6:給水車襲撃事件
その日、給水車は予定より三十分遅れて〈鎮波中央コミュニティセンター〉前に到着した。
すでに二百人近い人々が、建物をぐるりと取り囲むように列をなしていた。
老人もいれば、ベビーカーを押す若い母親もいる。自転車の荷台に空のポリタンクを縛り付けた男や、カートに複数の容器を積んだ家族連れもいた。
列は整然としていたが、空気には明らかな不穏さが漂っていた。
給水車が姿を現した瞬間、人々の間にざわめきが走る。
待機していた市職員が拡声器で「順番に配ります、落ち着いてください」と繰り返すが、その声は風に拡散し、群衆の耳には届かない。
「後ろにも回れ! 前だけ配ってたら足りねえだろ!」
「もう五時間待ってんだぞ!」
怒声が飛び交い、列が揺れる。
ひとりの若者が柵を超えようとした瞬間、他の男がその背中を押した。
その拍子に、前方で待っていた高齢女性が倒れ、悲鳴が上がる。
――秩序が、音を立てて崩れ始めた。
給水車の周囲に、列ではなく「塊」が形成されていく。
押し合い、奪い合い、誰かの容器が転がる音。
足元にこぼれた水が、陽を反射して濡れたタイルのように光っていた。
「離れろ! 警察呼ぶぞ!」
市職員の叫びは、すでに無力だった。
暴徒化という言葉を使うにはまだ早いが、それでも群衆は臨界点に近づいていた。
数分後、警察が到着した。
制服警官が拡声器を用い、拡散を命じる。
「押すな!」
「後退しろ、ケガ人が出るぞ!」
しかし、群衆は動かない。
誰もが、自分の番が来なければ水を得られないことを知っている。
緊迫した睨み合いのなか、ポリタンクを奪い合っていた若者二人が取っ組み合いを始めた。
殴る、押す、倒れる。
それを合図のように、複数の怒号が一斉に上がった。
警官が駆け寄り、制止に入る。
だが、一人を取り押さえれば、その隙に別の者が列を割る。
その混乱のなかで、給水車のホースが踏みつけられ、一時的に水の供給が止まった。
周囲にいた数人が「ふざけるな!」「もう終わりかよ!」と怒鳴り声を上げ、給水車に向かって拳を振り上げた。
車体に叩きつけられたペットボトルが鈍い音を立てる。
***
夕方のローカルニュースは、この事件を「給水所混乱」と報じた。
だが、字幕にははっきりと「パニック」という文字が使われていた。それは、これまで市とメディアが避け続けていた言葉だった。
“人々は落ち着いて行動を”
“正確な情報を得て”
“行政を信じて”
繰り返されてきた定型句の背後で、町の空気はすでに臨界に達していた。
**
その夜、根津耕太の携帯電話が鳴った。
表示された名は、「木田」。
かつて水道課長として根津と共に働いていた男だった。
「おう、無事か?」
「どうにか。おまえこそ」
短い挨拶のあと、木田は声をひそめた。
「このあいだ、おまえ、水道水のことを気にしてただろ?あの電話の後、俺も気になってちょっと調べてみたんだが、これはまずい」
「何があった?」
木田は、一拍置いてから答えた。
「非常弁の一つが壊れてた。旧系統の方だ」
「……いつからだ?」
「いつからって言える状況じゃねえ。そもそも、点検記録そのものが“更新されてない”んだよ」
「誰が管理してる?」
「言えない。だが、あんたが見てた中継ポンプの北第二――あそこが鍵だ」
通話はそれ以上続かなかった。
木田は、最後に「誰から聞いたとか、忘れてくれ」とだけ言い残して切った。
**
根津は受話器を置いたまま、台所の蛇口に目をやった。
今日も、そこからは透明な水が流れている。
だが、その水の向こうに、何本もの老朽化した配管が見えるような気がした。
あの地下には、誰も見ようとしなかった継ぎ目がある。
