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2:止まらない症状

 五月に入って間もない土曜日、午前九時。

 根津は台所で湯を沸かしながら、テレビの音に耳を傾けていた。


 NHKの地域ローカルニュースが、異様に落ち着いた声色でこう伝えていた。


 「――本日未明、なんば市内の認可保育施設『ひかり第二保育園』にて、園児七名が相次いで嘔吐および発熱の症状を訴え、市立病院へ搬送されました。いずれも命に別状はないとのことですが、保健所では感染性胃腸炎などの可能性を視野に、施設の立ち入り調査を開始した模様です」


 根津は急須に湯を注ぎながら、画面に目をやった。映っていたのは、園の正門前に設置された規制線と、撮影を拒むように目元を隠した保育士の後ろ姿である。

 嘔吐、発熱。感染症と片付けるには、タイミングが一致しすぎている。昨日の小学校、今朝の保育園。断続的なようでいて、一本の水脈を通じているような連続性がある。根津はそれを肌感覚で察知していた。


 リビングのテーブルに美保が座り、湯呑に手を添えながら言った。


 「さっき電話があったの。中学の同級生、村岡さん。彼女のお母さん、介護施設に入ってるでしょう。昨日の夜、突然、意味の分からない言葉を叫び出して、職員さんを叩いたって。暴れるのも、錯乱するのも初めてだったらしくて……」


 根津は、その報告に即座に反応しなかった。だが心中では、ひとつの仮説が現実味を帯び始めていた。

 嘔吐。発熱。錯乱。――それらが単なる偶発的な出来事である確率は、日を追うごとに低くなっている。

 特に、美保の話に出てきた高齢者施設は、昨日掲示板で「水がまずい」と投稿されていた○○地区のすぐ近くだ。


 「……で、食中毒か何かだって?」


 「ううん、食事前だったって。水しか口にしていないって……」


 その言葉が、根津の中で最後の防壁を崩した。


 根津はすぐさま車の鍵を取り、上着を羽織った。


 「スーパーに行ってくる。水を買い足しておく」


 「うちにもまだ何本か残ってるわよ?」


 「念のためだ。数日は、なるべく水道水は使わない方がいい」


 美保が不安そうに頷いたのを確認し、根津は玄関を出た。


 スーパーの駐車場は、土曜の午前とは思えぬ混雑だった。車列は敷地外まであふれ、入口にはレジ袋を手にした主婦たちが行き交っていた。店内はさらに混沌としていた。特売日でもないのに、飲料水の棚の前だけが、異様な人だかりになっていた。


 根津が棚にたどり着いたとき、そこにはすでに残り数本の2リットルボトルしかなかった。家族連れの主婦が2本を抱えて去った直後、根津は棚に手を伸ばし、最後の3本を確保した。


 その時、隣にいた若い男が言った。


 「水、やばいって噂っすよね。Twitterでもけっこう騒いでますよ。“味が金属っぽい”とか、“飲んだら頭がボーッとした”とか……」


 男は軽口のように話していたが、口元は乾いていた。


 「市が否定すればするほど、逆に不安になりますよね」


 根津は返答せず、レジへと急いだ。店内アナウンスが流れ、「飲料水の購入はお一人様3点まで」と繰り返していた。


 帰宅後、根津はすぐに浴室へ向かった。自宅の給水系統は、水道局勤務時代に彼自身が配管を図面から設計したものだ。給湯器を通さずに、水道管から直接引いた蛇口を開く。

 水は透明で、においも強くはなかった。だが――根津は湯桶を取り、風呂桶に水を張ってしばらく静置した。

 数分後、表面に何かが浮いているように見えた。肉眼ではとらえきれないほど薄い、半透明の「膜」だ。湯気ではない。光を斜めに当てると、表面張力とは異なるゆらぎが見える。まるで、ごく細かい油のような反射を放っていた。

 指先を浸してみる。抵抗はない。ぬめりも感じない。ただ、直感が言っていた。

 これは、普通ではない。

 蛇口を閉じ、水を捨てた。湯桶を洗い流すと、微細な泡がふわりと残った。


 台所に戻ると、美保が背中を向けて食器を洗っていた。蛇口から流れ出る水の音が、耳に痛かった。


 「美保、水道水は極力使うな。手洗いも、煮沸してからにしろ。できるだけミネラルウォーターで」


 「……わかった。あなた、何か知ってるの?」


 「いや。確証はない。ただ、予感がする。これは、長引く」


 美保の背筋が、わずかに強張った。


 町の水は、まだ透明だった。においも、わずかだった。

 だが、それは変化していないことの証明にはならない。

 見えない濁りは、すでに町の水脈を伝って、静かに人々の体内へと入り込みつつある。

 症状は断続的に、無秩序に、そして徐々に深刻化していた。

 だが市は依然として、「異常なし」を掲げていた。

 水を口にした者たちの中に、次にどんな“症状”が現れるのか――根津には、もはや予測がつかなかった。



***


 日曜の朝。天気は快晴だったが、町を包む空気は重たかった。

 市内のスーパー数店では、すでに飲料水が売り切れ、代わりに並ぶ500mlペットボトルのスポーツドリンクにも、品薄の貼り紙が掲げられ始めていた。

 テレビを点ければ、ローカルニュースが同じ文言を繰り返していた。


 「――昨日、市内の高齢者施設にて複数の入居者が錯乱状態となり、施設職員が救急搬送したとのことですが、市では現時点で水道水との関連性は認められないとの立場を取っております。なお、本件についての公式コメントが、市役所広報より発表されています。ご覧ください」


