7:旧施設の記憶
まだ夜が明けきらぬうちに、根津耕太は玄関を出た。空には低い雲が垂れ込め、海風は湿り気を含んで冷たかった。遠くでカモメの鳴き声が短く響いた。町が眠っているあいだに動くこと、それが彼の中で自然と決まった行動だった。
旧浄水場跡までは、自宅から車で二十分ほど。なんば市の北部、かつて工場地帯だった丘陵の外れに、その施設はある。数年前、全面的に機能を新浄水センターに移したことで、旧施設は「閉鎖」扱いとなった。だが、完全に封鎖されたわけではなく、地図上にも「管理地」として名前だけが残っている。根津の記憶の中では、それは未だに「現場」だった。
舗装の剥げた旧道を抜け、カーブの先に、目的の場所が現れた。入口には金網のフェンスが張られ、錆びた南京錠がかろうじて機能していた。フェンス越しに見る構内は、荒れ果てていた。配管の頭が錆び、雑草が繁茂し、苔の膜が建屋の壁面に広がっている。長らく人の手が入っていないことは明白だった。
根津はフェンスを沿って歩き、かつて通用口として使われていた脇の小道へ回り込んだ。そこには鍵の壊れた柵があり、わずかに開いた隙間から身を滑り込ませる。足元には砂利と泥が混じり、枯れ草が絡みつく。
沈黙のなか、彼は歩を進めた。建屋の外壁に手を触れると、冷たい感触が指先に伝わってくる。コンクリートはひび割れ、長年の風雨に晒された痕跡を刻んでいた。
――ここで、冬場に漏水調査をやったのは三十年近く前か。
根津の脳裏に、若かりし日の映像がよみがえる。肩に計測機器を担ぎ、寒風のなか、膝まで水に浸かって作業をした日々。設備の老朽化と格闘しながら、職務に誇りを持っていた。あの頃は、水を疑うことなどなかった。ただ、安定した供給を維持すること、それだけを考えていた。
しかし今、かつて自分が信じていたものが、町を蝕んでいるかもしれない――その事実が、胸の奥に鉛のような重みをもたらしていた。
管理棟の裏手へと回り込むと、目に付くものがあった。
簡易なバリケード。プラスチックの支柱にロープを張り、立て札が括りつけられている。
《関係者以外立入禁止/現在工事中》
根津は思わず立ち止まった。この施設は、工事など行われていないはずだ。市の工事計画にも、予算にも、旧浄水場の更新・撤去に関する項目はなかった。
「誰が……何のために?」
小さくつぶやいた声が、建屋の壁に反響して自らの耳に返ってきた。
地面を見下ろす。踏み固められた土には、重機の履帯による跡が残っていた。乾ききらない泥の筋は比較的最近のもので、タイヤ跡と靴跡が交差している。
そのすぐ脇に、不自然な凹みがあった。地面がわずかに陥没し、周囲の草が不均等に枯れている。見覚えのある地形の異常。それは地中に何かが埋め戻された痕跡だった。
根津は膝を折り、地面に手を触れる。表土は柔らかく、僅かに化学的な匂いが鼻腔を突いた。
――埋めたな。何かを。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。まるで地面の下から、静かに何かがこちらを見上げているような感覚。
再び立ち上がり、周囲を見渡す。敷地内は静まり返り、風が草を揺らす音しか聞こえない。
だが、確かに何者かがここで作業を行っていた。目的はわからない。だが、その作業は公式なものではなく、何かを覆い隠すためのものである可能性が高い。
根津は静かに後ずさり、立入禁止の札を睨みつけた。
小さく、唇を噛む。
かつて、清浄を守るための場所だったこの施設は、今や、誰かの都合によって沈黙の蓋をされた不浄の場所へと変わっていた。
***
翌朝、根津は再び島村に電話をかけた。
「……旧施設? あそこ、まだ何かあるのか?」
島村の反応は意外ではなかった。あの場所はとっくに用済みの設備だったはずだ。だが、根津の言葉の端々にただならぬものを感じ取ったのか、彼はしばらく黙り、それから静かに言った。
「昼まで現場空けられる。向かおう」
陽が高くなり始めた午前十時、二人は再び旧浄水場の金網の前に立った。島村は作業服姿のまま、懐から巻尺と地中レーダー探査器の簡易モデルを取り出すと、迷いなく足を踏み入れた。
「……誰も入ってないって言ったな?」
「ああ。だが地面は動いてた。重機跡も新しかった」
「なるほど。見てみりゃわかる」
島村は雑草を踏み分け、配管埋設ラインの上に立つと、足元の土を軽く蹴った。細かく砕かれた砂利と、押し固められた赤土。地中の圧縮具合が不自然だ。
「掘り返して埋め戻してるな。間違いない。これは一週間以内の作業だ。重機の履帯跡が雨で崩れてない」
「やはり、最近か……」
根津が持参した旧浄水場の配管系統図を取り出し、地面の形状と照らし合わせる。図面上では、この地点にあるべき地中タンクは、数年前の報告で「完全廃止」と記載されていた。撤去済みのはずだ。
「変だな」と島村が呟く。
「タンクの蓋が、妙に新しい。これ、錆止め処理が最近されてる」
確かに、露出したマンホールの鉄蓋だけが異様に新しく、周囲の老朽化と不釣り合いだった。
「地中タンクを更新した……?だが、公式記録では廃止のはず」
根津の声が硬くなる。行政記録に記載がなく、工事の看板も業者名もない。ならば、これは市の外で動かされた何かだ。
島村がポケットから取り出した地中探査用センサーを地面に当てると、簡易モニターに浅い深度の金属反応が映し出された。複雑に入り組む配管線。それが、根津の記憶にある「止めたはずの旧導管」と一致している。
「まだ生きてるな、このライン」
島村の言葉に、根津の呼吸が浅くなる。
「まさか……まだ通水している?」
「たぶん、試せばわかる。点検口、開けて確認してみるか」
一瞬、根津は迷った。設備の現況を勝手に確認する行為は、市の規定に抵触する可能性があった。だが、この期に及んで手を引く理由は、もはや存在しなかった。
「……ああ。やろう」
島村がバールを使って点検口を開けた。鉄蓋の下には、旧式の止水栓が残されていた。その手応えに、根津は確信する。
――これは、故意に残されたものだ。
島村が工具で慎重にバルブを緩める。かすかな音がして、管内から空気が押し出された。続いて、わずかに湿った音。中から液体が染み出す。
バケツに受けた水は、いかにも無色透明だった。だがその表面には、細かい泡のようなものが漂い、微細な乳白色の膜が揺れている。
「……なんだ、この濁り」
根津は言葉を失った。まるで自宅の風呂で見た、あの膜と同じだった。
この旧配管は、本来なら廃止されていなければならなかった。だが現実には通水しており、しかも不可解な物質が混入している。
それは、事故ではない。何者かが、意図的にこの流れを「維持している」。
根津は図面と目の前の現場を交互に見つめた。つい昨日まで、これは記憶と記録の中の終わった施設だった。しかし今、それは再び現実の中に“現れた”。
地下の暗がりの中で、水は音もなく流れ続けている。
誰にも知られぬまま。
誰かの意図のもとに。