えのある異物だった。自宅の風呂の表面に張っていた、あの薄い皮膜と寸分違わぬもの。
「……これだ」
声が漏れた。根津は思わず唇を噛む。水道水の臭いも、風呂の異物も、この旧管からの何かが関係しているのではないかという疑念が、確信へと変わり始めていた。
「これが、飲み水に……」
島村は無言でカメラを操作しながら、眉をひそめた。
「……まさか、排水じゃないよな。ここ、本来もう塞がれてる配管だろ?」
「ああ。通っていないはずだった。だが、今も水が流れている。そして、異物も」
二人は黙って立ち上がった。あたりの空気は湿って重く、微かな刺激臭が鼻をかすめた。どこかで嗅いだことのある、焦げたプラスチックと化学薬品が混じったような匂い。島津が足元に目を留め、しゃがみ込んだ。
「これは……ドラム缶の破片だな。厚手のポリエチレン製。割れてるが、色が新しい。埋めたあとに捨てていったか」
指先で拾い上げた破片の内側には、わずかに黒ずんだ付着物が残っていた。根津はそっと顔を近づけ、匂いを確かめる。
「薬品だな。……有機系の溶剤か」
視界の周縁がかすむような、鋭く刺すような匂いだった。いずれにせよ、通常の工事現場にあるべきものではない。
「事故じゃない」
根津ははっきりとつぶやいた。
「誰かが、ここに何かを埋めた。意図的に、だ」
島村は無言のまま、しばらく破片を見つめていたが、やがて苦く口を開いた。
「……埋めてたな、こいつら。蓋して、忘れたフリしてるだけだ」
その言葉に、根津は重い呼吸を一つ吐き出した。
その夜、帰宅した根津は書斎の棚から古い資料フォルダを取り出した。退職時に個人で控えていた市の議会議事録と、予算執行明細。表紙には「令和3年度/環境整備関連事業」と記されている。
机に並べたページをめくるうちに、ある一行が彼の視線を捉えた。
《旧浄水場敷地内 地下環境整備事業 予算計上額:1億1800万円》
《受託業者:株式会社坂井環境開発》
根津の手が止まった。坂井環境開発──地元の産業廃棄物処理会社。市の下請けを長年務め、現市長の後援会にも名を連ねている業者だ。
彼の背筋を、粘着質な冷気が這った。
埋められたのは、土ではない。隠されたのは、配管でもない。
──それは「意図」そのものだった。
***
根津は市役所の駐車場に車を停めると、窓越しに深く息を吐いた。空は重く曇り、湿った海風が建物の外壁に鈍い音を立てていた。
この数日で手にした断片的な事実。それらは、意図と因果の臭いを伴いながら、一点へと集束しつつあった──すべてが、旧浄水場と、その地下に眠る何かに繋がっている。
根津が向かったのは、水道局・技術課。そこで静かに、ひとりの職員の名を告げた。
「白石優菜さん、いらっしゃいますか」
ややあって現れた若い女性職員は、書類の束を抱えたまま驚いたように目を見開いた。
「あ……根津さん。元・水道局の……?」
「急な訪問、申し訳ない。ただ、どうしても確認したい資料がある」
根津は声を低く、言葉を慎重に選んで言った。
「旧浄水場の土壌調査報告書。三年前のものだ」
白石の顔が曇った。
「……閲覧には申請が要ります。正式には──」
「時間がない。私は市民として、正当な疑念を抱いている。内部手続きの話をしているのではない」
しばらく沈黙が続いた。コピー機の音、遠くの電話の呼び出し音。白石は小さくため息をつき、やがて言った。
「──少し、お待ちください」
十数分後、彼女は印刷された報告書を一枚ずつホチキスで留めたものを、封筒に入れて手渡した。封はされておらず、カバーの紙には手書きで「令和三年度 旧浄水場敷地 環境測定記録」とあった。
「本来、上長を通さなければなりません。でも……最近、この部署の空気も、正直、妙なんです。何かを“隠している”感じがして」
根津は深く頭を下げ、そのまま資料を手に建物を出た。
帰宅もせず、彼は車を走らせた。向かったのは、旧浄水場──あの雑草に覆われた沈黙の場所だった。資料の数値と、現地の実感を照らし合わせるためだった。
土壌サンプルの採取地点は図面に明記されていた。根津はそのひとつ──施設北側の地下埋設タンク付近に立ち、足元の土を観察した。
報告書では「全検出項目、環境基準内」「臭気、なし」「重金属類、未検出」。だが、実際の地面は明らかに異なっていた。土は薄く焦げたように黒ずみ、表層が硬化していた。爪でこすると指先に粘着質の感触が残った。
根津はページをめくり、pH値と溶出試験の項目に目を留めた。
「……おかしい」
記録されたpH値は「7.0」──中性のはずだ。だが、周囲の植物は一様に枯れており、地表には錆びた鉄粉のような粉末が薄く広がっていた。根津はかつて、似た光景を他の汚染現場で目にしたことがある。これは、化学薬品の分解過程で生成された酸化物の痕だった。
つまり──数字は、事実を反映していない。
報告書の提出者欄に目を移し、根津は愕然とした。
提出元:株式会社坂井環境開発
測定責任者:坂井智久(環境保全部・主任技術者)
「……なんだこれは」
唇が震えた。市から委託された調査の報告書が、委託先そのものの手によって記されていた。それは、検査ではなく自己申告に過ぎない。
その瞬間、過去に自らが担当した老朽化設備の点検現場が脳裏に蘇った。あのとき、坂井環境の社員は、何かを急ぐように、地面を掘り返しては埋め戻していた。そして、誰もそれを疑わなかった。行政も、住民も。
その夜、根津は再び島村と電話をつないだ。状況を簡潔に説明すると、受話器の向こうで島村が短く笑った。
「そりゃあ……機械がバグってたんじゃない。最初から数字なんか、見てなかったんだよ。見ようとしてなかった、って言うべきか」
根津は静かに、報告書の束を机の上に置いた。ページがばさりと音を立ててめくれ、紙の匂いと、薬品の記憶が、重く部屋に沈殿した。