11:発信と遮断
夜半過ぎ。
根津耕太は、書斎の蛍光灯の下で、文字を打ち続けていた。
古いノートパソコンのキーボードを叩く音だけが、沈黙の空間に響いている。
傍らの机上には、汚染を裏付ける水質検査表、旧管網の配線図、そして坂井環境開発の事業報告書が整然と並べられていた。
投稿の文章は、推敲を重ねて七度目の修正に至っていた。
> 「この町の水は、安全ではありません。
市民の健康被害は、単なる偶然でも風評でもなく、行政と企業の癒着が生んだ構造的な汚染です。
旧浄水場跡地に埋設された不正な薬品廃棄物、および廃止されたはずの配管を経由した通水が、その証拠です。
私が元・水道局職員として三十年間守ってきたものは、静かに崩壊しています。
すでに高齢者施設や小学校で発症例が複数報告されています。
これを放置すれば、次に倒れるのは、あなたやあなたの家族かもしれません。
声を上げてください。まだ、間に合うと信じています。
――根津耕太(元・鎮波市水道局)」
添付ファイルとして、汚染区域の地図と配管系統図の改訂版、旧水質検査資料のコピー、写真付きの現地状況説明をPDF化して添えた。
投稿先は、国内最大手のSNSである「X(旧Twitter)」。
フォロワー数は少なくとも、これを誰かが拾い、拡散すれば十分に影響を及ぼし得るはずだった。
送信ボタンを押したのは、午前0時19分。
画面には、「投稿を受け付けました」の青い通知が表示された。
だが、その投稿が表示されたのは、わずか3時間にも満たなかった。
午前3時過ぎ、再びログインしようとした根津の画面には、真っ白な背景に簡潔な一文があった。
> 「このアカウントはガイドライン違反により停止されました」
投稿内容は全て削除されていた。引用もリポストも検索にかからず、キャッシュすら残っていなかった。
根津は無言でモニターを見つめた。
削除理由の詳細を問うリンクをクリックしても、「審査中」の表示のまま画面は変わらない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
白石からのメッセージだった。
> 「私の方も……アカウントが凍結されました」
> 「不正な情報拡散の警告通知が出て、何も操作できません」
根津は受話器を取り、島村の番号をダイヤルした。
数日前、共に旧施設を調査し、汚染の確信を共有した唯一の協力者だった。
ワン……ツー……スリー……。
呼び出し音が無機質に響く。
しかし、四度目のコールの後、唐突に音が途切れ、無感情な自動音声が流れた。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません――」
根津は、顔をしかめ、もう一度番号を確認した。
間違えてはいない。
二度目の発信。呼び出し音は鳴らないまま、すぐに同じ機械音声が繰り返される。
「……おかしいな」
思わず口の中で呟く。
念のため、携帯電話のリダイヤル履歴から、前回の発信と同じ番号であることを確認し、もう一度発信。今度は、ワンコールも鳴らず、ただ沈黙ののち、自動音声すら流れず、通話は切れた。
しばらく受話器を持ったまま、根津は動かなかった。
――ただの通信障害か?
――それとも、番号変更?
否、直感はもっと冷たい何かを告げていた。
島村が、何かを止められた可能性――あるいは、自ら沈黙を選ばざるを得なかった可能性。
根津はゆっくりと受話器を戻し、机に置かれた手帳をめくる。
そこには島津の自宅の固定電話番号も書き留めてあった。
指先がそこに触れた。だが、かけることはなかった。
無言で閉じた手帳の表紙を撫でながら、根津はただ一点を見つめていた。
言葉にならない“兆し”が、暗い水底から、じわじわと浮かび上がってくるようだった。
***
午前九時。
根津耕太は、分厚い封筒を片手に、なんば市駅前にある地方新聞社のビルに足を踏み入れた。
内部は想像以上に静かで、平日の朝にしては活気が薄かった。
受付で訪問目的を告げ、待つこと十五分、三階の編集部へと通された。
対応に現れたのは、四十代半ばの編集デスクだった。顔に疲れの滲む男で、応接用の小机に腰を下ろすなり、根津の資料に目を通し始めた。
封筒に入っていたのは、水質調査報告の改ざんデータ、旧配管図、現地写真、市議会での発言記録を整理した文書群である。
全て、根津が数週間かけて突き止めた“汚染の証拠”であった。
「……これ、もし本当だとしたら、相当な話ですね」
男は声を低くしてそう言いながら、書類の束を伏せた。
根津は静かに頷いた。
「証拠は揃っています。市の水が、汚染されています。それを、市も企業も隠している」
「子どもが、老人が……今も被害に遭っているんです」
男は眼鏡を外し、指で目頭を押さえる仕草をした。
そして、沈黙ののち、小さく首を横に振った。
「申し訳ないですが……今回は扱えません」
根津は、一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……なぜですか?」
「ご高齢で失礼かもしれませんが、これは市政全体に関わる話です。坂井環境も後援企業でしょう。市長の名前も出てきますね。いま、市とメディアの関係は……非常にデリケートでして」
「つまり、載せるなと、言われてるんですね」
男は答えなかった。
ただ、机の上に置かれた封筒を、そっと根津の前に戻した。
根津は、それを無言で受け取り、立ち上がった。
**
次に向かったのは、東京に本社を置く週刊誌の地方支局だった。
かつて市の公共事業を批判的に取り上げた実績がある。わずかに期待を抱いて、データを渡した。
対応した記者は若く、興味深そうに話を聞き、資料も快く受け取ってくれた。
「面白い話ですね。編集部に掛け合ってみます」
しかし三日後、電話で返ってきたのは、冷ややかな通知だった。
「申し訳ありません。編集会議で掲載見送りが決まりました」
「政治が絡む話は、うちは難しいんです……タイミングも悪いとの判断で」
根津は礼だけを言い、電話を切った。
受話器の向こうにあった熱意は、所詮、紙の温度にすぎなかった。
***
その夜、食卓に並んだのは、いつもと変わらぬ煮物と味噌汁だった。
妻・美保は、淡々と箸を動かし、根津の疲れ切った表情に多くを尋ねなかった。
壁際のテレビでは、市内の熱中症注意報とオリンピック選考会のニュースが交互に流れていた。
「水道に異常はありません」
一瞬だけ流れた市の広報映像には、白く加工された笑顔の市長が映っていた。
根津は、箸を置いた。
「……これが、真実の封じられ方だよ」
低く、掠れた声だった。
美保は手を止め、ゆっくりと頷いた。
湯気の立つ味噌汁の向こうに、言葉のない理解だけが静かに広がっていた。
外では、雨が降り始めていた。
静かで、やけに冷たい雨だった。




