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3:境界線

 午後の陽は傾き始めていたが、根津の作業机の上には、まるで朝のような整然とした緊張が漂っていた。

 机の上に広げられているのは、黄色みを帯びたA2判の図面。油紙に包まれた浄水施設の旧配管計画書である。


 彼は手袋をはめ、慎重に紙の折れ目をなぞった。図面の端には「なんば市水道局 配水系統図(平成17年度改訂)」と印字されている。そこに赤いインクで手書きされたメモ書き――「中継ポンプ圧力不安定」「浄水池沈殿槽ヒビ」などの文字が、過去の記憶を呼び起こした。


 「結局、通らなかったな……」


 つぶやきは、自嘲に近かった。


 定年の数年前、根津は繰り返し「設備の老朽化」「耐震強化の遅れ」について内部会議で警鐘を鳴らしていた。当時、震災を契機に全国的にインフラ再点検の機運が高まっていたが、地方自治体の予算には限界があった。結局、見直されたのは一部の送水ポンプと中央制御盤だけで、配管網の大部分は当面使用可の判定により、先送りされた。


 「この町の水は、持ってあと十年。それまでに地震が来れば終わりですよ」


 ――そう訴えた時、同席していた若手技師が、居心地悪そうに視線を逸らしていたのを覚えている。

 問題は危機感ではなかった。彼らには想像力が欠けていた。


 根津は指で図面上の一箇所を押さえた。

 「第3配水区画中継ポンプ場(第2号)」――通称「○○ポンプ」と呼ばれるその地点は、配水網の末端に位置し、旧市街の住宅密集地および三つの福祉施設を抱えている。


 今回、錯乱・嘔吐といった症状が発生しているエリアの多くは、このポンプの管轄区域と一致していた。


 「やはり、ここが怪しい……」


 だが、図面の更新は10年以上前で止まっている。

 近年の施設改修や緊急工事の履歴は、すべて市のサーバー管理下にある。市役所では資料室の閲覧が封鎖され、根津が保持している紙の記憶だけでは、現状を正確に把握することはできなかった。


 思考が袋小路に差しかかったところで、ふとある名が脳裏をよぎる。


 ――島村だ。


 市の指定業者として長年、配管敷設や地中ボーリングを請け負ってきた島村設備工業。社長の島村とは現場で何度も顔を合わせていた。荒っぽい言葉遣いだが、技術には誠実な男だった。


 根津は携帯電話を取り上げ、連絡先リストをめくった。

 数年ぶりに鳴らす番号。呼び出し音の間に、小さな不安がよぎった。だが、三度目のコールで、少ししゃがれた声が応答した。


 「島村工業。島村です」


 「島村さん、根津です。……お元気でしたか」


 「ああ、根津さんか。懐かしいな。どうした? まさか仕事の依頼じゃないだろうな」


 「いや、すまん。ちょっと聞きたいことがあるだけだ。最近、○○ポンプ場の周辺、なにか地下の工事やった覚えはあるか?」


 「○○ポンプ? ……ああ、あの古いやつか。ちょっと待てよ」


 受話器の向こうで、紙をめくる音がした。手帳だろうか、島津は電子よりも紙の人間だった。


 「先月……ああ、あったな。ポンプ場の北側、歩道の補修と一緒に、配水管の継手交換やったよ。発注は市の都市整備課だったが、現場の水道図面、ずいぶん古かったな。思った以上に掘ったら、地中の位置がずれててな。……なんかあったのか?」


