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10:見えない圧力

 午後九時過ぎ。

 なんば市医師会の公式サイトには、いつも通り、感染症対策の啓発ページが表示されていた。だが、そのわずか一時間前、一件の匿名投稿がX(旧Twitter)に現れていた。


 《内科医です。現在、市内で続発している嘔吐・錯乱・発熱の患者について、複数の症例で共通項が水道水のみという報告が上がっています。体液中の塩素濃度にも異常が見られる。行政は因果関係を否定していますが、現場はすでに限界です。》


 投稿者は実名を伏せていたが、医療関係者であることをうかがわせる専門用語や症例の記載は、他のユーザーの注目を一時集めた。

 だがその投稿は、十五分後には削除された。

 キャッシュやスクリーンショットを残す者もいたが、それ以上の広がりは、どこかで止められたかのように急速に沈静化した。


 翌朝、根津のもとに一本の電話が入った。番号は非通知だった。


 「……根津さんですか。私、なんば中央病院の者です。人づてに、元水道局に勤めていた根津さんがなんば市の水のことを調査してると聞きまして。直接はお話しできないのですが……お伝えしたいことがあります」


 女性の声だった。息をひそめるように、低い声で続ける。


 「うちの内科部長が、昨日、医師会の名義で市から呼び出されました。“職務上の守秘義務を徹底するように”と……。直接的なことは言われていませんが、『不用意な発言は、混乱を招く』と。まるで……『口を閉ざせ』と言われたようなものでした」


 「……ありがとう。それでも、こうして連絡をくれたことに感謝する」


 「どうか……気をつけてください。見えないものが、動いています」


 通話は短く終わった。

 根津は、手にした受話器を静かに戻すと、しばらくのあいだ、何も言わずに窓の外を眺めていた。街路樹の葉が風に揺れている。何も変わらぬ日常のようで、その内側では確かに、声なき力がうごめいている。


 その日の午後、根津は市役所の食堂で白石優菜と落ち合った。

 彼女はすでに到着していたが、所在なげに窓際の席で指先を落ち着きなく動かしていた。


 「来てくれてありがとう。……元気ないな」


 「……根津さん、わたし、少し前に課長から呼び出されて……」


 白石は、苦笑とも諦念ともつかない表情で言葉を継いだ。


 「あの話題は、職務中に口にしないようにって。言われたんです。あの話題って、もちろん水のことです。理由も説明もなかった。ただ、課内でその件に関する資料請求や会話は、当面差し控えるようにって……」


 「誰が言ったんだ?」


 「総務課経由で通達が下りたみたいです。口頭でしたけど」


 根津は、声を出さずに息を吐いた。

 静かにテーブルに指を置くと、かすかに震えていた。


 「優菜さん……あんた、それでも話してくれたんだな」


 白石は俯いたまま、わずかに頷いた。


 「黙っていれば、きっと誰にも怒られずに済む。でも、それで済ませていいのかどうか……だけど、私の中に何かが、このままではいけないと言ってます。根津さんにお見せしたい物があります。ここでは渡せないので、夕方、駐車場で待っててください」


 窓の外では、学生たちが何気ない笑顔で通り過ぎていく。だがその風景さえ、どこか薄い膜の向こう側のように見えた。

 根津は、その膜が何なのかを知っていた。語ってはならない空気。

 組織の中で人間の口を閉ざさせるものは、命令ではなく、「共通認識」という名の見えない枷だ。


 この町には、触れてはならない領域がある。

 それは、毒のように静かに広がっていた。



***


 午後五時過ぎ。

 役所の定時が過ぎ、人影がまばらになった庁舎裏の駐車場にて、白石優菜は無言のまま、茶封筒を根津に手渡した。

 その表面には、手書きで「平成29年度 旧水源地水質試料(未提出)」とだけ書かれていた。


 「誰にも見られていません。……たぶん」


 声は小さかったが、手渡す指先に迷いはなかった。


 根津は封筒を開けると、その場で中身に目を通した。

 黄ばんだコピー用紙に並ぶのは、複数の測定値。硝酸態窒素、塩化物イオン、化学的酸素要求量(COD)――いずれも、水質基準法における規定値を大きく上回る数値が、赤ペンで二重丸をつけられていた。


 「……これは、誰の保管下にあったものだ?」


 「文書庫にはありませんでした。環境課の個人ロッカーです。もともと正式提出されなかった資料の控えのようです。決裁印もない。つまり、存在しないものとして扱われていた」


 根津は封筒を手にしたまま、短くうなずいた。

 彼にとって、数字は言語に等しい。30年にわたり、水道設備の設計と保守に従事してきたその頭脳は、瞬時にそれらの値を現場の映像として結びつけた。


 「この濃度じゃ、地中の中継タンク内に何かが混入していたとしか考えられん。土壌からの自然浸透では説明がつかん数値だ。そして、汚染の拡散方向は下流の第五配水系統……」


 彼は、持参していた古い管網系統図を広げ、蛍光ペンで線を引いた。

 旧浄水場跡から延びる地下管。いまは“廃止済み”とされていたはずのそのルートが、赤線で明確に示されていく。

 そして、汚染症例が集中している区域と見事に重なる。


 「……これで、行政も否定できないはずです」


 白石の声が、思いのほか冷静だった。


 根津は黙ったまま頷いた。

 その表情に、勝利の色はなかった。

 むしろその顔は、これが始まりであることを理解している者のものだった。

 証拠を得たという事実は、すなわち、それをどう扱うかという責任を同時に生む。


 「誰が見てもわかる形でまとめよう。言い逃れのできない図式を」


 白石は、迷いのない目で返した。


 「はい。わたしも、もう逃げません」


 二人は、封筒と図面をカバンにしまうと、互いに何も言わず、駐車場を後にした。

 秋の風が、乾いた舗装路を這うように通り抜けていった。


 その夜。

 根津の作業机では、調査報告用のファイルが開かれていた。

 そこには、行政が伏せ続けた数値、繋がる配管の経路、そして静かに崩れ始めた町の地図が、一枚一枚重ねられていった。

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