 画面に映ったのは、市の広報担当と見られる中年男性だった。ノーネクタイに無表情の口調で、淡々と定型文を読み上げる。


 「現在確認されている体調不良につきましては、感染性胃腸炎、精神的要因を含む複合的なものと考えられておりますが、現時点で飲料水との明確な因果関係は確認されておりません。なお、水質は国の定める水道法に基づき、適切に管理されております」


 その映像の下には、今朝の新聞の社会面と同一の文言が並んでいた。


 「……何も変わらない」


 根津はテレビの電源を切り、ため息をついた。

 行政の発表は、市内メディアにとって唯一の「正規ルート」だった。記者たちが現場を歩き、自ら水を舐めて検証したわけではない。行政が「異常なし」と言えば、それは「異常なし」として紙面に載る。市の顔色をうかがいながら生きる地元メディアに、独自の調査報道を期待するのは難しかった。

 「確認されておりません」という言葉は、万能の盾である。

 だが、それは「無い」とは言っていない。ただ「証拠が出ていない」だけだ。


 根津は立ち上がり、上着に腕を通した。


 「ちょっと役所に行ってくる。点検記録、見てくるよ」


 「日曜なのに?」


 「休日でも、資料室は午前中だけ開いてる。庁舎東側の通用口から入れるはずだ」


 美保は不安げな表情を浮かべたが、止めようとはしなかった。

 根津の背中に、かつての“現場の技術者”の気迫が戻ってきていることを、彼女は感じ取っていた。


 市役所は、町の中心部にある五階建ての庁舎だった。日曜の午前、人通りは少ないが、駐車場には報道車両らしきワンボックスが数台止まっていた。警備員は一人、正面玄関脇に立っていたが、根津が「資料閲覧申請」と言うと、特に怪訝な顔もせず通してくれた。


 だが、資料室のある1階奥の窓口で、彼は壁に突き当たる。

 応対に出てきた女性職員は、若く、制服の襟元まできっちりボタンを留めていた。


 「申し訳ありません。現在、技術資料室は閉鎖中となっております」


 「閉鎖? いつから?」


 「四月末より。庁舎内配線点検と書庫の改修作業のため、立ち入りおよび閲覧業務は停止しております」


 「……それは、公式に掲示されているのか?」


 「はい、市のホームページにも告知が出ております」


 根津は納得しかねた表情で窓口のガラス越しに視線を送った。

 奥には、書棚と書類箱が整然と並んでおり、特に工事中の気配はなかった。蛍光灯も点いていたし、奥のカウンターでは高齢の男性職員が一人、静かに書類整理をしていた。


 「私が見たいのは、今年の浄水場の点検記録と、過去三ヶ月の水質検査報告だ。一般公開されているものだろう?」


 「現在はすべて、閲覧停止中となっております。恐れ入りますが、再開は六月以降の予定でして……」


 その言い回しの冷たさに、根津はそれ以上食い下がる気を失った。


 「……わかったよ。手間をかけたな」


 会釈をして窓口を離れた。通路を引き返しながら、薄暗い階段脇の自販機コーナーで足を止める。機械の冷たい光だけが、建物の内側に残っていた。


 通路の奥、職員専用通用口から一人の女性が出てきた。

 名札が揺れ、その名を告げていた。白石優菜――水道局技術課。


 根津は思わず足を踏み出しかけた。あの白石か、と記憶が動いた。

 若手時代から現場に強く、配水系統の再設計にも携わっていた。根津が退職する数年前、一度だけ現場で同席したことがある。

 今、彼女が何を担当しているのかは分からない。しかし、もし今も技術畑にいるのなら、彼女なら何かを知っているかもしれない。


 声をかけようとして、根津はふと立ち止まった。

 果たして、彼女は自分の名を覚えているだろうか。

 仮に覚えていたとしても、元職員の独断行動を、今の組織の中で歓迎するとは限らない。

 下手をすれば、面倒な老人として警戒されるだけかもしれない。


 白石は、スマートフォンを見ながら歩いていた。誰かにメッセージを送っている様子だった。すれ違いざま、彼女は根津の存在に一瞬だけ気づいたようだったが、何も言わずそのまま通り過ぎた。

 階段の陰で立ち尽くした根津は、天井の蛍光灯の白さが異様に目に染みるのを感じていた。

 情報は遮断されていた。報道は沈黙し、資料は封鎖され、若い職員の背中さえ、遠い。

 だが、町の水は、確実に変化していた。

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