 「いや、まだ確証はない。ただ、ちょっと気になってな」


 「気になってるってレベルで電話してきたのは、あんただけだぞ。今の連中は全部サーバー任せだからな。紙で記録取ってるの、もうウチくらいだ」


 「その記録、コピーできるか? 現場写真とか日報があれば助かる」


 「いいけど、なんか起きてるのか? 最近、うちの社員にも腹壊したってのが何人かいてな……水道が原因じゃねえだろうな」


 根津は黙った。


 「……明日、そっちに顔出すよ。午後でいいか」


 「ああ、事務所にいれば対応できる」


 通話を切ると、部屋の空気がやや動いたように感じられた。

 閉じた窓の外では、海からの風がわずかに吹いていた。海面に浮かぶ陽の反射が、わずかに揺らいでいる。

 根津は図面を丁寧に折り、元の油紙に包み直した。

 今あるのは、古い記憶と紙の情報だけだ。だが、それが確かな手触りとして彼の中に残っていた。


 見えない水の異変は、過去に予見された老朽の一片にすぎないのかもしれない。

 だがその「ひび割れ」から、何かが確実に漏れ始めていた。



***


 翌日の午後、根津は古びた地図とノートPCを手にして、水道局下請けの小規模設備会社「島村設備工業」の事務所へと向かった。

 商店街の外れにある小さな二階建ての建物。看板は日焼けし、壁面の塗装もところどころ剥がれていた。

 ドアを開けると、小さな風鈴が高い音を鳴らした。中は整頓された工具棚と、古いデスク、そしてファイルキャビネットが並んでいる。

 島村は奥のデスクから顔を上げ、「来たか」と言って軽く手を挙げた。


 「まあ、座ってくれや。例の記録、出しといた」


 島村は茶色のバインダーを取り出し、根津の前に置いた。

 中には、日付ごとにまとめられた工事報告書と、現場ごとの配管図、使用部材のリストが綴じられている。


 根津は記録を繰りながら、ピンポイントで目的の工事を探し出した。


 「これだ。4月13日、ポンプ場北側……歩道補修と一緒に、100Aの継手交換。ただ、これ、施工理由の欄が空白ですが?」


 「それがよ。もともとは市の方から補修ついでにやっとけって話で、漏水も何も起きてなかった。だから予防交換ってことで処理した。正直、誰も気にしてなかったよ」


 「交換した継手の状態、記録は?」


 島村は少し考えたのち、デスクの奥から封筒を取り出した。

 中には、錆びた金属継手の写真が何枚か、業務用のタブレットで撮影されたものが印刷されていた。


 「これな。結構腐食進んでて、ネジ山の内側が黒く変色してた。水が滞留してたんだろうな」


 根津は眉をひそめた。


 「この継手がつながってた管……どこへ通ってるか、わかるか?」


 「確か、旧4系統の末端だな。今は使ってないことになってるが……俺らが行った時、わずかに水が残ってた」


 「水が残ってた?」


 「うん、ほんの少しだけ。サビ水みたいな。普通なら完全に乾いてるはずなんだけど……」


 根津は息をのんだ。


 「その管、本当に死んでたのか……怪しいな」


 「まあ、図面上は通水停止って記載されてるよ。けど、現場ってのは……なかなか帳簿通りにはいかんもんだ」


 根津は写真をじっと見つめた。継手の内部に付着した黒い沈殿物が、印刷面からも不気味に浮き上がって見える。


 「これ……もし、この管の奥に何かが残ってたとしたら、補修の際に水圧がかかって……逆流してる可能性もある」


 島村は驚いたように眉を上げた。


 「まさか……そんなことが?」


 「いや、可能性の一つだよ。でも……このデータ、控えさせてもらっていいか?」


 「構わんさ。どうせ誰も気にしてねぇ記録だ」


 根津は一拍おいて、笑みとも曖昧な表情ともつかぬ顔を見せた。


 「……まだ何も。ただ、水がきれいじゃないっていう実感だけは、確かにあるんだ」


 島村は深く頷いた。

 彼もまた、水と共に生きてきた技術者だった。


 「それだけあれば、十分だ。……用が済んだら、また顔出せ」


 根津は礼を言ってバインダーを抱え、事務所を後にした。

 外に出ると、街の空気がひどく乾いているように感じた。

 日差しは春らしい穏やかさを帯びていたが、どこか、裏に熱を隠しているようだった。


 ――この継手の腐食と、その先に残された水。

 ここに、見過ごされてきた痕跡が眠っているのかもしれない。