それを、見ようとする者も、今はほとんどいない。
静かに、根津はひとつ息をついた。
***
週明けの朝、なんば市の町並みは一見、変わらないように見えた。
商店のシャッターは開いており、通学路には制服姿の子供たちが歩いていた。
だが、すれ違う人々の眼差しの奥には、昨日までとは異なる、ある種の見えない壁があった。
「お宅の町、赤だったわよね?」
「うちはもうミネラルウォーターしか使ってないから」
そうした言葉が、挨拶の代わりのように交わされているという噂を、根津は近所の八百屋で耳にした。
たった数日前までは、水道の話など一顧だにされなかった町で。
今やどこの水を飲んでいるかが、無言の基準になっていた。
根津は、居間の窓から通りを眺めていた。
視線の先を通るのは、下校する小学生たち。しかしその列の一番後ろを歩いていた少女が、急に咳き込んだ。
とたんに、その前を歩く子どもたちが一歩、間を空けた。
少女は少し寂しげに、それでも何も言わずに列を保って歩いていった。
根津は、思わず目を伏せた。
**
「……あなた、少し、顔色が」
夕食の支度をしていた美保が、ふとした拍子に振り返ってそう言った。
根津は黙って首を振る。
「大丈夫だ。少し、考え事をしてただけだ」
テーブルの上には、買い置きしておいたペットボトルの水が置かれていた。
一本、また一本と減っていく本数に、根津は数字のような焦りを覚えていた。
あの水が尽きたとき、自分たちは何を信じて蛇口をひねればいいのか――そして、本当にあの水は、かつて自分が信じたものなのか。
***
木田からの電話の余韻は、簡単には拭えなかった。
非常弁の破損。旧系統。点検記録の未更新。
すべてが、根津の記憶に刻まれている構造図の「脆い部分」と重なっていた。
特に、北第二中継ポンプ。
あれは、浄水場からの主要送水系統が交差する“分水の喉元”であり、過去の震災時にも一度、危険信号が点いた場所だ。
当時、根津は耐震補強の必要性を強く訴えた。
だが、予算は削られ、他の設備が優先された。
「今すぐに危険というわけではない」
「新設備との接続が終われば順次改修予定」
そんな曖昧な言葉の裏で、あの地点は放置されたままだった。
***
夜。
根津は押し入れから、古い段ボール箱を引き出していた。
退職時に私物として持ち帰った設計図、配管系統図、点検報告書の写し。それらが折りたたまれたまま、黄ばんだ紙となって残っている。
手に取った瞬間、紙の乾いた手触りが、かつての職場の空気を呼び戻した。
この町の水は、数字では測れない過去の選択に支えられていた。
誰がどの弁を開き、どの系統に予算をつけ、どこに目をつむったか――そのすべてが、配管の流れに刻まれていた。
そして今、誰もそれを見ようとしない。
根津は、地図の上に手を置いた。
「旧浄水場か……」
既に稼働は停止され、新浄水センターに機能を引き継いだはずの施設。
しかし、完全閉鎖ではなかった。
廃止されたはずの系統が動いている可能性があるとすれば――そこが、唯一の接点になりうる。
「行くしかないな……」
根津は静かにそう呟いた。
独り言のつもりだったが、美保がふと顔を上げた。
「どこか、行くの?」
「少し、見ておきたいところがあってな。昔の現場だよ。明日の早朝に行ってくる」
嘘ではない。しかし、すべてを話すには、まだ時が早い。
美保は微笑みながら、頷いた。
「……気をつけてね」
根津は頷き返し、再び地図に視線を落とした。
地名、配管の線、注意書きの赤鉛筆の痕跡――すべてが、過去と現在の交差点となってそこに在った。
――町が沈黙を選ぶなら、自分だけは目を開けていよう。
――それが、かつて「水を守る」仕事に就いた者の、最後の責任だ。