5:分断
なんば市南部にある大型スーパー〈レーヴなんば〉の駐車場は、朝九時を待たずして満車となっていた。
普段なら週末でも見かけないほどの混雑。制服を着た高校生の姿もあれば、まだパジャマにコートを羽織っただけの幼児連れの母親もいた。
目当ては一つ。水。
この三日間で、蛇口から注がれる水道水に対する不信は、市の公式見解を超えて個人の判断へと移行した。
信じる者と信じない者、飲む者と飲まぬ者。
分断は、すでに家庭の中にも生まれていた。
スーパーの開店を告げるシャッターが上がるや否や、人々は静かに、だが異様な速度で店内へ流れ込んだ。
まるで競歩。
誰も言葉を発さず、互いの動きを牽制しながら、ペットボトルのコーナーへと向かう。
並べられた段ボールの山の前で、ある者は無言で数本を抱え、ある者は台車を引きながら一箱ごとカートに積んでいく。
店員が「お一人様三本まで」と声を張り上げるが、その声は背後の騒音に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
棚が空になったのは、開店から十二分後だった。
その後に訪れた者たちは、呆然と立ち尽くすか、あるいは近くの客に詰め寄り、「ひとつ分けてくれませんか」と懇願した。
なかには、すでに購入済みの箱に手をかけ、「そんなに要らないだろう」と怒鳴る男もいた。
張り詰めた空気のなか、ひとつの声が上がった。
「この人、五箱買ってるぞ! 転売だ!」
怒号に反応し、周囲の視線が一斉に一点に集まる。
標的にされた中年男性は、狼狽しつつも「家族が多いんだ」と弁明するが、怒りはすでに伝播していた。
店内の空気が火薬のように乾いていた。誰かが声を荒らげるたび、瞬間的に引火しかねない温度だった。
***
根津が〈ドラッグムラタ〉の前に到着したのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
車は使わなかった。道路の混雑と、店に入るにも駐車場から動けないと判断したからだ。
歩いて二十五分、足元の感覚がやや鈍くなる頃には、すでに店の前に十数人の列ができていた。
「水、まだあるのか?」
先頭の男が答えず、首を横に振った。
根津は並ぶべきか否かを一瞬迷ったが、後ろから次々に人が集まってくる気配を察し、最後尾についた。
風が冷たく吹き抜ける。
周囲に並ぶ人々は、みな無言だった。
時折、スマートフォンを確認しながら、小声で「ダメだ、こっちも売り切れ」などとつぶやく者もいたが、その声に応える者はいない。
十五分後、店員がドアを開けて出てきた。
「本日分の水、あと十本です! 一人一本、現金のみ、並んでる方から順に!」
一瞬のざわめきののち、前列の数人が安堵と焦燥の入り混じった表情を見せる。
列の後方にいた若い母親が、抱えた幼児の頭を撫でながら「お願い、もう少し……」と呟いた。
根津は無言のまま、その表情を横目に見ていた。
順番が来た。
店内に入ると、水の箱はすでに床に直置きされていた。
500mlが六本入ったパック。品名は聞いたことのない外国語表記。
明らかに通常のルートで仕入れたものではないが、それでも、ないよりははるかにましだった。
レジで千円札を出すと、店員は礼も言わずにレシートを引きちぎり、商品とともに差し出した。
根津はそれを手にして、素早くレジを離れた。
***
帰宅すると、美保が玄関まで出てきた。
「買えたの?」と小さく尋ねる。
根津は頷いて、パックを差し出した。
その一瞬、彼女の顔に浮かんだ安堵の表情が、根津の胸を締めつけた。
「……もう、こんなことになるとは思わなかった」
美保がそう呟いたあと、ふたりは無言でダイニングへと戻った。
キッチンの蛇口からは、今も変わらぬ音で水が流れていた。
透明で、冷たく、そして静かだった。
だが、それが安全であると証明する術は、もはやどこにも存在していなかった。
***
X(旧Twitter)上に、最初の「マップ」が出現したのは、市の会見が行われた翌日の朝だった。
投稿者は、地元の大学に通う学生と名乗る匿名アカウント。
市内の各町名が色分けされた簡易地図の画像とともに、次のような説明が添えられていた。
《赤=体調不良報告多/黄=複数の投稿あり/緑=異常報告なし。信頼性は低めです。共有・加筆歓迎。》
当初はわずか数百のリポストに留まっていたが、地元住民による「うちの町も赤でしょ」「ここのエリアは安全だった」などの返信が続き、数時間で一万件を超える拡散に達した。
その後、同様の独自調査に基づく地図が十種以上登場し、比較画像や分析スレッドが乱立。
「赤の地区は飲んでる奴が多い」「このエリア、実は浄水場から遠い」などといった投稿が事実か否かも曖昧なまま引用され、言葉が地図を塗り替えていった。
マップの中に自分の町が含まれているか否か。それが、市民にとって新たな不安の火種となった。
**
「えっ、○○町から来たの? 水、飲んでないよね……?」
スーパーのレジに並んでいた中学生が、前に並ぶ老婆に向けてそう言った。
老婆は一瞬口を開きかけたが、答えぬまま財布を取り出し、硬貨を数え始めた。
その沈黙をどう捉えるかは、誰にもわからなかった。
別の場面では、配送センターの休憩室で、運送会社のドライバー二人が言い争っていた。
「××団地の奴ら、まだ普通に水使ってんだろ。信じられねぇよ」
「じゃあ、オレらのエリアは安全って証明できんのかよ?」
口論は上司の制止で収まったが、ふたりがその日一言も交わすことはなかった。
かつて日常に埋もれていた地名が、個人を識別し、分断するタグへと変質していく。
**
根津耕太は、古い地図を床に広げていた。
かつて水道局に在籍していた頃、自らが何度も目を通した配管図。
「○○地区の本管は、旧系統と併用だ」「あそこは圧力が低い」――同僚と交わした会話の断片が、脳裏に蘇る。
しかし今、その知識は噂と不可分な形で再構築されていた。
ある投稿では、「高山町の裏手で配管から泡が出ていた」とあり、また別のユーザーは「なんば南高校の敷地に古い井戸があった」と書き込んでいた。
それが真実か否かではなく、「拡散された」という事実だけが、町の輪郭を曇らせていく。
根津は、紙の地図を見下ろしながら、自分の住む「西なんば町」が、いくつかの危険マップで赤に塗られていることを思い出した。
“本当に危ないのは、ここなのか?”
そう思いかけた瞬間、自身の内にある小さな声が、彼を止めた。
――お前も、地図に囚われているのではないか?
風呂の蛇口から出る水、歯磨きのあとに口を濯いだ流れ、台所でゆらめく洗い桶の水面。
それらすべてを、根津は無意識のうちに「この水は本当に安全か」と疑っていた。
「……こんなはずじゃなかった」
呟きは、ほとんど声にはなっていなかった。
ただ、美保が振り返った拍子に、わずかにその表情が曇った。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
根津は微笑みのようなものを浮かべて首を振ったが、その表情は、明らかに硬かった。
***
その晩、匿名掲示板では、次のようなスレッドが立てられた。
《赤地区の子ども、うちの保育園に来てるんだけど……》
その投稿は、数時間で二千を超える返信を受けた。
誰かが「気にしすぎ」と言えば、「親として当然」と応じる者が現れる。
「市が隠してるだけ」と言う者、「偏見でしかない」と怒る者。
正論と憶測が混在するなか、ただひとつ確かなのは、水の不安が人の理性を侵食しはじめているという事実だった。