 根津は足を止め、深く息を吸った。

 水の匂いが、しなかった。



***


 町の空気が、僅かに変わり始めていた。

 風の流れが変わったわけではない。目に見える変化もない。だが、誰かの視線が、誰かを値踏みするようになっていた。

 それは通りすがりの会話、スーパーの棚の前、児童公園のベンチ――人が集まり、言葉が交わされる場所に、確かに「差異」を感じ取る雰囲気が忍び寄っていた。


 「○○地区の人、まだ水道水使ってるらしいよ」

 「え、マジで? 信じらんない……怖くないのかな」

 「うちなんて、もう全部ペットボトルだよ。職場にも持ってってるし」


 声は小さく、しかし確かに届く距離で発せられていた。

 そこには直接的な敵意はなかった。だが、優位に立とうとする本能的な安心感――「自分は正しく対処している側だ」という自負と、「あちらは怠っている側だ」という含みが、言葉の端々ににじんでいた。


 それは、汚染よりも早く町を蝕む境界線だった。


 根津は、スーパーのレジ待ちの列でそれを聞き、唇を結んだまま視線を落とした。

 買い物かごには、煮沸用のボンベガス、備蓄用の缶詰、そして少しだけ残っていた500mlの水ボトルが数本入っている。

 ふと、後ろに並んでいた主婦が、誰にともなく呟いた。


 「でも、ウチの義母が言うの。昔からここの水は硬くてね、そういう水に慣れてる人は平気なんじゃないかって」


 すると、隣の男が笑った。


 「免疫じゃ防げないでしょ、毒は」


 笑いは空気を冷やした。レジの音が妙に大きく聞こえた。


 帰宅後、美保の顔色が優れないことに根津はすぐ気づいた。


 「頭、ちょっと重いの。微熱もあるかも……。大したことはないと思うけど」


 額に手を当てると、わずかに熱がある。


 「水、触れたか?」


 「いや、朝、手洗いのときくらい。でも、それもボトルのを使ったわ」


 根津は言葉を飲み込んだ。

 水は、もはや「口にするもの」だけではなかった。

 手を洗う、水蒸気を吸う、野菜を洗う、煮沸する――生活のすべてに絡みつく。それを完全に排除することなど、現実には不可能に等しい。


 午後、根津は再び書斎に入り、古い配管図面を眺めた。

 この水を、自分は何十年も守ってきたのだ。

 新卒で水道局に入り、寒い朝も、炎天下も、配管の点検や施工管理に心血を注いできた。

 漏水箇所の早期発見、老朽管の入れ替え、冬場の凍結対策――それは地味な仕事だったが、「町を支える水」を守ることが、自身の誇りでもあった。


 だが今――その水が、町を壊している。


 体調不良の情報はSNSや掲示板を介して、さらに拡がっていた。

 水を飲んだことが、自己責任という言葉とともに語られ始めている。


 「まだ信じて飲んでたの?」「あの家、なんかおかしいらしいよ」「子どもも変な声出してるって」


 根津は机に両手を置き、しばらく天井を見つめた。

 何かがおかしいと感じる力を、多くの市民がまだ持っている。

 だが、どこがどうおかしいかを突き止め、改善する責任は、誰も持とうとはしない。


 市は沈黙し、メディアは市の広報をなぞるだけ。

 そして、水は今日も、無言で家庭の蛇口から流れ続けている。


 夜。


 リビングの灯りを落とし、根津は台所に立っていた。

 台所の蛇口から流れ出る水を、無色透明なペットボトルに注ぐ。

 その水を、小型の簡易フィルターに通し、別の容器に滴下していく。

 しばらくのあいだ、その作業を繰り返した。

 フィルターの目は細かいが、それでも目に見えないものを完全に防げるとは限らない。

 最終的に容器に溜まった水は、澄んでいた。匂いも、視認できる濁りもない。


 根津はその透明な液体を、静かに見つめた。


 「……ほんとうに、これをみんなに飲ませているのか?」


 問いかけは声にならなかった。だが、喉の奥で何かがひっかかるような、妙な重さが残った。


 水――それは、本来、無垢でなければならない。

 だが今、それは無音で、無色で、無臭のまま、人の身体に入り込み、静かに蝕んでいる。

 闇の中で、どこかの家の蛇口から、微かな音が聞こえた。

 ポタ……ポタ……ポタ……


 その音はまるで、静かに迫る災厄の足音のようだった。

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